前の派遣先ではじめて、本や雑誌の原稿以外にも文書校正という業務が存在するのを知った。お役所や取引先に提出する大部な資料に間違いがないかどうか、チェックするのである。医薬どころか医療機器メーカーに勤めるのも初めてで、右も左も分からない人間ができることというと、コピー、ファイリングに文書校正ぐらいのものであって、こんなことでお金をもらっていいのかしらというような作業内容なのだが、ヒマな上にお時給も、まあまあよろしくいただけたので、1年ほどいた。そこでは100ページほどの報告書ができると、4人のチームで校正をしていた。わたし以外は業務経験のある人たちで、彼女たちには、誤記や訂正すべき箇所が「まるで蛍光ペンでラインを引いたように」浮き上がって見えると嬉々として言うのだから、素人には到底うかがい知れない世界である。
チーム作業の場合は、レビュー結果を上司が当人のもとに持っていくからまだいいのだが、たまに個人で仕事を頼まれるときがある。これがまた嫌なもので、こんなところを指摘したら相手が気を悪くするに違いない、などと1箇所につき10分や20分程は逡巡したあげく、仕事だから仕方ない、と重い腰を上げ、「いやわたくしの勘違いかもしれません、不勉強ですのでよく分かりませんが」などと、長たらしく低姿勢な前置きをしてから、資料作成をしたご本人様に丁重に間違いと思われる箇所を指摘するのである。形だけでも感謝してくれる人は、ごく稀にいたが、少ない。当然、人間関係もよろしくなくなる。やはり、楽に給料はもらえないのである。
そんな経験があるせいか、自分も人間である以上、どんなにがんばったって、間違いは犯すものだ、と思うのである。その前提があればこそ、苦手な人にも頭を下げて目を通してもらう。不出来を教えてもらったら、瞬時に本心はついてこなくとも、形だけでも礼を言おうと思う。たとえ、それがどんなにつらくても、謝罪して済むことならば、隠さずに改めたいと思う。書くのは簡単だが実行できるひとは少ない。最後は自分の心との戦いである。
外資にいると特に、自分の過ちを認めない人間と多く付き合わなければならない。簡単にsorry とかapologize などと使うと軽く見られるから使うな、ともいう。しかし、たとえどんな慣習の人たちと付き合おうとも、どんな言葉遣いをしようとも、どんなに歳をとったとしても、まずは現実を見て、過ちであればそれを認めることのできる、自分自身に対して透明な人間でありたいと思うのである。