2022/03/31

2022年3月末

最近老眼が進んでしまって、いかにも、という感じで正直嫌なのだけれども眼鏡を外さないと細かい文字が読めないようになった。ダンスの時だけしているコンタクトは乱視近視用で遠くの先生が見えるようにしてあるので、いざ携帯を見ると、相当明るいところに行ってもほとんど文字が読めない。そんなこんなで、長い文章を読むのもなんだか億劫になっていて、これは良くない。

でも、なんとなく、あ、これは読まねばならぬと思って内田先生ブログの「現代における信仰と修行」を読み終えた。いつも何か背中を押す言葉をいただける。

以下引用====

身体技法の修業では、「私の身体にはこんな部位があって、こんな働きをするのか」という驚きに満ちた発見が繰り返し起こる。見出された部位やその制御法は、稽古に先立つ段階では予見されていないものであった。そもそもそのような身体部位があることさえ知らぬままに稽古をしているうちに獲得された身体部位の感知と制御の技法である。それを「鍛える」とか「強める」ということははじめから不可能なのである。「そんなこと」が人間にできるとは思ってもいなかったことを自分ができるようになるというのが修業の順道なのである。だから、稽古に先立って「到達目標」として措定されたものは修業の途中で必ず放棄されることになる。そもそも修業とは「そんなところに出るとは思ってもいなかった所に出てしまう」ことなのである。

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最後の太字部分を繰り返し読んで、最近起こった、というかしばらく前から始まっていた心境の変化に引き当てて考えてみて、ようやく得心がいったのである。つまり、なんでこんなことになったんだろうとずっと思っていたし、当初の意図に反した結論を出さざるを得なかったのは何故なんだろうとずっと考えていたのだけれど、そもそも、そんなところに出るとは思っていなかった所に出てしまうものなのだ、と言われて、やっと納得したのである。

正しくなくてもいい、次の扉を開けていこう、そう思った。

現代における信仰と修業

現代における信仰と修業

2022/03/28

一粒万倍日に

人間ドックを終えて帰宅し、録画してあったショパンコンクールの特集を聴きながら、ぺちぺちと打っております。

少し前のことになります、こんなところに詳しく書く気もありませんが、一つ決意をして、ここ数年そこそこ大切にしていたものを手放すことにしました。そこに費やしていた資源を別のところに投じようと決めました。そう決めた日は、ほぼ丸一日メソメソしていたのですが、後からその日は一粒万倍日と呼ばれる日だったことに気がつきました。その日の決断は、いわゆる一粒で万倍美味しい結果が返ってくる日なんだそうです(ほんまかいな)。スピリチュアル系はあまり得意としないのですが、きっとこれは吉兆に違いない、と、なんとなく思いました。

その後、新しい曲に出会ってワクワクしました。


今月ずっと好きだった曲を踊って、すっかり気が晴れました。            


じぶんの選択は間違いではないことを実証してみせる、そういう気持ちでいます。

踊りの力というものを、まだそこはかとなくではありますが、じぶんも信じたいと思っています。 


あ、そうそう、大切なことを忘れていました。身長が伸びていたんです。去年も伸びてたんですが、今年もまた0.5cm。40代の前半は155−6cmの間ぐらいだった記憶なのですが、今回初めて158cmを超えました。もちろん自動の身長計ではありますが、係の人も、あれ?というような顔をして、もう一度計り直して低い方を取ったので、まんざら嘘でもなさそうです。

そう、50歳になっても人間て成長するんだ、と思って。






2022/03/07

終わりまたははじまり

このところ考えることがあって、眠れなかった。休日出勤のため3時半起きして始発に乗って仕事を片付けてきた人間に眠れないのはきつい。

特に狙ったわけではなく、時間枠録画してあったBSの番組にノイズムの作品が収録されていた。金森穣さんが語っている場面があって、図らずもそこに答えがあった。

ああそうか、criteriaを変えよう、と思った、50歳の誕生日を迎えた週の終わり。またははじまり。

以下引用

あくまでも金森穣個人の、プロの舞踊家ってどんなものだろうってことをお話しをするとするとすれば、単純に舞踊を信じている人。それは信仰に近い。なぜ舞踊をするのか、信じてるからなんですよね。その力を、可能性を。それを信じ続けるって、あるいは信じるって、そんなに簡単なことじゃないんですよ、好きなことと信じることは違うんで。舞踊を好きな子達はたくさんいて、でも舞踊を信じてる子って、そんなにいないんですよ。あるいは信じられる子ってそんなにいないんですよ。それはイコール、自分を信じなければいけないし、先人を信じなければいけないし、未来を信じなければいけないし、で信じるためにはその対象を理解しなければいけないし、探求しなければいけない。舞踊とは何か、踊るとはどういうことか、身体とは何か、光とは、音楽とは、空間とは。あらゆることに探求心を持ち、追求していかなければいけないんですよね、終わりがないんですね。

別件。

「進化論」さんの「繰り返し学ぶに足るコンテンツでなければ学ぶ意味がない」に納得。(以下ざっくり大枠は引用、多少解釈あり)

「程よい抽象度合いでメッセージをお伝えする」というのは、簡単なように見えて難しい。

具体に寄り過ぎれば他人事としてスルーされるし、抽象すぎても引っかかりどころがなく実践につながらない。程良い抽象度合いだからこそ聞く側のとりようによって自分事に聞こえるため繰り返し聞きたくなるし、受け側の感度や経験値の増加によっては聞いただけ新しい発見がある。

「これは!と思ったコンテンツを徹底的に学ぶ」こと。あれもこれもやらないんですよね。一つの体系化された意思決定基準を身体に落としこめるまで徹底的に反復し、定着を図る。


冒険にも修行にも出ますが、これは!と思ったところにはなんとか食い下がって(笑)お世話になります。間口は広げすぎず。

今を去ること何年前か忘れたほど前に弾いたことのある親しみ深いドビュッシー「月の光」、やっぱり好きでした。

CLAIR DE LUNE