常々読んでいるウチダ先生のブログで、気になったのがこの文章である。
「強い身体は微弱なシグナルに反応できない。「傷つきやすい身体」だけが「傷ついた身体」からのcalling を感知できる。機械はvulnerable ではない。だから、機械は「逸脱」は検知できても、「弱さ」は検出できない。弱さというのはアウトプットそのものではなく、ある種のアウトプットを生み出す「傾向」のことだからである。ナースの中には「死臭」を嗅ぎ当て、瀕死の人のかたわらに立つと「弔鐘」の音が聞こえる人がいるそうである」ブログ「内田樹の研究室」より引用
すぐに思い浮かんだのは、20代半ばの頃、縁あって(というか仕事だが)40代後半の女性と同居させてもらっていたときのことである。同居女性は「私は、悪い風邪をひいている人と、そうでない人の区別ができる、肌で感じる」と言っていて、「へえ、そうですか」と聞きながら、内心、ほんまかいな、と思っていた。ところが最近、バスに乗っていて、これが確かに肌で感じられることに気がついた。発生源と思われる人物から1.5mほども離れているのに、主に上半身がぞわぞわする。あの話は、ほんとうだった。年のせいもあるのだろうか。くだんの同居女性は強そうに見えたけれども、傷つきやすい身体を抱えていた人だったんだろうかと、今にして思う。
ところで、引用文の中で、何がいちばん目からウロコ的だったかというと、機械は逸脱は感知できても弱さは感知できない、弱さとはアウトプットそのものではなくそれ以前の「傾向」だから、というフレーズである。
たとえば。何か良くない事象が生じた場合、顛末報告をする。報告者が強調しがちなのはプロセスにおいて「逸脱はなかった」ということである。そういった定型的文言を見るたびに、おかしい、どこか何かおかしいんだよなと思うのだが、結局、そういうことだったのである。逸脱があるかないかを問題にするだけなら、つまるところ機械と同等レベルということだ。そこに逸脱以前の、アウトプット以前の微弱な「傾向」を見出せてはじめて、人が目で見た意味があるんじゃないか。またそれは、ブログの前段で触れられているシャーロックホームズのモデルたるベル先生と凡人の違いのように、その傾向を見出せる人と見出せない人とが存在する、ということでもある。
先日のトヨタの件から飛び火した人員削減がどうしても品質劣化につながってしまうのではないかという直感の、少しなりともの論理的裏づけは、「傾向」を見出せるだけの、経験または「心ある」人の眼が失われるから、ということなのではないだろうか。
まあ、ほとんど読者のいない当ブログにこんなことを書いたところで、どうなるものでもないのは、しみじみ、よく分かってはいるのだけれども、ね。