2011/03/08

(2)目の前にあります

降り立ったサイパンの夜は、蒸してはいたが海風のせいで快適である。
空港というのは、真夜中でももっと光が煌々と照っているものだと思い込んでいたのだが、税関を抜けて外に出ると、あっけないほどの暗闇が広がっていた。
目の前には数人の運転手らしき人々。名前とホテル名を聞かれる。


ネットで見つけたホテルは、「スタート地点の目の前にあります」という素っ気ない惹き文句がついていた。今回はそれで十分と即決した。一流ホテルよりも少し安い。一つ星。果たして一人客を真夜中に迎えに来てくれるんだろうか、と心配したが、少し待つと私の名前を書いた紙を持った運転手さんが話しかけてきて、スーツケースを引っ張って駐車場の生温かい暗闇へとずんずん進んでいく。

よく考えてみると、真夜中に一人、外国でタクシーに乗るのは危険なのかもしれない。
殺されてしまえばそれはそれですっきりするが、最悪なのはパスポートだけ取られてそこらへんに放置されることだな、そう、時間切れで保険にも入れなかったし、などと想像が膨らむ。
そんな私の考えなど知る由もなく、運転手さんはドライバー席に座って振り返った。
「シッツ・ベ」彼は言った。確かにそう聞こえた。
「は?」聞き返すこと数回。シートベルトと言っているのだとようやく分かった。
どうも耳が悪いらしい。
数年前も、青山を歩いていたら外国人が通りかかって、一生懸命同じ単語を繰り返すのだが聞き取れない。10回ほど聞き直しても分からず呆然としていたら、やはり通りすがりの日本人が「インターネットカフェと言っているんですよ」と教えてくれた。
以来自分の英語耳には自信がない。

ともあれ、黙っているのも間が悪いので、拙い英語で会話する。
先方も私とさして変わらないゆっくりと、「シートベルト」以外の単語は聞きとりやすい発音で話してくれる。バングラデシュから来たのだと言った。どうして来たのと聞くとmarriageと答えた。父母兄弟はあるが自分の家族がない。目下探し中なと。なるほど。これからですよと励ましてみた。通じたらしい。
日本は季節はいくつあるのか、というので春夏秋冬だと答えると、得意げにうち(バングラデシュ)には5つある「Rainy season」だと言う。無邪気なおじさんである。

メニメニピポカムフロムジャパン。フォー、ラン、と珍しそうに言う。
まあ、年中こんな快適な地に住んでいる人には、走るためだけに飛行機に乗ってやってくる人間の気持ちは分からなくて当然だろう。
私は走るのは遅いし、疲れたら歩くかもしれない、と言うと、You should run、走りに来たんだから、走りなさいよとしかられる。はいはい。
そうこうするうちに空港から20分程度でホテルに着いた。

そそくさとチェックインを済ませる。部屋は2階。荷物を置くや、睡魔が波のように押し寄せてくる。かろうじて携帯のアラームだけセットした。冷房が強すぎる。隣のベッドからベッドカバーと毛布をはがしてきて、2枚頭からかぶって、眠る。



目覚めてカーテンを開けると、もう陽は高く昇っていた。少し曇天ながらも、南国の日差し。風が強いのか、雲が流れ、椰子の葉がなびいている。

改めて見まわしてみると、部屋には水がない。ポットもない。ドライヤーもない。モーニングすらない。テレビ画面はうっすらカラーながらも基本的に灰色で、雑音と横縞が入る。さすが一つ星。まずは水分が取りたい。隣にあるカフェに朝食に出かける。ロビーには、ラップトップPCのキーを叩く中年の男性が一人。玄関前には白い犬がぴたりと目を閉じて寝そべっている。
そして、目の前には、アメリカンメモリアルパーク。

深く眠る犬。(シャッターを切っても耳ひとつ動かさない)