少し昔のエッセイに、「男好き」は実践派、「いい男好き」は遠くから眺めて楽しむ鑑賞派、という分類が載っていたけれど、その分類でいけば自分は間違いなく後者になる。
トークショーや講演を好むのも、やはり、いいオトコを眺めていい話を聞いているのが好きだからかもしれない。その証拠に、あまり女性の講演をすすんで聴きに行った記憶がない。いや、でも内田光子のリサイタルとリサ・ランドールには行ったか。こじつけだったかもしれない。
ともあれ金曜は中沢新一先生のお話を伺いに池袋ジュンク堂に行く。しばらく遠ざかっていて、いまどういった動向かなどはとんと分からず、でもしばらく「店長」でいらっしゃるので、とりあえず書棚を見てこようか、と。
わたしとは違って、熱心なファンが一言一句、といった様子でノートテーキングしている姿を見かけたので、そういうのはほかに譲るとして。。
店長トークはシリーズの2回目だそうで、前回のお題は「本との出会い」だったらしい。今回は「思想との出会い」。
中沢さんは、お父上の承諾を得て揃え始めた世界の名著の第一冊目でニーチェに、がつんとやられてしまったそうだ。一言でいえば、そこから音楽が聞こえた、と。
魚が水の中にいるような身体性を伴った、それでいて、少し溶けかけて今にも割れそうな氷の中にずぶずぶと足を踏み入れてしまったときのような、内臓の奥底、無意識との堺ににひたひたと波打つ何かに触れるような、昆虫の触覚が世界に触れるときのように、ふるふると震える「気分」を伴った、ただの知識と論理の羅列だけでない何かーその何か、が言葉に乗らない、という話を2時間えんえんとされたわけだから、ここでうまく書くことなんてできるわけもないのだけれども―そういう実にプライベートな内面のふるまいを、半死半生の思いでたたき出してきて、他人と共有できる「言葉」もしくは「論理」の中に、辛うじてなんとか痕跡を残そうとした、そういう身体性や、気分、もしくはそれを音楽といってもいいけれど、それを感じられる思想こそが思想なんじゃないか。という、とてつもなく熱いお話。
テキストにユリイカ1988年10月号に掲載の「方言論」を使われたのだが、トークが始まる前に読んでいて、ここで引かれているハンガリー語の話と深沢七郎の文体の話にひどく惹かれてしまった。
というのも、こういうことをこの年で今更思うのもなんだけれども、なんか日本語がうまく使えないんですよね、ほんとに。最近は、何を書いても、うそっぱちな気がして。まるでティーンエイジャーみたいですが。
かつての中沢さんの場合、それは日本語という言語が、自分の内面のふるまいに合わない言語構造だからなんじゃないか、むしろハンガリー語のほうが内面のふるまいに合ってるんじゃないか、と展開していくあたりが、とても素敵だとおもった。きっと、わたしの中にもハンガリー人がいるに違いない。
しかし。そこへもってくると、音楽はすごい。感情、気分といったものを言葉より的確に表現するという点で、音楽は謎だというようなことをレヴィストロースは言ったんだそうですが、いや鳥のさえずりには負けるかもしれないけれど、音楽は深い、人間の心のどこを巻き込んでいるものなのかと。まさしくそうですね、ふしぎ、と何度もこくこくと肯いてしまう。
こういう話がまとまるはずもないんだけれど、はい、そうなんです、えらく心動かされるお話でした、ということを残しておきたかった。
4ヶ月毎に定期健診に通っている行きつけの歯科では、どうも思うように効果が上がらないので、年末から職場近くの大学病院の歯科に行くことにした。お会計も極めて明朗で、予約すれば待ち時間も短い。気に入っている。この病院には取引先の機器が置いてある。関係ないといえばないけれど、どことなく嬉しい。今日で3回目のこの先生も、厚めの眼鏡の奥の目がぱっちりして、睫毛の長いキュートな青年である。説明の仕方に、少しオタク風な特徴があって、新宿のハンズのデンタルグッズはなかなか品揃えが豊富なのですと教えてくれる。あ、と思い出したように、いえ、もちろん病院の売店にもありますが、と付け加えて、にこにこする。最近いい男にたくさん出会う。しあわせなり。
帰りにハンズでいろいろ仕入れて、ツァラトゥストラと中上健治を読みながら、帰る。