どうでもいいことほど、意外に気にかかるものである。
最近、南アジアの某国に書類を送って、なにごとか記載して送り返してもらうことが2回あった。このご時世にメール添付で送れないのだから、それなりの書類なはずだったのだけれども、1回目は3枚の書類にホチキスの穴が貫通して(針は抜かれていたけれども)返ってきた。その穴の位置というのも、A4縦長の書類なのに右側の下から3分の1あたりの奇妙な位置にある。
数日後、2通目。こんどは書類自体にこそ穴はあいていなかったけれど、書類を入れたクリアファイルに穴があいて返ってきた。(また針は抜かれていたけれども、跡が、くっきりと。)
おかしいなあ、送る前からあの穴はあったかしら(いや、絶対ない)と思いながら、深く考えずに仕事を続けていて、帰りの電車の中でようやく、気がついた(遅い…)。
ポストイットのかわりにホチキスでメモを止めているのだね。今にして思えば、クリアファイルにはセロテープの剥がし跡もあった。つまり、最初の人はメモをクリアファイルにホチキス止めして、次の人は、メモをテープで止めたわけだ。(逆かもしれない。)
いま日本のオフィスで働いている人間で、依頼用のメモを留めるのにホチキス使う人とか、クリアファイルにメモのホチキス止めを試みる人っていないだろうな。たぶん。事務スタイルにも想定外のことがいろいろあるものだ、とか、やっぱり、ポストイットって偉大な発明だったな、と思ったりする。
こんな些細なことでも、ひとつ謎が解けると、嬉しい。
茂木先生の朝カル。京劇が専門で中国事情に精通した加藤先生という方との対談。
暴露系の話で受けてしまったが、漢文における模範的な文章とは何か、という話がひっかかる。
日本人で(たぶん英語でもそうなんじゃないかと思うけれど、)いわゆる格調高い文章といえば、形容詞のバリエーションが豊富というようなことを思う。
一方、漢文では、「左国史漢」(「春秋左氏伝」と「国語」と「史記」と「漢書」)が文章上達のための必読書なのだそうだが、すべて歴史書であり、一言でいえば、簡潔を旨とする、という。「美人あり、名は虞」、みたいな。
中国という、ヨーロッパに相当する広い地域が一つの国であると住民に認識されていたのは、漢文という、口語とは別次元の士大夫層が使用する言語が長年共通だったからではないか、というお話もあった。
反面、中国というのは、もちろん孔子とか有名な人たちはいるけれども、割合処世術的なところが主だし、いわゆる哲学的な思索というところは弱くて、インドで出た仏教が中国全土で広まったのも、それが漢文にない要素だったからじゃないか、というような話も出たりした。
おそらく、メッセージが簡潔であること、というのは、広い組織を束ねるのに重要なんだな、という気がしている。
情緒的なものを伝えようとすると、だらだらと(こういう)長文になるのだが、そんなものを切り捨ててしまえば、それだけメッセージは強くなる。
おそらくそれは、非常に実際的なメッセージになる。だからきっと、中国の人というのは、そういう面のスキルが、概して、高いんじゃないだろうか。
明けて本日。こうして書き出してみて、あらためて。本音のところ、実際のところ、口語的な様々は非常に異なるものたちが、何かの理由で繋がっているためには、ほんとうに「実」のところ、重要なところ、昨日の話でいえば「漢文」にあたるところ以外は捨ててしまう。簡潔な共通項にのみ注目し、合意する。それはきっと、今なら、ビジネス上の実利と置き換えてもいいかもしれない。様々に異なる「本音」を見せないことは「罪」ではなくて、むしろ、繋がっているための「功」である、という、きっぱり潔い考え方も、悪くない、とは思う。
一方で、やたら冗漫な文章をたらたらとものしてもいるわけで。(なかなか白黒はっきりしない性質でして。。)