なんだかふわふわした週末だった。
単に導入剤を飲み忘れて、よく眠れなかっただけかもしれない。
レッスンに出ているときだけ覚醒していて、あとはなんだかぼんやりしていた。
いつものように夕方実家に寄って、十六穀米のおにぎりを2つもらって帰る。
いただきもののちりめん山椒は、ごはんがないとなかなか進まない。
ラップで巻いただけの緩いおにぎりを箸でくずしながら山椒と梅干しといっしょにいただく。
ぴりりとして、おいし。
また長田弘「すべてきみに宛てた手紙」をぱらぱらとめくっていた。
こんなときにこんな言葉に出会うなんて。
心のどこかで探していた言葉を目の前に差し出してくれるのだから不思議だ。
「痛み」への手紙という最終章にエミリ・ディキンソンの詩が引用してある。
「一つの心が壊れるのをとめられるなら
わたしの人生だって無駄ではないだろう
一つのいのちの痛みを癒せるなら
一つの苦しみを静められるなら
一羽の弱ったコマツグミを
もう一ど巣に戻してやれるなら
わたしの人生だって無駄ではないだろう」
すてきな詩だ。
そんな何かが自分にできるだろうか。
続く後記にはこうある。
「書くというのは、二人称をつくりだす試みです。書くことは、そこにいない人にむかって書くという行為です。文字を使って書くことは、目の前にいない人を自分にとって無くてはならぬ存在に変えてゆくことです(中略)これらの言葉の宛て先である「きみ」が、あなたであればうれしいと思うのです」
たぶん、それとは関係のない話だけれども、
仮に、架空の宛先であった存在が目の前にあらわれて、二人称で自分を呼ぶというような事態が発生したら、どうなんだろう。
けっこう、どきどきしてしまったりするかもしれない。