このところ考えることがあって、眠れなかった。休日出勤のため3時半起きして始発に乗って仕事を片付けてきた人間に眠れないのはきつい。
特に狙ったわけではなく、時間枠録画してあったBSの番組にノイズムの作品が収録されていた。金森穣さんが語っている場面があって、図らずもそこに答えがあった。
ああそうか、criteriaを変えよう、と思った、50歳の誕生日を迎えた週の終わり。またははじまり。
以下引用
あくまでも金森穣個人の、プロの舞踊家ってどんなものだろうってことをお話しをするとするとすれば、単純に舞踊を信じている人。それは信仰に近い。なぜ舞踊をするのか、信じてるからなんですよね。その力を、可能性を。それを信じ続けるって、あるいは信じるって、そんなに簡単なことじゃないんですよ、好きなことと信じることは違うんで。舞踊を好きな子達はたくさんいて、でも舞踊を信じてる子って、そんなにいないんですよ。あるいは信じられる子ってそんなにいないんですよ。それはイコール、自分を信じなければいけないし、先人を信じなければいけないし、未来を信じなければいけないし、で信じるためにはその対象を理解しなければいけないし、探求しなければいけない。舞踊とは何か、踊るとはどういうことか、身体とは何か、光とは、音楽とは、空間とは。あらゆることに探求心を持ち、追求していかなければいけないんですよね、終わりがないんですね。
別件。
「進化論」さんの「繰り返し学ぶに足るコンテンツでなければ学ぶ意味がない」に納得。(以下ざっくり大枠は引用、多少解釈あり)
「程よい抽象度合いでメッセージをお伝えする」というのは、簡単なように見えて難しい。
具体に寄り過ぎれば他人事としてスルーされるし、抽象すぎても引っかかりどころがなく実践につながらない。程良い抽象度合いだからこそ聞く側のとりようによって自分事に聞こえるため繰り返し聞きたくなるし、受け側の感度や経験値の増加によっては聞いただけ新しい発見がある。
「これは!と思ったコンテンツを徹底的に学ぶ」こと。あれもこれもやらないんですよね。一つの体系化された意思決定基準を身体に落としこめるまで徹底的に反復し、定着を図る。
冒険にも修行にも出ますが、これは!と思ったところにはなんとか食い下がって(笑)お世話になります。間口は広げすぎず。
今を去ること何年前か忘れたほど前に弾いたことのある親しみ深いドビュッシー「月の光」、やっぱり好きでした。