あたりまえの話だけれど、人間というのは多面性の生き物である。
ここに表わされたことに関することどもが、万一なんらかの事実や実物のわたしと異なるように思えたとしても、それは、人間というのは、概して、そういうもんですよね、ということであって。
あらためておことわりしておく。
弱っているときほど、いろんなことがいつも以上に身に沁みるのである。
それは、ひとの笑顔であったり、言葉であったりする。
そんなわけで今日は弱っていたので、本もぼちぼちだったが、
内田樹『私の身体は頭がいい』を取り出して読んでいた。
内田先生は思想家であるとともに武道家でもある。
師弟関係についてのエッセイに、これだけ尽くしたからこれだけのリターンがあってしかるべきものである、というような功利的な考え方は、真に重要なすべての人間関係にはそぐわない、というようなことが書いてあって、ほんとだ、なるほどと思う。
たとえば、育児とか。これだけ時間を割いたのだから、その分の見返りをよこせ、というのは間違っている。師弟関係もそのようなものであって、その場で、その瞬間ごとに完結していくものだ、と。
えっと、脈絡がないのは弱っているせいだ。
いや、いつものことか。
このところ村上春樹の話ばかりだが、この1週間で、もう3回は読んでいる。
今まで文庫本以外に英語本の朗読を聞いたりしたのを通算するともう20回ぐらいになる。
こんなに読んでいたら丸暗記していてもおかしくないんだけど、ああ、あそこにと思ったところを探すのにずいぶん時間がかかる。
村上さんは、まだ走っているんだろうか。
まだこんなふうに、いつもよりちょっと長く走ることもあるんだろうか。
「誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、…(中略)僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、その分自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。黙って呑み込めるものは、そっくりそのまま自分の中に呑み込み、それを(できるだけ姿かたちを大きく変えて)小説という容物(いれもの)の中に、物語の一部として放出するようにつとめてきた」
村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』