父は宮城県の出身で、東北出身の同郷意識も手伝ってか、井上ひさしが好きだった。実家の本棚には井上ひさしが並んでいたので、小学校の高学年あたりからだっただろうか、じぶんがその著書を手に取る機会が多かったのも自然の流れかもしれない。
毎週日曜のBSプレミアムステージを時間指定で録画しているのは、時折掘り出し物のバレエやダンスがあるからで、好みのクラッシック演奏は聞くこともあるけれど、演劇の時は即削除が恒例となっているのだが、「井上ひさし戯曲」と聞こえてきたのであやうく削除を免れた「貧乏物語」を見て、結果的にたいそう面白かった。
先立って演出の方のトークがあって、それが一つ考えるきっかけになって、このところずっと頭の片隅にその言葉があるともなくある、というような日々を送っていた。だいたいこんなことをおっしゃっていた、と思う。
「井上さんの芝居はすごく饒舌。いろんな人間がわーっと喋っていて、だけどそのわーっと喋ってる言葉がぽん、と途切れた時に、ふっと訪れる、その「間」っていうんですけど、その間の静寂のあり方、実はその間の中に、人間が本当に思っている真実の声がわーっと観客の中に生まれるのが、一番演劇として好きな方向なんですね」
「すごく大事なことなんですけど、演劇って登場したものとか語られているものとかではなくて、その背後に、言葉の裏側に何があるのか、その風景の裏に何があるのか、その存在感」
だいたいダンスのことに翻訳して考える癖がついているので、確かにダンスで人間が生み出せる線というのは限られていて、線のないところに何が生まれるのかというのが、やはり正味なんじゃないかと思ったわけです。
中野のスタジオで、いつだったか、先生が、はいその手の1万キロ先を見て、みたいなことをおっしゃったことがあった。1万キロだったか1万光年先だったか、ちょっとよく覚えてないけれども、それほど広くないスタジオで、そういう想定外の単位の距離が出てきたことに結構驚いた。例えばそういうことだ、と思った。
某日、hiphopのクラスで、折しも先生が「間」について語られるのを聞きながら、そんなことを思い出していたんだけれども、先生は「間」は自由だ、というようなことをおっしゃった。そうか、線は有限だけれども、たぶん間は自由だ、もしくは想像力、または無限だ、そう思って、なんだか楽しくなった。