日野原重明さんと現代美術家の篠田桃紅さんの対談をテレビで見て、というところで少し反省。
最近、本を読むよりテレビの録画を見ているほうが多い。うーん。
気を取り直して。
さすが双方100歳超の方々の存在感は、もうただものでないとしか言いようがないんだけど、篠田さんが話すのをじっと見たのは今回が初めて。
気風がいいというか、きりりとしていて、かっこいい103歳。すてき。
語録が何冊か出ているから、全部読めば正確なものがあるかもしれないけれども、記憶に残ったのはだいたいこんな内容だった。
「わたしは自分を買いかぶっている。できあがった自分の作品を見て、自分はこんなもんじゃない、もっとできるはずだと思ってしまう。謙虚さがないのね」
買いかぶりで謙虚さがない、という表現が気に入ってしまった。
たぶん自分もそうだから。
実家に寄った帰りに、もうじき閉店するという近所の本屋に入ってみたら、ちょうど目につくところに置いてあったので、たぶんこれで最後の売上貢献。
アンテナに触れた言葉を少しだけ。
『一〇三歳になってわかったこと』篠田桃紅著 より、以下引用
「人が生まれて死ぬことは、いくら人が考えてもわかることではありません。現に私になにか考えがあって生まれたわけではありませんし、私の好みでこの世に出てきたわけでもありません。自然のはからいによるもので、人の知能の外、人の領域ではないと思うからです。(中略)それなら私は一切を考えず、毎日を自然体で生きるように心がけるだけです」
「(中略)名筆を写さなかったので、根がない、と嘲笑されました。手厳しい批評を受けて、私は、根とはなにかを考え、日記に次のように記述しました。
「私の根は、私が今まで触れたすべてでできている。家にある軸、額、書、紀元前の甲骨文字、古今集などあらゆる古典。また文字でないものでも、あらゆる影響、感動、拒絶すら、なんでもが私の根になっている」(中略)養分をいかに吸収し、形成するかはその人次第です。(中略)根は、他者にあるのではなく、その人自身の一切だと思っています」
「歌人の会津八一さん(明治十四~昭和三十一年)の歌に、法隆寺夢殿の救世観音を読んだ歌があります。
天地(あめつち)にわれ一人いて立つごとき この寂しさを君は微笑む
私は一人で天と地の間に立っている。この寂しさを観音様は微笑む、と詠んでいます。(中略)孤高の人でしたが、観音様をお連れにしていたのだと知りました。観音様もまた一人で立っている」
(ここまで引用)
篠田先生、今日からファンになりました。どうか、お元気でいらしてくださいませ。