ジョギングという行為自体、瞑想的だと思うのだけれども、
ランニングマシンで走ることはより瞑想的だと思うのは、
内田樹先生の『修行論』の中の身体と瞑想という章を読んでいたせいもあるかもしれない。
なにしろ、めったにテレビを見たいという欲求も生じない
(ので、レディガガの写真を見せられて「誰?」と尋ねられても、えーっとよく見る人だよねーといいつつ名前が出てこない始末なわけだけど)
ので、マシンで走っていると、つい、カウンターの走行距離の数字の変化を追うことになる。1.01,02,03km....と、4歩か5歩走るうちに淡々とカウンターの数字が1ずつ増えていく。
周りの景色は変わらない。
風を感じるわけでもない。
自分が走っていることを証するものは、カウンターの数字の変化と、自分の心拍数が明らかに歩いているときと違っていることだけ。
今日はずいぶん身体が重くて、いつも0.5kmぐらい歩いたらすぐ時速9kmに上げるのだけれど、延々1.5kmほど歩きながら、ジムの外のきれいに晴れた空を見上げていた。
ふと思い出したのはランナーのバイブル(と勝手に思っている)村上春樹の例のあの本で、
村上さんが瀬古さんにインタビューしたときのことだった。
瀬古さんでも、今日は走りたくないな、という日はあるんですか、
と尋ねると、瀬古さんは、なんて馬鹿な質問をするんだ、というような顔で、
当たりまえじゃないですか、そんなのしょっちゅうです、と答えたという話だ。
そっか、瀬古さんでもそうなんだね、わたしがそう思うのも当たり前だ、と思ったら、
なんだか可笑しくなって、ようやく走る気になって、なんとかカウンターが4.5kmを示すまで走って、そのあとまた5.5kmに戻して5kmまで歩いた。
家に帰って「バイブル」を開いてみたら、瀬古さんのエピソードと同じページに
こんなことが書いてあった。
特になんの脈絡もないのだけれど、ほんとにそうだなと思ったから。
「学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、「もっとも重要なことは学校では学べない」という真理である」 村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』
100kmまで、あと14km。