先週の後半からちょっと考えていることがあって、その時に目にしたのが内田先生のブログに掲載されていた「複雑化の教育論」まえがきの文章でした。
「「複雑化しよう」と自己決定して、自己努力の成果として変わったわけじゃないんです。量的な変化なら自己決定・自己努力で達成できます。体重を増やそうとか、声を大きくしようとか、俊敏に動こうというようなことならある程度までは自分で統御できます。でも、「複雑になる」というプロセスは統御できません。単細胞生物が多細胞生物になるようなものだからです。単細胞生物がより複雑な生き物になる時に、あらかじめ「下絵」を書いたり、工程管理をしたりすることができません。だって、多細胞生物がどんなものか知らないんですから。
それと同じです。子どもがより複雑な生き物になるというプロセスがどういうものかは、なってみないと分からない。気がついたら、複雑になっていた。
それはさまざまな「行(ぎょう)」の構造とよく似ています。宗教的なものであれ、武道的なものであれ、あるいは芸事の修業であれ、「行」というのは「前に進む」ということだけがわかっていて、いつ・どこにたどりつくことになるのかは分かりません。「行」の場合には「先達」がいますので、ただその背中についてゆくです。どこに向かっていて、いま全行程のどの辺まで来たのか、その行程を走破するとどういうことが起きるのか、そういうことを先達は何も教えてくれません。言ってもしょうがないからです。仮に目的地はどこかを言葉で言ってみても、その語は修業者の手持ちの語彙にはないからです。だから、たとえ聴いても意味がわからない。
武道の修業もそうです。それまで自分の身体にそんな部位があるとは知らなかった部位を操作できるようになり、そんな動きができると思ってもいなかった動きができるようになった後に、これまで自分が稽古してきたことの意味がはじめてわかる。
行の意味は事後的にしか開示されません。だから事前に「この行の目的はね...」というふうに説明をすることができない。」
「その語は修行者の手持ちの語彙にはないからです」ああ、これだと思いました。言葉として存在しても、自分に引き当ててみたときにさっぱり意味がわからない。そういう言葉について考えていたせいで、ひとしお身にしみました。
いやぁこれはこの本買わないといけない、と思ったんですが、アマゾンでは出てこなかった。そこでまあ仕方ないと、またはそういう気分だったからかもわかりませんが、同じく内田先生の「先生はえらい」をポチりまして、今ほどKindleで読み終えたところ。序盤のこの文章に出会ったところで既にハラハラと落涙いたしました。
「もう一度申し上げましょう。学ぶというのは有用な技術や知識を教えてもらうことではありません。
だって、シューマッハにアクセルワークを習ったときに、あなたは彼が何を言っているかぜんぜんわからなかったはずだからです。言ってることが、むずかしすぎて。何を言っているのか、ぜんぜんわからなかったにもかかわらず、というか、何をいっているのかぜんぜんわからなかったがゆえに、あなたは彼から本質的なことを学ぶことができたのです。
私は上で、プロの人なら言うことは決まっていると書きました。それは、「技術に完成はない」と「完璧を逸する仕方において創造性はある」です。この二つが「学ぶ」ということの核心にある事実です。」内田樹. 先生はえらい (Japanese Edition) (Kindle の位置No.285-289). Kindle 版.
コピー字数制限にひっかかりまして、これ以上引用できませんでしたが、先生による先生賛歌ともいうべき本書はぜひご一読いただきたい一冊です。
面と向かっては言えませんけど、やっぱり先生はえらい、としみじみと思いを巡らせる今日この頃でありました。