2009/12/31

Jog at the close of the year

For last two months, jogged total 22times, 151km (last 4months total: 318.5km).
Though a lessening in the frequency of run was noted as in winter season, well done, for me. Will run a half marathone next year. But never push myself overwork.

2009/12/29

The Known Universe

Amazing work. Got a good start of holiday break to imagine something much distant from our daily lives.

The Known Universe by AMNH

good morning

Up early. Such a gooood morning as not have to go to work for a week! Sense of something new to be happening.

2009/12/28

本を売る

年末の大掃除のついでに、本を売るひとは多いらしくて、徒歩5分ほどのところにあるブックオフは混んでいた。
たしか一昨年は店の台車を借りてきて、ダンボールに詰めて運んだ。ところがこのお店の台車には持ち手がついてなくて(つまり台に車がついているだけで、前進させるには荷物それ自体を押すという)、徒歩5分とはいえ、信号を渡ったり、車道から歩道に乗るときの段差なんかが、えらくたいへんだった。懲りて、去年は旅行用のスーツケース2つ(海外用と近場用)に詰めて2往復したけれど、本というのは着替えなぞと違って、一杯に詰めると重いのなんの、これまた一苦労だった。今年は少し学習して、夏あたりに1回本を売った。そのせいで、今回はだいぶラク。でも、それを差し引いても、本を買う総数が前より少なくなっているのかも。それはいやだな。2000円ほどの小遣いを得て、キムチ鍋の材料を買って帰る。

2009/12/26

skylark

Just watched Clint Eastwood's movie "Midnight in the garden of good and evil" drawn to the song 'skylark' in the begining, now available on 'Gyao' web site.

Today is the first time for me to know K D Lang's voice through the song.
Beautiful voice. And beautiful lyrics, though written by the other person as she covered this song, such as:-

skylark, have you anything to say to me?
won't you tell me where my love to be? ...
skylark, have you seen a valley green with spring, where my heart can go a journey
and in your lonely flight, haven't you heard the music in the night, wonderful music..
skylark, i don't know if you can find these things, but my heart is riding on your wings,
so if you see them anywhere, won't you lead me there?

Skylark (begining of 'Midnight in the garden of good and evil')

Hallelujah

2009/12/25

かんちがい

クリスマスの朝、寝過ごすシアワセ、またはフシアワセ。気がつくと8時半を回っている。
ときどき、ひどく起きられないのは、わたしのせいではなくて(いえ、はい、わたしのせいですが)、より正確には低血圧のせいである。この前の健診では最高血圧が80だった。立ちくらみもする。
ふらふらと家を出て、がら空きのバスに乗り、JR駅構内のパン屋さんで、朝昼兼食のチーズもち豚ハムたまごホットサンドをパクつき、コーヒーをすする。

御茶の水駅から歩き始めて、かんちがいに気づく。どうりで、きのうどれだけネットで写真を探しても、なかったはずだ。昨日の「ツリー」は順天堂ではなく、お隣りの医科歯科大だった。おまけに「カーテン」じゃなくて、ブラインドらしい。(まあ、いわれてみれば、そうだよね)。考えてみると、順天堂は10階ぐらいしかないから、「ツリー」するには、ビルの背丈が足りないのだけれど、通院しているせいで、「ひいき」目があるのか、見知った先生や看護師さんたちの姿を重ねながら、あの光景を見ていた。あらら。まあ、もともと思い込みの強さには自信がある。

そうだ。こういうときこそ、あのマルケスの言葉を引いてくるべし。人生とは、何を記憶し、どう語るかであると。きのうの一時の妄想なり想像は、もしかしたら現実とはまったく違うものなのかもしれない。でも、あのとき感じた何かは、まぎれもなく、自分の人生の一部だったのだから。

会社につくと、もう11時。PCのスイッチを入れる。パスワードは暗記したい英単語を1語含めた文字数字にすることにしていて、今回は、いささかの願望をこめて、「静寂」である。
静かなクリスマスの朝、ないし、昼ちかく。
おそるおそるメールボックスを開くと、メリークリスマス、とはじまるメールが届いていた。

こころやさしきひとたちの季節。みなに幸あれかし。

2009/12/24

ツリー

オフィスの鍵を持っていないので戸締りができないから、「最後の一人」になってはいけないのだが、自分が止めると複数の締切を破りまくる可能性のある仕事が、朝、メールボックスに溜まっている。夕方6時に帰るために、めったに出ない集中力を発揮せざるを得ず、他人から声をかけられても気がつかない有りさま。そんな中、外人からは、イラストを貼ったお気楽グリーティングメールが届く。あなた、作るの好きなのね、という人は、凝りようで分かる。でも確か去年、ITから禁止令が出たはずだけど。そんなの、誰も覚えちゃいない。眺めながら、謹賀だの御慶びだのとは何か明らかに違う空気をはらんだ、Wish とかMerry とか、happy といった言葉の軽さが好きだな、と思う。

努力の甲斐あって6時に会社を出る。気持ちが急いていたせいか、真冬用のコートが少し暑いぐらいに早足になっている。駅が近くなったあたりで、今来た方角に携帯を向けている人に気づく。振り返ると、順天堂病院の高いビルに、何か三角の模様が浮かび上がっていた。よく見ると、カーテンを閉めた部屋と開け放しの部屋とのコントラストで、上手にツリーがかたどってある。デパートか何かで似たようなイルミネーションを見たことがあるけれど、そこが病院であるせいか、何か違うものを感じる。管理スタッフとか看護婦さん、もしかしたら入院中の患者さんが「この部屋はカーテン開けといて」「ここは閉めて」とか、するんだろうか。あたりまえだけれど、院内にいる人には、あのツリーは見えないわけで。道行く人のために、あの中にいるひとたちの、きっとひとりではない、たくさんの手が、カーテンを開けたり、閉めたりしてくれたんだ。通りすがりの、わたしみたいな人間を、ひととき、ふと振り返って微笑ませるために。そう思ったら、なんだか、とても、ほっこりした気持ちになった。

2009/12/23

もろもろ整理

整理の基本は捨てることにある。増やしたいなら、せめて同程度容量を先に削除して、空きスペースを作らないと、新しいモノは入らない、いや、整理したいなら、捨てる前に入れてはいけない、とは常識あるものの本によく言われることで、いちおう実践しようとしている。すべてにおいて、あまり執着がないので、きっかけさえつかめれば、さほど労せず捨てられる。

今を含め、主に過去3社のブログをはしごして使った経緯があり、昔のブログを退会して抹消しようかどうか、と思いつつ、久しぶりにログインして2006年のエントリーを読むともなしに読む。驚くべきことに、内容がやたら可愛らしい。まず文体からして、ですます調だし、当然ながらハンドルネーム使用だった。今みたいに挑発的なことも書いてないし(比較的)、基本的に夢見るオトメだった(すでにだいぶトウはたっていたが)。文章だって、こんなふうに、だらだら打ちっぱなしということもなく、ちゃんと改行もしている。ブログのデザインテンプレートだって、それなりに選んでいたし(おまけにピンク地の模様)。今と同人格の人間がものしたとは思えない。はじめてのブログで、多少猫をかぶっていたところはあるにしろ、やはり時の流れと自分の変化は自分自身では把握しきれないものらしい。
これから10年後に(もし生きていたとして)見たら、何か発見があるかもしれないので、退会せずに取っておくことにした。

ついでに発見したのがブクログの「本棚」。こちらも3年弱放置していたに違いない。その証拠にセルフヘルプ系と経済入門系の、現時点では「趣味じゃない」本が山ほど登録してあって、いや、こんな本読んでたんだよなーと精神的変遷にひとしきり驚く。和書は今の志向に近いものだけ残してざっくり削除し、洋書を少しだけ登録した。今後は1冊読み(聞き)終わったら、記念に登録するとしよう。
早くも今月も23日になって、月1のaudibleのcreditが更新された。ファインマンはなかなか面白かったけれど、卒業して、これからの1ヶ月はJulian Barnes「Nothing to be frightened of 」、自伝的といわれている小説(たしか数ヶ月前の時点で最新作だったはず)。以前邦訳を読んだ「イングランド・イングランド」が面白かったからと数ヶ月前にペーパーバックを買ってみたときには、Barnesの文章はレベル的に難しいことが判明して、以来積ん読の刑に処されていたのだけれど、今回買っちゃった決め手は、朗読が著者だったこと。これは、うれしいでしょう、やっぱり。で、けっこういい声なんだな。意味の分からない単語を読み続けるのは苦痛だけれど、朗読なら難しいところは聞き流せばいいし、まして好みの声なら意味不明でも癒されるしね(笑)。

そうそう、このまえ某ネット書店のメール広告についてコメントのだけれど、あの翌日からメール広告におけるジャンル偏向性は解消された。ちゃんとマーケティングしているらしい。えらいえらい。

手帳使用頻度の少ない人間なので、いつものように、ウィークリーながら殆ど記入欄のない小さくて薄い手帳を10月頃に買ってしまっていたのだけれど、突如、無性にメモ欄の多い手帳が使いたくなって、はじめて「ほぼ日」を買ってみる。専用両面シールのリフィルまである。ほう、と思って、いろいろ、ぺたぺた、貼ってみたりする。割にいい感じ。

ガルシア・マルケスの自伝本を立読みしていて、オビの「何を生きたか、ではない。何を記憶し、どのように語るか、それこそが人生だ」という言葉が、妙に尾をひいた。さしたる記憶と語る術を持たない人間としては、どうも、すいません、というほかない。マルケスならでは、そう言い切った後に、余韻があるよなと、本を閉じる。
マルケスは(も、というべきか)読了したことがない。いずれ、読めたらよいけれども。分厚い本だった。

2009/12/20

仰臥漫録

やはり、さむすぎる。最寄JR駅のモールに行き、ついついユニクロに吸い寄せられて耐寒用品をいろいろ買ってしまう。早速、洗濯できる軽いキルティングのパーカと、フリースのぼうし、それにヒートテックのTシャツを試してみる。短パンの下にレギンズとレッグウォーマーで、そのままジョギングに出られるように完全武装でいる。部屋では今年まだ暖房を使っていない。
「数学的にありえない」は、2-3年前に「このミス」上位に選ばれたミステリー。作者は統計を専攻した人物らしい。賭けごとのシーンに絡んで、ちょいちょいと出てくる分には、数学オンチのわたしにも、ばくぜんと理解できる確率論の話が、「高校時代に数学ちゃんと学習しておけばよかったな」とたまに後悔したりする身としては、ありがたい。上巻を読み終えたところ。ドラマ「坂の上の雲」を途中まで見る。小説のほうは、今まで何度となく挑戦しては挫折している。なぜか分からないけど。番組監修もしている関川夏央の解説書のほうは途中まで読んだ。それによると、子規はあの作品上、時代の空気を担わせる重要な人物であったらしい。正岡子規を香川照之が演じていて、おかげで俳句は分からないなりに、子規が少し好きになった。これからは「仰臥漫録」の写生と諧謔を手本にしよう。(いや、無理か、笑)

2009/12/19

ぼうし

予約日ではなかったが、もろもろ足りなくなったので病院に行く。受付をしたあと、丸善で待ち時間に読み終わりそうな軽いのをと探していたが、「数学的にありえない」になった。来るべき真冬のジョギングに気合を入れるため、Victoriaで厚手のウインドブレーカーと長袖シャツ、それからタイツというかスパッツというかを購入。耳の隠れるぼうしも探しているけれど、いまひとついいのが見つからなかった。診察を終え、もろもろをリサイクルバック一杯持ち帰る。これが8週間後、ペットボトル2本ほどの医療廃棄物となる。夕陽を眺めつつ新ウエアでジョギング。ごはんも美味しい。「数学的に」の続きを読み中。

2009/12/18

勇気

朝カル。Xmas special用の作品を鑑賞。予想外の収穫は、先生の雄姿を拝して、いや自分も走らないと、と思ったこと。帰宅後、そろそろ捨てようかと思っていた古いセーターを押入れから引っ張り出してきて、ウインドブレーカの下に着こんで家を出る。
そうだった。一歩、踏みだしてしまえば、走り出せる。
ちなみに、やっぱりセーターでは厚着すぎた。汗だく。

今日は色々と今後の学習教材になりそうな情報源を教えていただいた。べんきょしよ。と思いつつ、しばらく「のだめ」を眺めている。

2009/12/17

こんな夜に

こんな夜にひとり家を出て、暗い夜道を走れるひとは、相当エライんじゃないだろうか。
このところ平日の夜に走れなくなってしまった。
なにしろ寒いし、なんだか、つかれる。

どうでもいいけど、社内メールの慣用なのか、皆が冒頭「お疲れ様です」と文章を始めるので、一人で用件からはじめるのもなんだしと「おつかれさまです」と一応書いている。「疲れ」という字を見ただけで疲れるので、あえて、ひらがなで書く。チャットを終えるときに「失礼します」といって切るが、この漢字/感じが気に食わない。発音する場合には全く問題ないが、なまじ字面を見ると、別に礼を失してるつもりはありません、などと、内なる反発がある。そういう反応をしてしまう自分が煩わしい。だから最近は「しつれいします」と、これも、ひらがなにしてしまった。「ご苦労様」、というこの漢字も、今日初めて経験したが、字面を見ただけで、相手の意図に反して、ひとしお気持ちが重くなる。ひらがななら、少しはマシかもしれない。漢字も意外に罪つくりである。

2009/12/14

胃カメラ

今の派遣会社に登録してから、一度も健康診断を受けていなかったことを思い出して、成人病検診を受けることにした。早起きして検診センターに行く。朝食を食べられなかったせいか、血圧が異常に低い。これじゃあ朝ジョギングできないのも無理ないと思う。乳がん子宮がん検査も初めて受けたけれど、加えて、胃カメラ。以前に短期派遣で健保に検診プランを売る会社に行ったときは、マニュアル通りにテキトーな営業をしていたけれど、いや、たしかにマンモグラフィーは痛かったし、胃カメラも苦しかった。なにより、胃カメラは後味がよろしくない。トローチを舐めても、一日中喉が痛い。
でも胃カメラの、医師の手技と自分の内臓の中を見られたのは収穫だった。カメラを器用に体内に挿入していく手つきを見ながら、前の前の会社にあった贅沢な手技練習室を思い出した。熟練の社員さんが、治験や臨床で自社ステント使ってもらう医師を呼んでデモンストレーションをする、ホテルみたいに綺麗な部屋で、スタッフも勉強に、と実演を見せてもらった。小さな小さなステントを患部に正確に置く。術者の手つきは、モノが小さいだけにもっと繊細ではあったけれど、たしかあんなふうに、ぐるりぐるりと、螺旋を描くように、模造の血管内を進んでいったっけ。
検査結果は後日、だそうだけれども、わが内臓は、とても綺麗な色をしていた。

2009/12/13

Calling

年内に内田先生のライブなお話をもう1度聞けたら良いけれどもなあ、と微かな期待を胸に紀伊国屋ホールに行ったら、嬉しいことに当日券が手に入った。
相変わらず、軽やかにお話が展開するが、やはり贈与経済のお話が強く残った。
その商品を持っていることが自分が何者であるかを示す価値、というのが象徴価値であり、you are what you buy 的思考が無限の消費行動を誘発する。なぜ無限かというと、自分が何者であるかを有限な所持品で示すのは不可能だから、なんだけれども、何故かそれに気づかないまま、人々はマーケットに踊らされ、無限の購買活動をさせられる。
いいかげん、その不毛なループから脱却して、必要な人に必要なものが与えられる、贈与経済へ。それは、革命的な、最も収奪されている人が救われる劇的、革命的な変化でなくてもよい。ある意味、その人の周りの人しか救えないという残酷さ、矛盾はかかえていたとしても、自分の支えなければならない人の顔が浮かぶ人が、その人に適切に贈与することから、まず始めるしかないのではないか。
贈与経済の困難は、実は、身の丈を越えたお金が手に入ったときに、適切な相手に適切に循環する形でお金を贈与することができる人的ネットワークを構築しておくことが難しいからであって、お金がないときからそういうネットワークを作っておかないとダメなのよ、というお話で、熱く収束する。

いろいろ考えた。20代をそういう農村的贈与経済ネットワークみたいな中で過ごして、あまりの閉塞感に耐えられなくて全部ぶっちぎって東京に帰ってきた人間としては、耳の痛いお話でもあるので、そこはあまり、つっこんで考えられない。

お話の途中、象徴主義の購買行動というお話を聴きながら、購買行動を「仕事」に置き換えて考えていた。キャリアを自分とは何者かを示すもの、と考えた場合、やるべきことは無限になる。身の丈に合わない要求に応じなければならない事態が生じる場合もある。誤りを率直に認められない場合、往々にして本人がそれを自己否定と勘違いするせいでもある。率直でありたい。仕事を通じて自分の「ものさし」を鍛えるようでありたい。しかし現実は。時々、そういう困難なり限界を感じることがあるような、気もしていた。そこに最後の質疑応答でのCalling という言葉が重なった。仕事とは、そんなあなたに来てほしいと、相手から呼ばれるもの。だからCalling。

だとすれば。
わたしはわたしのままで、かくあるしかないのではないだろうか。
今の場所にこだわって、身の丈以上のことをする必要もない。別の場所で、別の貢献の仕方を考えたってよい。それは必ずしも、ひと思いに転職、ということではなく、現状維持しつつ、別の枝を伸ばすことである。
それは諦めや怠惰に流れるというよりはむしろ、軽やかな楽観主義ともいうべきで、一条の光をその先に見るような気がしている。やっぱり、先生のお話を聞けて、よかった。

反比例

ジョギングをするようになって、天気と気温に敏感になった。折り畳み傘を持ち歩いているので、今まで予報は殆ど見なかったのだが、目標としているところの、週に3回走るには、土日両日可能として、あと1日、平日何曜日に走ればよいかの予定を立てるのに必要である。
気温は、もともと、特に数字が記憶に残らない、いわゆるザル頭なのだけれども、気温がかくん、かくんと階段を下りるように下がっていくのは、走りに出るときの躊躇度が次第に増加するのと反比例関係にあるようにも思えて、天気のついでにチェックするようになった。
関川夏央「坂の上の雲と日本人」ジョージ・ソロス「グローバル資本主義の危機」それから、The brain club archiveにfull text リンクがある論文を読みかける。1日1個論文を読むのはなかなか大変だけれど、週に2つぐらいはがんばりたい。そういえばMDIC試験が来年の1月上旬にあったのを忘れていた。いったいこれが何の役に立つのか不明だけれど、はずみで受験料を払ってしまったので、そろそろ取り掛からないと。

2009/12/10

ジャンル

ずいぶん前に、Amazon.co.jpでレベッカ・ブラウンのペーパーバックを2冊買ったことがある。その頃はちょうど柴田元幸に入れ込んでいたせいで、たまたま彼女が来日するというので柴田氏が聞き手をつとめる朗読会に行って、まあ悪い人じゃなかろうと思ったのと、短編が多くて読みやすいかも、と、途中まで読んだ。彼女がレズビアンだと知ったのは、よく覚えてないけれど、確か後日だった気がする。
とにかく、あの本2冊を買って以来、Amazonから、Gay& Lesbian>Lesbian本の発売予定メールばかりが送られてくるようになった。
それ以外のジャンルの本も、沢山たくさん、買っているはずなのに、どうして。。。なにしろ、毎日のようにそのメールばかり来るので、いや、自分て本当に本当は、そっち系だったんだっけ、、と一抹の錯覚をおぼえさえする。いったい、どういう仕組みであの刊行予定メールのジャンル選択がなされているだろうか、素朴な疑問。

今日は昼休みに丸善に行って、もぎけん先生のアインシュタイン本と、松岡正剛氏新刊「日本流」を買った。
なんだか相変わらず仕事は忙しくて、スカッシュでもしているみたいに(やったことないけど)メールがぽんぽん来るのを、ぽんぽんと打ち返しているうちに一日が終わる。その昔、コールセンターで、ひっきりなしに電話を取っていた頃を思い出す。問い合わせの相手と内容こそ変わったけれど、問い合わせ対応をしていること自体に何ら変わりはない。確固たる自我がない分、必要としている誰かに、何かお役に立てれば、ちょっぴり嬉しい人間なのかもしれない。
さて、明日は講習会に出たあと、早退して明大でのもぎけん先生講義を聞きに行く予定。そのために仕事は今週前倒しでとっとと片付けてきましたし。仕事さえしていれば、たまに早退するぐらい、文句言われる筋合いじゃないのが、派遣のいいところ。時給制ばんざい。フリーエージェント制ばんざい。精神的脱藩ばんざい。

2009/12/08

眼鏡

起床して、顔を洗おうと眼鏡を洗面台の棚に置いたら、突如、ネジがぽん、と飛んで、柄が取れてしまった。ひとつ前に使っていたのを押入れから探し出そうとするのだが、なにぶん頭も朦朧としているし、目の前も靄がかっているから、さっぱり要領を得ない。時計を気にしながら、やっとのことで発見。プラスチックのフレームが茶とも紫とも見える色をしていて、当時は気に入っていたはずだが、乱視の度が弱くて、表面も傷ついてきたから、今のに変えた。それはわかっていたのだけれど、かけてみると、どうも視界が狭い。少し上目遣いをすると、おばあちゃんの鼻眼鏡状態になって、気がつくと顎をしゃくるようにして顔を上向けている。もともと鼻が低いのも禍いしている。コンタクトにすべしと、人生で何度言われたか分からないが、あんな小さなものを管理する根性がないのに加えて、来たるべき花粉症の季節をコンタクトのままで乗り越えられないので、いつもどこかで頓挫する。
鏡に映すと、なんだか、昨日とずいぶん違う顔をしているようにも見えて、違和感がある。
化粧の実験で、化粧した自分の顔を「他人の顔」と認識したのは、FMRIに入るときには被験者が素顔だったからだ、(よく知らないけれど、当初、FMRIには化粧して入れなかったらしい。MRIに支障ないような化粧を開発して、その化粧をして化粧した自分の顔を見せたら、自分の顔と認識したんだそうな)という話を聞いた。
では、昔の眼鏡を久しぶりにかけてみた自分の顔が、鏡に映すと他人の顔みたいに見えるのはどうしてか。化粧品売り場でメークしてもらうと(殆どしてもらったことないけど)出来上がりの顔が他人みたいに見えることがあるような気もするし。そういう話とは違うんだろうなあ。よく分からなくなってきた。こんどちゃんと読んでみないと。
ともあれ、新しい眼鏡を買おうかなあ。

2009/12/06

小さなヘレン・ケラー

今日はセイゴオさんの日だった。
朝、目覚めてテレビをつけたら、松岡正剛氏が根津美術館について語っていた。
それが松岡さんのコメントだったかどうかは忘れてしまったけれど、根津氏について、「私の中に公がある」と言ったのが、どことなく頭にこびりついていた。
それは例えば、白洲次郎や坂本龍馬などを連想するときの、人物の「器」というようなものにも、私の中では重なる言葉である。

そんなことを考えはじめたのは、ずいぶん他愛のないことだけれども、会社で社外にメールするときの「署名」がきっかけだった。
メールの文末には、会社名と自分の名前を連ねて書くのが普通だけれど、やりとりが頻回になってくると、会社名を省いて名前だけになることもある。いったん名前だけになってしまったやりとりに、あとから社名を付け加えはじめるのも、なんだか妙な感じもして、はばかられる。
個人事業主として仕事をしていれば、社の方針や都合と、自分のそれは合致している場合が多いから、そんなことは考えるべくもないのだろうけれど、一企業の社員として働いている場合、メールで伝える内容が、はたして自分個人の意見やポリシーなりと一致しているのか、意に反するけれども会社の見解や都合であるのか、会社としての正式回答なのか個人の意見を含むのかを、文末の名前の書き方によって暗示したいと考える向きもあるかもしれない。
システムの中での個とはなんなのか、なんて言葉にはなりはしなかったけれど、漠然と、先週は、そんなことを考えながら、仕事をしていたせいもあるのだろうと思う。

掃除洗濯を済ませ、布団を干し、昼ごはんを食べながら、ふと思いついて千夜千冊の最新ページを読みはじめた。ソロスの話だった。咀嚼しきれなくて何度も読んでいたのだが、やがて「リフレキシビティ」という言葉に、何かが反応した。
「システムにはそこに関与した者のバイアスがかかる、また関与した者の思考にはシステムからの影響が免れない。システムとその帰属者は両者ともに織りこまれた関係であり、ただつながっているだけではなく、「ゆらぎ」「誤謬」「負」をかかえたまま、全体と部分が、領域と参加者が、制度と実態が、互いで互いをハウリングしあっている。しかもそこにはフィードバック・ループがある。いったんシステムの内から外に出た情報が、どこかでシステムの中に再帰し、その再帰した情報が外の観測者に影響を与えているわけなのだ。それが複雑に繰り返されている。」(千夜千冊から大意を引用)

仕事の中で使う言葉というのは、現状を伝えるだけでなく、将来的に予測される事態の保険なり担保として機能する場合も多い。ただ単にご丁寧で長たらしい文章であるということに意味は殆どないと思っているので、なるべく簡潔にしたいのだが、そういう将来的な意味合いを含むときには、言葉選びは回りくどく、慎重にならざるを得ない。

しかし。投資家にとっての関心事が将来の株価なりであるのと同様、将来を織り込む言説を述べる場合においては、どんな言い回しをしようとも、その前に行なわれた推測が、将来の推測にバイアスを加え、そこにシステムが加われば、更にいくつものフィードバックバイアスがかかるのは極めてフツーのことなのだ。
(これは実にあたりまえのことではあるけれども、目からウロコだった。しかし、ということはつまり、推測しないですむ場合においては推測しない(すなわち客観的事実を限りなく推測を排除して伝達する)ことが最も安全策であることも理解される)

松岡氏は冒頭において、ソロスについて持っていた印象が間違っていたことを告白している。「1、きっと思想は思想、ビジネスはビジネスというふうに切り分けていたのだろう、2、ビジネスの成功には思想は必要だったろうが、その交じり具合はせいぜい20~30パーセントくらいだろう、3、金融資本と市場の変化と世界情勢の転換のたびに、ソロス・ビジネスの展開にそった思想をつくってきたのだろう。」
この3つはいずれもペケだった、ソロスは「思想=ビジネス」だった、と述べている。

「参考情報」の項は小文字ではあるけれど、注目すべき箇所である。
ソロスの信条を示す友人の言葉として、下記を引く。「ソロスは自分の努力を抽象化すること、それを定義することに集中した男だった」。また、ソロス自身の言葉として「私は自己の存在というものを意識したときから、自己を理解することに激しい情熱を燃やし続けてきた。そして、自分自身を理解することこそ最大の課題で、最大の利益目標であると確信するようになった」。

ここまで読むに至って、私は、ソロスという人物が好きになってしまった。頭の中の「ソロス」の項に、フラグが立つ。

仮説形成(アブダクション)のリンクから、気がついたらパースに飛んでいた。その頃には、もう陽も傾いて、干した布団も冷たくなっていた。慌てて取り込む。
パースにいたっては、松岡氏はほとんど絶賛ともいえる賛辞を呈している。氏の編集工学にぴたりとマッチした言説である。それはこの言葉をもっても知れるにちがいない。
「もっと端的に結論づけてもいい。パースにとっては【意識とは推論そのものなのである】と。」
「こんな文章がある。「感情(フィーリング)、他者についての感覚、そしてこれらに媒介すること。この三つのほかに意識の形式はない」(7・551)。いったいこのメッセージに何を加える必要があるだろう。これで十分なのだ。「知覚者によって知覚されていないことがある。それは知覚者が何を知覚しているかということである」(5・115)。まさに、この通りだ。この問題以外に、脳科学者や認知科学が考えることがあるのだろうか。「思惟と論理は不可分の関係にある。なぜなら人間の思惟は類似を通して前に進んでいるからだ」(5・108)。」

ヘレン・ケラーがwaterという語を理解した時の逸話を引いてから、こう述べている。
「われわれの【知覚と推論はいつだってヘレン・ケラーの断片の再現なのである】。新しい世界や未知の現象や知らない言葉に出会うたび、われわれは小さなヘレン・ケラーを通過させているはずなのだ。このことは、パースのアブダクション理論には、知識というものの本来の謎を解こうとする計画があったということを示唆している。パースは知識がどのように連環的な総体に向かっていくのかということを研究したかった哲学者であったであろうことを示唆する。パースはいつからか、ヘレン・ケラーのようにひとつずつの記号と知識がアブダクティブに統合されていくならば、どんな断片的知識もやがてそれらが連合して確固たる世界観を形成するはずだという計画を思いついていたのだ。これはぼくにいわせれば【編集的世界観をどのように形成されうるか】というプログラムの確立にあたっている。」

いや、ほんと、もう感動。「小さなヘレン・ケラー」なんて、表現が素敵すぎるし。
パースってすごい。っていうか、やっぱり、松岡正剛だなあ。
休日のしめくくりに、ナイスな文章に出会えて嬉しい。
なんだか、ヘレン・ケラーがたくさん来てくれたようで、元気が出ましたです。はい。

2009/12/05

雨の六本木

夕方、雨のなか、森美術館に出かける。医学と芸術展。
人間という生きものは、気になるものを解体し、分析し、再構成するのが好きらしい。
そして、その過程を観察して記録することも。
それが人体という対象に向かうと医学になり、芸術にもなるというわけだ。
やはり人間にとって、自分自身がいちばん気になる生きものなんじゃないだろうか。
自分自身を解体すると死んでしまうから、似たようなもので妥協しているだけであって、ほんとうは自分を解体して分析したいんじゃないだろうか。
あらためて見ると、人体解剖図というのはずいぶんとたくさん描かれていて、ダヴィンチみたいに精緻なものは少ないけれど、どれも人体という興味深い対象物への、単なる好奇心を越えた執着、執念みたいなもの、また死にゆくことへの不安をも反映しているように思える。

興味を惹いたのは、昔の義手義足や車椅子の横に、最新の脳波で動く車椅子、とか、おしゃれな義足があったりすること。暗闇で緑に発光するウサギやネズミを作ってしまった映像も流されていて、こういうのを見ると、医療とアート、またはその対象物を生命とみるか作品と見るか、というような境界は曖昧になってくる。
木で作られた人工呼吸器やレントゲンには、ただ嘆息するばかり。最近、日曜ドラマのJINで、坂本龍馬の時代の頃、どうやってペニシリンを作っていたかという話があって、薬というものを手づくりしていたというあたりまえの事実を再認識するのは、ドラマとはいえ、なかなか感動だった。それに似た感慨がある。

この展示とはあまり関わりがないのだろうけれども、順路の最後にあった映像コーナーで、不平合唱団というのが流れていた。東京を含む世界のいくつかの都市で、不平不満を歌にして合唱する、という試み。人の不平を聞いてもねえ、と思いながら、少し疲れた足を休めようと座ったのだが、これが意外に面白かった。
ワルシャワ、シカゴ、シンガポール、東京と聞いた。もっとお国柄が出るものかと思っていたら、不平不満なんてものは、殆ど万国共通に理解できるものなのだね。
給料が安すぎる、とか、いい男はみんな結婚してる、とか。高速道路これ以上いりません、地下鉄どうにかしろ、道が汚い、蚊が多い、天気悪い、効率よく仕事するほど仕事が増える、芸能人だけ儲けてる、家賃高い、などなど。
そんな中で、いかにもお国柄で笑ったのはシンガポール。シンガポールの合唱団は英語の歌詞で歌っていたのだけれど、「マンダリンで喋ろうと思ったけれど、この力強いシングリッシュのどこが悪い」とか、「許可されてない広告は全部禁止」とか。
せっかくの週末なのに生理、と歌っていたどこかの国の女の子の歌を聴きながら、観客の男の子がぷっと笑っていたのも微妙に面白かったりした。
個人的には、シカゴとシンガポールが好みだったかな。
不平合唱団(東京ver. 一部)

これは各国でワークショップがなされた成果なのだそうだけど、もとからこの不平の万国共通性を表現するために、狙ってやったのかなあ。だとしたら、読みの深い作品でしたね。

Never know where I am going

久しぶりの、もぎけん先生朝カルに行く。
最近は、3回シリーズのうち1回は対談になっていて、残りの2回が講義形式。講義といっても、当然先生の脳内フローのまま、いろんな内容が、かつ結び、かつ散じつつ、混じってくる。昨日もワグナーのオペラとか、小津の映画を挟みながら、でも必ず、脳科学関連の英語の論文を解説していただけるのを楽しみにしている。
大学に行くとか行かないとか、大学の時に勉強したかどうかなんて、もうどうでもいいじゃん、今は全部ネット上にあるんだから。(やりたければ、自分で勝手にやんなさい、)と先生は常々おっしゃっていて、大学院なんて行けそうもない、しがない派遣社員としては、その言葉だけが励みなわけだ。

ところが、先生が選んだ論文や、たまにブログに載っている、brain clubの人たちの論文は面白いのだけれど、自分で適当に探して読んでも、労力の割に実がないので、最近は自分で探すのを投げてしまっていた。しかし。投げてはいかんなあ、と思う。
だって、おもしろいんだもの。

クオリア日記にも載っていたair puffの論文から、コントロール実験を考え付くことの難しさと、それこそが科学的思考なのだ、とコメントされる。
そうなのだ。科学実験は、比較試験を、まず理解するのが難しいと思う。まして思いつくのは、僥倖にも似た、たいへんなことだろう。
前に血管内ステントの臨床試験の事務にいた頃、治験概要書とかをワケが分からないなりに文字面を追っていて、当然何版も改訂されるから、何度も校正をやるうちに、少しずつ概要がつかめるようにもなったりするのだけれども(とはいえ、いわゆるケミカルの作用とかが理解できないのは当然として)、治験の比較試験などというのは、プラシボを使う、とか、実に設定が明解なのに比べて、科学実験の対照試験は、想像力とか発想力の領域、レベルが違うように感じる。
論文を読みながら、いつも仕事などでは絶対に使わない思考回路が働いている感じがする。
そこが「いまの自分」から脱出、脱藩する快感なのかもしれない。
もっと脱藩してもいいな。

先生は、オスカー・ワイルドの獄中記を引用された。
A man whose desire is to be something separate fromhimself, to be a member of Parliament, or a successful grocer, or aprominent solicitor, or a judge, or something equally tedious, invariablysucceeds in being what he wants to be. That is his punishment. Thosewho want a mask have to wear it.But with the dynamic forces of life, and those in whom those dynamicforces become incarnate, it is different. People whose desire is solely for self-realisation never know where they are going.

自己自身になろうとする人間は、どこへ行くか分からない。
いいですね、この言葉。

相変わらず、先生は、とっちらかっていらっしゃるのだが、もう既に、それでいい、というよりも、そこがいい、としか言いようがない。
たぶん、あの教室にいた人はみな、そう思っているんじゃないかな。

2009/12/03

二次無効

職場近くの病院に行く。
いつも3時間待ちなど普通、という混雑ぶりで、仕方がないから、採血を終えたら病院を出て、明大の方向に下っていって、三省堂で立読みをするのが習慣となっていた。
土曜に通院していたのだけれど、最近、同じ先生の診察日が平日にもあると分かったので、平日に変えてもらって、これが2回目。
職場から徒歩5分圏内なので、昼休みに検査して、会社に戻って、しばらく働いてから早退する。それで、待ち時間は、ぐっと減る。
前回は、空いていた。今日は空いてますね、と言うと、先生は「そう、奇跡的に。」と言った。妙に実感がこもっていて、記憶に残っている。でも昨日は、やたらと混んでいた。おまけに、先生の患者さんの待ち人数だけが、ほかの先生の倍ほども多い。
初診専門の女性の先生が、私が「前にかかっていたお医者さんと合わなくて」と言ったのを受けて、「たぶん、この先生は、まあ、ほかの先生より少しは、ましだと思うから」と言っていたっけ。やっぱり、良い先生には、たくさん患者さんが回ってしまうんだなあ。先生、たいへんですね、などと思いつつ、待合室で、ぼんやりとテレビを眺めていた。

先生は、私がジョギングしているのをほめてくれた。「いやあ、がんばってますねえ、ぼくにはとても、できないなあ」などとおっしゃる。ふつうのお医者さんは「ぼくにはとても、」なんてことは言いそうにないので、なんだか可笑しい。「一昨年あたり、試しにジムに行ってみたんだけど、続かなくて。」なんだか、診察というより、知り合いの会話みたいなのである。
ひとしきり話して、検査結果の画面を眺めながら、先生は、うーん、と言って、黙ってしまった。前回より若干、数値が悪くなっていたせいである。
やっぱり、わたしって薬がきかないひとみたいですね、と言うと、そうだねえ。そう思いたくなっちゃうよねえ、と先生は言った。薬の名前を2つ書いて、もうすぐ新薬が出るからね、それ飲めば効くかなあと思うけど。でもね、治験もやりましたけどね、確かにぐっと下がりましたけど、個人的にはどうも、好きじゃないんだよね。長い目で見たときにね。アメリカでもまだ4年ぐらいしか経ってないから、まだこれからどうなるか、分からないんだよね。
先生は、つと立ち上がって隣の部屋に行き、ガイドブックを持ってきて、ぱらぱらとめくって、また、うーん、と唸った。ナントカは正常値だなあ、とか言って、また悩んだ。

ほかの先生の部屋はもう、ちらほらと「本日の診察は終了しました」なんて看板が下がり始めているのに、先生は、のんびりなさっているのである。

仕事や時間に追われているときに、平常心を保つのは難しい。自分自身は、より以上のことを抱えていながら、他人に鷹揚に接することができる人を尊敬してしまう。良い先生にあたって、よかったなあ、と思う。

結局、4ヶ月前頃、もう少し症状が悪かったときの治療法に戻ることになった。

2009/11/30

いろんなことがありすぎて

5時を過ぎたとたん、オフィスから逃げるように飛び出す。
いろんなことがありすぎて、頭が爆発しそうなり。

少し早めの夕ごはんを食べても、元気になれない。

ゲームなんて、何の解決にもならない。

テレビを見たって、しかたがない。

こういうときは、走るに限る。
走っていると、ぐるぐると、どうどうめぐりしていることどもの、濃度とでも、または、めぐりの速度というべきものが、次第に薄く、しんなりと、そして、スローになってきて、雲散、というか、霧消にちかい状態になる。

コーヒーにクリームを、たらりと流し入れる。
くっきりと濃い、白い渦巻きが、スプーンの回転につれて、しだいにそのラインをにじませていって、周囲の褐色に溶けていく、ああいうかんじ。

だから、走るのを、やめられない。
理由は、それだけじゃないとは思う、けれども。

そのうち言葉にできるようになるかもしれない。

2009/11/29

箱根

三浦しをん「風が強く吹いている」を読む。
著者については、名前以外全く聞き覚えのない人だったし、駅伝がテーマじゃなかったら絶対に読まなかったと思うけれども、ひとまず映画を観るか決める前に原作をチェックしようかとブックオフで買ってきて、遅めの昼ごはんを食べながら読み始めたら、いつの間にかひきこまれてしまって、後半あたりからは、もう、殆ど泣きながら、いま読み終えたところ。

キャラクターは、実在の誰かと意図的にオーバーラップさせている感もあり、それでいて、どこかの書評にあったように「ありえない」「ファンタジー」的展開ともいえるが、それでも強引に読ませてしまうのは、箱根駅伝そのものの持っている多層的な意味合いをしっかり切り取っているからではないかと思う。
チーム競技であること。出場者が大学の学生であり、駅伝という中途半端な距離設定のせいで、ある程度選手の実力に幅を持たせることができ、この駅伝を必ずしもプロへのステップとしない選手が参加できること。

箱根において、目に見えるゴールは一つだけれども、その「ゴール」には、参加した人それぞれの意味がある。そして、ゴールを越えても、その先も道は続いていく。

その先に何があるのか、そこを越えると何が見えるのか、いまだ分からないけれども、どうも行ってみたい、行かずにはいられないという衝動をかかえている人にとっては、また、実際に、何らかの形で走っている人にとっては尚更、きっと共有できるものをこの本は、まあ、なんというか、あまりに爽やかな青春小説的な味付けではあるけれども、提示してくれている。

次の正月も、きっと、テレビで駅伝を見てしまうだろうな。

2009/11/28

牛しゃぶ

先週の日曜に引き続き、2回目のLSD(12km)。
ほんとうにスローに走っているせいか、12kmを越えても、まだまだ行けそうな気が、一瞬、したのだけれども、家が見えた途端に足が止まって、そのままふらふらと帰宅。(一応終了時のストレッチぐらいはしたけれども。)やっぱり、生来のナマケモノなのだ。
次は15kmを目標にする。距離を伸ばすには、やはり1周15kmのコースを作るしかないなあ。
90分で12kmなので、7.5分/1km。信号待ちも含んでいるとはいえ、スロー。
最初の頃は、10km走ると膝が痛んだものだけれども、最近はそういうこともなくなった。
慣れですね、なにごとも。

今日はわりとあたたかかったせいか、ジョガーとすれ違ったり、抜かれたりした。
みなさん、おつかれさまです。

スーパーで半額だった牛肉で、夕飯に、今年初の牛しゃぶ。
おいしかった。。

モーツァルト、クルターグ、シューマンとか

内田光子を聴きに、サントリーホールに行く。

いわゆる肥えた耳、みたいなものを持っていないので、そのピアニストが好きか嫌いか、などというのは、殆ど「感じ」でしかなくて、何の根拠もない。

なので、ごく私的に、ああ、なんだか、このひとは好きだなあと思う。


じつはモーツァルトという作曲家が心の底から好きだと思えたためしがないのだけれども、内田さんのモーツァルトは素敵だった。バッハの「フーガの技法」と「フランス組曲」のサラバンドに挟まれて演奏されたクルターグの「遊び」もよかったし。


内田さんは、なにかストレッチでもしているみたいに深く、お辞儀をする。その、なんというか、いさぎよい感じが素敵だとおもった。



帰宅してから、サー・サイモン・ラトル指揮のピアノコンチェルト20番を観た。良い。。
こんな顔して演奏してたんだなあ。(B席だったので全然見えなかった。。)


UCHIDA & RATTLE Mozart Piano Concerto No.20 1st mov. Pt.1/2

Mozart sonata in C K.545 2nd mov, Mitsuko Uchida Piano


アンコール曲目は
シューマン:『謝肉祭』の告白。と、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ30番とのことでした。

Mitsuko Uchida Plays Schumann's Carnaval, Op. 9

(「謝肉祭」。IVとあるけど、告白以降最後までの4曲。)

会場で、コンサートのパンフレットの束を眺めていたら、来年はショパン生誕200年とかで、ユンディ・リが来るらしい。ちょっと聴いてみたい気がする。

Yundi Li - 14th International Chopin Competition (2000)


2009/11/24

死ぬまで生きる力

通勤途上に順大がある。
いかにも医療従事者ふうの格好の人たちとはまた別の区域に、スポーツ関係の人たちがたむろしていて、ときどき練習風景を見かける。
今日は、ラグビー部とおぼしきひとたち。
道端でボールを弾ませている。
間近でラグビーボールを見たのは初めてである。
ああいうアーモンド型をしているのだから、あたりまえといえばあたりまえなのだけれど、
ラグビーボールというものは、ふつうのボールのように、真直ぐ上には弾まないのである。
そうだよね、あたりまえだよね。
でも、こんにちまで、そんなことも知らなかったのである。
奇妙な曲線を描いて、でもちゃんと手元に戻ってくる。
ふしぎだな、、、というようなことをおもいながら、帰路につく。

今月のaudibleの課題は、Surely you're joking, Mr Feynmanである。
試行錯誤を経て、途中の経緯を多少すっ飛ばしても意味が通じる、エッセイ風のものがよかろうと
やっと気がついたのである。12時間もあるよ。1ヶ月で終わるかなあ。
まあがんばりましょ。

昨日のNHK立花隆氏のがんの特集はとてもよかった。
ただやはりテレビだけだと冗長なので、見ながら戸塚氏のブログを読んだり、ネットに載っている立花氏のがんに関する対談記事を読んだりした。
生死一如というけれど、がんという病気ほど、そのことよく表している病気はないなと思う。
がん細胞を殺すということは健康な細胞も殺すことになる、という事実が、いま、こうしてわたしが生きていることの奇蹟を物語っている。
生は死を内包し、死は次なる生を孕み、連なっている。
どこがどう連なっているかという連関は、よく分からないけれども、
きっと、どこかに繋がっているという直感だけはある。
だからこそ、今日を生きられる、そんな気がする。

人間には、死ぬ力がある、死ぬまで生きる力が備わっている、と立花氏は語っていた(と、思う)。
それが、強烈な意志、そして生命への慈しみに満ちて響いてきて、
心の、とても深いところから励まされた。

2009/11/22

へんなおじさん

パイレーツロック、やっと観てきた。
フィリップ・シーモア・ホフマン史上、最高にかっこいい。
(カポーティ以来、ひそかにファンなのだ。)
ビル・ナイも、いいねえ。
ギャビン役の人に見覚えがあって、どこで見たのか気になっていたのだけれども、
「ノッティングヒルの恋人」の同居人、スパイク役だった。

ひたすら痛快な内容で楽しめるし、ロック好きでなくても聞き覚えのある音楽も良いけれど、加えて、
「へんなおじさん」好きには、見逃せない。
サントラも、ほしいかも。

The Kinks- All Day and All of the Night
The Beach Boys - Wouldn't it be nice

ナマケモノ

はじめての90分LSD(Long slow distance)。
10kmコースを1周したあと、90分になるまで近所を少し走ったから、距離は、たぶん、13kmぐらい。
ウインドブレーカーが1枚しかなくて、まだ乾かないので、このまえ登山雨具として買ったジャケットを着て出る。がさがさと固く、大袈裟な音がする。やっぱり、これって、雨具だ。。。
寒いのでユニクロのエアテックパンツを試してみた。こちらは、7kmを過ぎたあたりから汗をかいて重たくなってきた。とき同じくして、上半身の汗が冷気にあたって、寒くなってくる。一旦はずした指なし手袋を再度ポケットから出してきて、はめる。

昼ごはんのあと、ジョギング用タイツを探していたら、誠bizに「挫折しないジョギング」なる記事を見つけた。そこで勧められていることを、いくつか実践していた。
同じことを考えている人がいて、ちょっと嬉しい。

最初にコースを作るべし(だいたい30分コースでしょう)
短距離用コースを何度も周回するのは、途中で怠けゴコロが出て当初の目標距離を走れない場合が多いから、1周で目標距離を達成できるコース、また、最後まで走りきるために、終点が家、というコースが好ましい。
時間があるときのための長距離用と時間が取れないときのための短距離用とコースを分けるべし。
長距離用から短距離用が分岐するコースは宜しくない。(怠けゴコロが出ていつも短距離コースになってしまうから、、、)
左回りでコースを作るべし。(足の構造上、それがいいらしい)
仕事から帰ったあと、その日ジョギングするしないに関わらず、リラックス部屋着などに着替えず、ウエアに着替えるべし。

そうそう、そうだよねえ。
自分はナマケモノ、という前提でプランを作っているところが共通点。

ナマケモノ(苦笑)
ちびナマケモノ、かわいい。

2009/11/21

手袋その2

午後から、近場の商店街を2つ回って、おかいもの。
指先のない手袋を見つけて、つい衝動買い。
内側にフリースがついているので、気持ちいい。
節電のため、今年まだ暖房を使っていない自室の中でも
手袋していたくなる。(今も、している。べんり。)
手がほかほかだと、こころも、ほかほか。

レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」、読みかけ。チャンドラー「ロング・グッドバイ」も。
そろそろ毎月のaudibleのダウンロード時期なので、
今月の課題だったThe shadow of the windも、終わらせないといけないし。

パイレーツ・ロック、観に行きたい。そういえばタランティーノの新作ってどうなのかしら。
あら、そろそろジョギングの時間だし。
なにかといそがしくて、ぜんぜん、試験勉強すすまないなあ。

2009/11/20

手袋って

昨日、走っている最中、あんまり手が寒かったから、手袋、てぶくろ、、と呟きながら、押入れを探索した。
手袋は、あまり使わない。
ひと冬に1、2回、ああ寒い、と買ってみては、やっぱり、手が使いづらいから、という結論に達して、押入れに納品されてしまう。
そういう哀しい運命の手袋が、あった、あった。
なぜか、やたらぶ厚い、裏起毛の、北海道あたりでも通用しそうな手袋。
ウインドブレーカーに全く似合わないんだけれども、まあ仕方ない。

でも、走り出して10分もすると、あたたまって、むず痒くなってきた。
やたらぶ厚いので、外して片方ずつポケットに入れたら、妊婦さんが走ってるみたいになった。

正月の駅伝やマラソンで、指先のない手袋しているひとがいるけれど、あれって、途中で痒くなって外したくなったりしないのかなあ。
水みたいに、道端に投げちゃったりするんだろうか。
うーん。こんどチェックしてみよう。

テレビでアイーダがかかっている。生とかDVDを見ていて眠いことはあまりないけれど、どうしても芸術劇場のオペラって眠ってしまう。何故だろう。時間帯の問題かなあ。
意味不明なまま結局受けることにしたMDICのテキストも、眺めてはいるけれど、あまり進まない。

2009/11/19

寒い。

夏になる少し前から夜のジョギングを始めた身には、
はじめての冬。
走り出せば温まるのは分かっているけれど、
戸外に出る、その、はじめの一歩が、やたら重い。
少し雨でも降ると、それを良い口実に
布団にくるまって、PC眺めながら眠ってしまったりする。
日曜に走ってから4日ぶり。

腕時計をして出るのを忘れた。
のろのろで良い、と思っていたせいか、
ほとんど汗をかかないし、5kmで終えてしまうと、少し、もの足りない。

冬用のウエアを探してみる。
タイツと、そうそう、手袋がほしいな。

2009/11/17

明日から

仕事で商標絡みの問題が生じていたせいで、特許庁の講習会に行かせてもらったり、仕事中に特許電子図書館の検索を試しては楽しんでいたのだが、ひと段落してしまった。
そういえば、もう8年も前になるのか、東京に戻ってきて最初に考えたのは弁理士事務所でのバイトだった。今にして思えば英語力と理系知識の不足もあったのだろう、2社ぐらい面接に行ったものの、結局どこにも採用してもらえなかったけど。いまだに特許とかと聞くと、少し耳がそばだつ。
あーあ。明日から何を楽しみに仕事しようかなあ。

2009/11/15

機の思想

新装開店した山種美術館に速水御舟の炎舞を見に行く。
間近で見た蛾の羽は、炎の中で、焼けそうというよりも、端から溶けてしまいそうに見えた。
右端の一匹の羽は、写真にすれば随分青みがかって見えるが、実物の青は、もっとずっと、霞んでいた。この1枚だけ2回、じっと見て、あとは殆ど遠目に眺めるだけで会場を出た。
御舟は31歳で炎舞を描き、40歳で亡くなった。
駅に向かって歩きながら、昨日読んだソンタグの言葉を思い出す。
「本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力をもっている。だから、芸術作品をその内容に切りつめた上で、それを解釈することによって、ひとは芸術作品を飼い馴らす。解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする」(スーザン・ソンタグ「反解釈」より引用)


恵比寿駅の喫茶店で、持ってきた「日本辺境論」を読む。行きの電車の中で1章を読み、その後とばして3章「機」の思想を読んだ。これまでの人生において、確かに、世界の中心は今自分のいる場所ではない、と思っていたから学ぼうとしてきたし、今も「遅れてきた人」であり続けているせいか、沁みるのである。
「「学ぶ力」とは、「先駆的に知る力」のことです。自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです」(内田樹「日本辺境論」より引用)
あやうく泣きそうになって、いそいそと喫茶店を出る。新書を読みながら泣きそうになるなんて、怪しすぎる。

新宿で買いものをして家に帰り、走る。
日中陽がよく照っていたせいか、今日は半袖でも外に出られる。
5km、31分10秒。がんばった。

2009/11/14

隠喩としての病

池袋駅を横断して、ジュンク堂に行く。内田樹先生の新刊が目当て。しっかり仕入れる。

あとは、やたら高いスーザン・ソンタグの『隠喩としての病』を座して読む。書店に椅子があるって、本当に素敵。

ソンタグの名前を知ったのは割に最近だと思う。今日もこれ経由で杉本氏の講演を知ったという(会場で後姿をお見かけした)Brutus鈴木氏のブログだったような気もするし、松岡正剛の千夜千冊だったような気もする。ともあれ、今朝は千夜千冊『反解釈』のエントリーを再読して、ソンタグを見つけないと、とは思っていた。

長年癌を患ったソンタグは、症状等については触れることなく、あくまで隠喩としての病について論じている。たとえば、医学が発達する前はもとより、現代においてさえも、原因の分からない、または複数の原因が考えられるなどで、死に至る病気は、患者自身の何らかの罪に対する罰と考えられたり、または内面が病気として外面に現出したものと思われたりする。

また、社会の病巣、というような文脈で病が使われる場合、病の前提は「取り除くべきもの」であり、「戦うべきもの」と認識されている。医学の進歩を否定するものでは全くない。しかし、病と健康が共存している状態こそが自然の一部としての生命の状態なのではないかとソンタグは言っている(のだと私はおもう。)

ともあれ、長年病と付き合いながら、かくも潔い言説ができるソンタグという人を、もっと知りたいと思った。

what we can share

Attended lecture "The origin of art" given by photographer/artist Hiroshi Sugimoto at Rikkyo Univ in Ikebukuro, Tokyo. He showed slides of seascapes and said, there might be so much difference between what the ancient human relatives saw and what we see now. However, at least, we can share almost the same seascapes in common.

He is famous for having detailed knowledge about ancientry.
One of Mr.Sugimoto's "Dioramas" series, "Earliest human relatives".

His recent interest is to apply the electric current to films. The lightning was showed up mysteriously in the dark as if it had some life in it. The works are now available at IZU Photo museum.

absense of absolutes

Wondering to go to a piano concert including Kurtag in the program. Googling Kurtag and found cute clip of Bach.

J. S. Bach-Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit, BWV 106

Human has been exposed to absense of absolutes, ever changing life. Everything is changing, the world and so as our mind. Sometimes we have instinct to feel and confirm, friends and aquaintances are, in extreme case, alive or not, like the above clip.

2009/11/12

message in a bottle

This blog is like a message in a bottle. Nobody knows whether it gets to somewhere. Nobody knows there may be some truth, may be not. Whether picked up or thrown, it never matters to me. Just accumulate words and words, just drifting on a chaotic sea of internet.

2009/11/10

Chandler and Lévi-Strauss

My favorite author and blogger Prof. Tatsuru Uchida, wrote that Raymond Chandler and Claude Lévi-Strauss have something in common in the way of writing. According to prof. Uchida, Haruki Murakami wrote 'The Long Goodbye' afterword as a translator,
'What kind of things does Chandler intend to write with his best eloquence? In short, it is the world viewed through the eyes of Philip Marlowe as a narrator. The scene is looked so accurately, told so eloquently into very details, but seems not processed. Philip Marlowe would comment on many of the scenes, would take action. However, we look his comments and attitudes do not reflect his real sense of self..'
Prof. Uchida wrote he would not be surprised if someone replace Philip Marlowe as Claude Lévi-Strauss and say, this is the comment for "Tristes Tropiques". May be this is not major way of reading, but it would be good for readers who has a chance to compare both authors.
I took that advice worth following. In addition, realized that I happen to have "The Long good bye" translated by Murakami in my bookshelf. I' m about to turn the first page.

2009/11/08

もっとも遠くにあることを

用事で蒲田まで出かけて、帰りの電車の中、ぼんやりと流れる風景を眺めていた。
もぎけん先生Twitterの名言たる、見たことも聞いたこともない最もへだたったところにあるものごとが、いま光速で届いたと考えてみたら、「いま」が違って見えてくるよねという(ような感じの内容だったと思うけど違ってたかもしれない…)ことを思いつつ。
そうだ、もっとも遠いところにあることを思うべし。

家に帰って、さて、現実から遠いところにあるもの、そうだ、たまには趣味の脳科学を省みなければと、くだんのブログの昔の投稿から論文のリンクを探し出してきて読む。(なにしろ30を過ぎてから、慣れない業種の外資を狙って転職しているのも、ちと難しげな理系の言葉が出てくる英語を日常的に使用していれば、そのうち脳科学の論文だってすらすら読めるようになるに違いないという勝手な思い込みからのものである。かなり大雑把な思い込みだったことに気づきつつはあるが、しかし、少しずつでも「もと」を取っていかないと。)

A Key Role for Similarity in Vicarious Reward
アブストラクトの日本語訳も後から発見した。
他者の中に自己を見る、という、日常なんとなく感じていることが科学的に実証されているのを読むのはそれなりに面白い。たとえば松井選手のMVPを縁もゆかりもない私みたいな人間が少しは喜んでいるのだって、そういう作用なのだろう。
でもやっぱり素人としてはデータの読み方がよく分からないし、実証する方法を自分で考えられたらもっと楽しいだろうにと思う。頭よくなりたいなあ。ほんと。しかし基本的にもっと論文読まないと。
がんばろうね。
長い目で。

2009/11/07

走る走る

迷いが深いときに限って、家から外に出る気にならないものである。
そういうときほど、とりあえず外に出てみることが大事だとわかっていたはずだったが、結局もやもやと頭の中に霧がかかったような状態で、一日過ごしてしまった。
こういうときは、走るに限る。結局夜10時を回ってから家を出た。
走り始めた頃は、走るたびごとにタイムが短くなるのが面白かったが、ある程度定着した今となっては、タイム更新はなかなかにたいへんである。
息が切れる程度のハイスピード(のつもり)で走っているけれど、上り坂で足が上がらなくなる。
背筋を伸ばしたり、顎を引いたり、腕を振ったりと、いろいろやってみるけれども、気持ちに足がついていかない。呼吸だけが大袈裟に荒くなる。
このまえ見たモンブランをトレイルランする人たちの映像が一瞬フラッシュする。
ああいう人たちの限界への挑戦する真摯さに比べると、つくづく、自分は甘いね。
5kmを、それでも初の31分台で走る。
さて、1km5分台で走れる日は果たして来るのだろうか。
とにかく、来年はマラソンを走るのだ。
そろそろ15kmから20km走ってみないといけない。

I see the moon and the moon sees me

Watched the movie 'Evening', found a beautiful song the end of the story.
It seems a traditional song, 'I see the moon'.
In the 'Evening', the main character Anne who once dreamed to be a singer , is now a housewife and having two daughters, in the mess of everyday life. In the middle of the confusion, she suddenly began to sing for her daughters.
I see the moon(from 'Evening')

Lyrics;
I see the moon (and) the moon sees me
The moon sees the somebody I'd like to see
God Bless the moon and God Bless me
And God Bless the somebody I'd like to see...
http://www.grandparentsmagazine.net/SongLyrics/moon.htm

During the time having something warm in my heart, the world seems more beautiful than as usual.

2009/11/03

急に

夕方、急に「かぶ」が食べたくなる。
この寒いのに、スーパーまで出かけなくても、と思うのだが、どうしても食べたくなる。
人間の食欲とは妙なものである。
簡単レシピ集から選んだ「かぶのトマト煮」を作ることにして、スーパーで最後のひと束だったかぶと、トマトのホール缶を買う。
かぶは少し炒めてから、コンソメとかだしを適当に入れ(できればにんにくも欲しかったが買うのを忘れた)、トマトとローレルを投入、10分弱煮込んで、味をつけておしまい。おいしい。

夜、アラームが定時にセットしてあって、毎日りりりと鳴る。
今まで雨の日は走らなかったが、この日曜に登山用にも使えるしと雨具を新調してしまったから、今後は故障でもしない限り、雨の日でも走らない理由はなくなる。おまけに今日は晴れている。しかし寒い。
この寒いのに何故に走らねばならないのかと自問するも答はとうに出ている。2日運動をさぼると体調が悪くなるからである。ここで立ち上がらなければ負けである。負け犬の遠吠え。ぱおーん。ぱおおおーん。むなしく脳内を遠吠えがこだまする。ベッドから起き上がり、今シーズンはじめて長袖のウエアを取り出してくる。
走り出せば温かくなると分かっていても、とても半袖で外には出られないよ。
と、思って道に踏み出すと、半袖を着たおじさまに出くわす。なんと、歩いている。
とくにスポーツをしているらしい様子もない。どうしてこの気温の中、走らずに歩いていられるのか、人間の体感温度とは実にさまざま、妙なものだなあと思う。

山で使う筋肉は路上を走るときに使うのと違う。
山登りはつま先から着地することが多い。翌日、ヒールの高い靴は筋肉痛で履けなかったけれども、ヒールのないジョギング用のシューズなら問題なく履けて、10km走れた。ジョギングはかかとから着地するから、かかと関連の筋肉は痛くないのである。月曜は休んだ。筋肉を酷使した翌日か翌々日に筋肉量がぐんと増えるが、しばらくするともとに戻る。
今日も筋肉痛は残っていたが、もう通常の筋肉量まで戻っていた。5km32分は変わらないが、こころなしか、足が軽いようでもある。やはり、普段使わない筋肉を使ってあげないといけない。本格的な冬になる前に、もういちど高尾あたりの5-6時間のコースにトライしたい。

ひつじ

図書館で借りた加藤周一『羊の歌』を読みかけのまま返却期限が切れてしまった。
再度借りようか考えながらいろいろ検索していたら、こんな羊の歌(The lost sheep)を発見。
どんないきさつでこういうことになったのか全く分からないけれども、発作的に笑いが止まらない。きわめてマジメにやってるのに、悪いね。
でも最後に笑い声が入っていたし、たぶん、笑っていいんだよね…

ごく個人的に今話題のFather Tedは、勢いで土曜から見始めてseazon2まで全話見てしまう。上級者向けのThe officeとかに比べると、字幕がなくても初心者にも分かるしキャラも親しみやすい。神父とかシスターのコメディって外国でときどき見かけるけれど、日本のコメディでお坊さんが出てくることってあったかしらと素朴な疑問。

ひつじつながり。Chirpy Burpy Cheap Sheep (ついにシーズン3に入った…)
自室にも羊のポスターが貼ってある。羊ってなんだか好きなのだ。

2009/10/31

6号路から相模湖へ

高尾山口の改札を出ると、そこは大人の遠足グループでごったがえしていた。
さすがアウトドアシーズン。背景は違うけれど、御茶ノ水の改札から順天堂大に向かう通勤路並みの混雑である。
人が少なめの、琵琶滝沿いの6号路を選んで登る。
前を英語圏の人らしい3人連れが歩いていて、ちょうどペースが同じせいで、すぐ後ろをついて歩いてネイティブの会話を盗み聞きする。
アメリカから来たらしい男性が、ぼくはアメリカにいたころはけっこうアカデミックなジョークを言えてたんだけど、日本に来て、最近気がついたらなんだか言えなくなっている。日本人笑わないから、ジョーク言わなくなったせいかなあ、とか言っているのが聞こえた。イギリス男性が、アメリカに帰ればまたカンが戻って言えるようになるよと慰めていた。
いや、気の毒、すいません日本人の(いえ私の)英語レベル、と思いつつ、それ分かってしまう。ネイティブのジョークって分からない。私の場合、日本人の言ってるジョークさえ1拍置かないと理解できないんだから、外国語で言われたら、もうどうしようもない。
とはいえ、いちおう努力はしているわけである。ユーチューブでイギリスのコメディとか見たりして。しかしこれも若干の事前解説と仕込みの笑い声があるから分かるような気になるのである。
一対一で言われたら、きっと沈黙してしまうだろうなあ。ま、がんばります。

ということで高尾山は6号路から山頂に出て、そこから相模湖に抜けた。たかが高尾山となめてかかってはいけない。道中、ここで滑ったら絶対死ぬぞという地点はいくつもあった。上りの6号路は一人になることはなかったけれど、城山から相模湖に向かうコースは、たまにすれ違う程度で、殆ど一人で歩いた。下りが意外にきつい。結局ジョギングに使っているシューズを使ったけれど、今日程度の晴れの日でも地面は完全に乾いていないから、滑りやすいところも多い。一丁平、城山のあたりでは、トレイルランニングの人を数人見かけた。ちょうどモンブランの100キロトレイルを取材した番組を見たところで、いやすごいひとたちだと思う。
相模湖へ抜けるコースは民家を抜けたり舗装道路を通る分、これで自然路なのかしらと少し拍子抜けする場面もあるのだが、想像より大きくて、綺麗だった。ひとしきり歩いた後に眼前に緑の湖が開けたから綺麗に見えたんだろうか。
こんどは陣場山から高尾山に抜けるコースを行ってみたい。ただ、ここを行くとすると7時間程度の行程になるから、ちゃんとした準備が必要でしょうね。

2009/10/30

いよいよ

明日は高尾山に登ることにした。
高尾山ごときで、明日は、いよいよ、と宣言するほどのことは全くないのだけれども、つまるところ気合が入っている、ということだ。この時季だから、一人で行ったって、きっと道連れがいるだろう。まあ、いなくたって構いやしないし。
装備は結局買わず、持ち合わせで済ますことにした。
家にいても隣室の工事で煩いから、どこかへ避難するしかない。
映画には先週行ったし、外出すればなにかとお金を使うし、山にでも登るのが、いちばん安上がりで健康的でしょう。

Audibleで買ったThe Shadow of the Windは、割に英文が分かりやすくて助かる。
題名、著者名に続いて朗読者の名前が読み上げられるのだが、面白いのは、どうも声が似ていると思ったら、前回購入したSaturdayと同じ人が朗読しているのである。本の著者も違うし、もしや売れっ子で何十も吹き込んでいるのだろうかと思ったけれど、全部で8件しかナレーションしていない。その中の2件を連続購入するとは、いったい、どんなご縁で。

もぎけん先生のTwitterは、最近ますます短文の切れ味に磨きがかかってきて、岡本太郎ばりの名言集みたいになってきた。すごい、うまいなあ。
今日もいろいろたいへんだった。激風の中でこそ、自分のよりどころとすべきものが明らかになる気がする。そうですよね。

2009/10/29

憧れは憧れとして

定額で月に何回か(料金によって回数が増えるわけだけど)洋書の朗読をダウンロードできるAudibleというのがあって、遅かりしとはいえども先月から始めた。初心者なので、もちろん月1。外国のサービスを継続購入するのも、はじめて。
前回は、翻訳を読んだイアン・マキューアンの『土曜日』だったが、日本語で読んで面白い程度の、それなりに凝ったところのある文章は、現時点の英語レベルでは、よく分からない。1ヶ月聞いても、やっぱり分かるところしか分からなかった。児童向けにしてもおかしくない程度の、かつ、英文テキストを持っているのを聴くべきか、と思って、2回目の今回は以前にペーパーバックを仕入れたまま放置されていた『風の影』を選んだ。面白いといいなあ。
たまにTIMEのWebサイトを読む。これは割に分かるし面白い。Newyokerは憧れで、サイトをチェックするが、これまた凝った文章で、おそらく内容もふた捻りぐらいしてあるようで、素人にはちと難しい。ただ、憧れは憧れとして、もっておいても悪くはないだろうと思う。
五十肩が疑われた左肩は、ジョギングを始めて以来ほとんど気にならなくなった。今日も5キロ走る。32分50秒。最初飛ばしすぎて、2k過ぎから減速。相変わらず、少し膝が気になる。

2009/10/25

夕陽

ここ数日、仕事絡みの後味の悪い夢で目が覚めていたのだが、吹っ切れたのか、今日は何か違う夢で目覚めた。朝ごはんも美味しい。
昼から、4回目の10km。相変わらず音楽などは聞かない。ただ走る。ひたすら走る。
1時間9分、初の1km6.9分台。
前回の1時間11分を上回るように、上り坂と最後の2kmでがんばった。それでもマイナス2分。
クーリングダウンのストレッチをしていると2時を回る。急いでシャンプーをして、半年ぶりに美容院に行く。越してきて以来の行きつけで、縮毛矯正を割にうまくやってくれるのが良いのだが、空いているときでも3時間半ほどかかるから、行く決心をするまでに日数が要る。担当の美容師さんが産休に入ってしまったのも躊躇の因である。見知らぬ人と長時間話すネタの持ち合わせもない。
刷毛でべたべたと薬液を髪の毛に塗り、ラップを被せられ、ヒーターで加熱してもらっている間に10kmの疲れが出て、まぶたは重く、意識も途切れ途切れとなる。
27才男子の笑顔が可愛い美容師さんはバスケ部だったそうだ。道理でアイロンを持つ腕がたくましい。髪の量が多いので、アイロンを女の子の細腕にやらせるのは悪いなあといつも思っていたので好都合である。左右から美容師さんに髪の毛をひっぱられ、場所が違えば単におもちゃにされているようでもある。
6時半を過ぎて美容院を出る。髪はずいぶん短くなった。明日は、やっつけなければならない重たい仕事がある。せめて頭だけでも軽くしたい。
勤め先が変わっても、苦情処理ばかりやっている。
それでも、たとえば日航社員があの墜落のとき遺族に謝罪したのとは事の大きさが違うのだし、人の生き死にさえも、自然の営みの中ではひととき結ぶ泡沫にしか過ぎないのだし、と、昨日の映画で見たアフリカのサバンナと夕陽を思い浮かべる。もし自分が本当にアフリカへ行ったなら、もっと違う世界が開けるのだろうか。

2009/10/24

昼食はパン屋さんのパンとパックのサラダで済ます平日が続いていた。
せめてもの慰めに、スタバで買ったカフェラテを職場近くの公園でゆっくり飲むのが習慣になった。
その公園には鳩がたくさんいた。鳩の顔を見ているうちに、この前に観た若冲の群鶏とオーバーラップしてくる。
周囲の環境に私が同化する程度の時間が経過すると、鳩は私など存在しないような顔で、近くまで寄ってきて、砂の中に何かしら見つけては啄んでいる。
若冲の絵はシリアスに描写しているようでいて、どこかユーモラスだ、と美術館にいるときは思っていたが、鳥の顔というのは、元来ユーモラスであることに気がついた。
というか、よく観察してさえいれば、生きものというのはどんなものでもユーモラスなんじゃないか、とさえ思えてきた。
昨日対談を聞いた作家の島田氏は人間の感情というのはだいたい喜怒哀楽がそれぞれ4分の1ずつぐらい等分にあって、感情として表出するのはそのうちの一つ二つかもしれないけれども、ほかのものも奥に隠れてはいて、それぞれと戯れるすべさえ習得すれば、なんとか、生きながらえられるんじゃないか、というようなことを言っていた、ように思う。
他者に対しても、自己に対してさえも、じっと観つめつづていれば、どこかしら面白みのある部分を見つけることができ、それと戯れることができるのかもしれない。

いままで会社として使っていたらしい隣の部屋を住居用として売り出すから改装する、というので、土曜というのに朝から煩い。
なにしろ、隣室での電話の会話が理解できるほどに壁が薄いのだから困ったもので、会社だったのだけが救いだった(土日は休みだから)のだが、それもあとしばらくのことである。気が重い。
隣で壁に釘をとんとんとんと打っているのが、頭を叩かれているように響くので、おもわず、ああ、うるさーい、と叫ぶ。(もちろん薄い壁の向こうで作業している人に聞こえる程度の、声高に電話している程度の音量で。いやな隣人である)
まあ、そんなことしたって、向こうも仕事だからやめるわけもない。これが来月初旬まで続くというのだから頭が痛い。
諦めて、昼から映画館に避難する。山崎豊子原作の『沈まぬ太陽』。1時に始まって4時半に終わる長編。内容はよさそうだが小説を読む気にならないので、映画であらすじがつかめればよしとした。
最近仕事がほんとうに重いのだが、こういう巨大組織の、また人命に関わる事件に比すれば、さしたることはない、と素直に思えた。そういう意味では良い映画だった。

昨日の対談は後半ほとんど恋愛相談の質疑応答になっていて、本気で好きな相手に迫るならabsolute honestyでしょう、と語る某先生の言葉に、ほう、そんなものかしらねえ、と思ったが、先生らしいといえば先生らしいお答えではあった。
誰にでも適用できるかは、また別の話として、確かに、部屋にあるコスモスが可愛らしいなと思うのは、absolute honesty というか、full commitmentな感じ、確かに、そこがいい。

映画館から帰る。隣室も仕上げの段階に入っていると見えて、自室にペンキ塗りたての臭いがこもっている。音だけでなく通気も良いらしい。小ぶりの雨だが、窓を開けると、ずいぶん風が冷たい。10月も、もう終わりに近い。

2009/10/19

光の差すほうへ

約1ヶ月ぶりのプール。
というのも、膝に少し違和感があるからである。
半年前は5分走ってさえ、ぜえぜえ言っていた人間が、10kmも走るようになったのだから、身体が不調を訴えるのも無理はない、とは思う。
脚がまっすぐでない人は膝の外側を痛めやすいと、ものの本には書いてある。
上体が傾いていても、やはり身体のどこかに無理がかかるそうである。
大腿部前面の筋肉不足のせいで、着地の負担が膝のあたりにくるせいもあるかもしれない。
走り終わった後の足の筋肉は傷ついているようで、こころもち熱を帯びている。
これが炎症状態であるらしい。
今まで、走り終わった後にちょっとしたストレッチはしていたが、アイシングというような面倒なことはしてこなかった。でもどうやらそういうことも必要らしい。もう一度本を読んでおさらいをする。
アイシングに必要な氷のつくりおきなどというものはないので、応急処置として、以前に風呂から出る間際に立ちくらみを起こして倒れ、したたか腰を打った時に病院でもらった経皮鎮痛消炎剤の残りがあったのを思い出し、押入れから探し出してきて、貼ってみた。

ひと晩眠って、今朝、若干の違和感は残るが、まあまあ効果があった模様である。
でも大事をとって今日はプールにした。
すっかり温水に変わった水の中では、ゴーグルが少し曇った。

秋が人恋しいなんて、誰が決めたのか知らないけれど、どことなしに寄る辺ない気配がするようでもある。
昼間は太陽に向かい、夜は蛍光灯に向かって健気に咲く鉢植えのコスモスが愛らしい。

2009/10/18

0と1のあいだ

ものさしの0cmと1cmの間、1cmと2cmの間隔は同じく1cmであるけれど、
0回(未経験であること)と1回目(経験すること)との隔たりと、
初回と2回目(再経験)の隔たり、
隔たりというのはそれを始める前の気持ちの上での障壁とでもいうのだろうか、
より具体的には、よっしゃ、始めましょ、と腰を上げるときのその重さとでもいうか、
は明らかに何かが違う。
同じ0と1であるにもかかわらず。

なぜでしょう。

などと思いながら2回目の10kmを走る。
1時間11分でゴール。
前回は1時間15分だったので、4分速くなって、1km7.1分ペース。
相変わらず市民ランナーの中でも、びりっけつレベル。
もともと運痴を自覚しているから、今更落ち込むわけもない。
遅くたって、誰からも指摘されない。
趣味とは、かくも気持ちいいものである。

さしてタイムが伸びない中で、大きな変化は、
前回は、たどり着けるだろうか、と心配で仕方がなく、
最後の1kmはよろよろしながら走っていたのだけれど、
今回はえらく余裕で、最後の2kmはペースが上がったんじゃないかと
思うくらいだったこと。
前回は終了後の心拍数は130を超えていたけれど、今回は116。
身体の環境適応性は偉大である。

グーグルマップで10kmになるまで適当に線を延ばして作ったこのコースは
実は少し急な上り坂1つ、緩やかな上り2つ、緩やかな下り1つを含む
「坂」が多いことに気がついたのも今回が初めてである。
直線コースなら、もっと早く走れるかもしれない。
とはいえ、外苑あたりを颯爽と走る人たちの仲間入りするほどのレベルでもない。

ジョガーの事故というのは意外に多いらしい。
夜目遠目でも光って分かる蛍光リストバンドなどもグッズ売り場においてあった。
歩きとそれほど変わらない速度で走っていれば、そうそう事故に遭遇することも
なかろう、とたかをくくっていたのだけれど、最近その原因がなんだか分かる気がしてきた。
走っていると、見た目以上にすぐには停止できず、
方向転換でさえも一瞬の間を置かないと「その気」になれないものなのである。
だから、向こうから障害物たる車や人が来ても、
「すいません、もしよかったら、そっちでよけていただけませんか」
と思ってしまう。私の場合、きっとその間に轢かれるに違いないので、
リストバンドを買おうかと思いはじめている。

マラソンレースに出たいなあと思うのはそういう意味が大きい。
正面からくる車や人、赤信号に煩わされず、安全な道をただひたすら走ってみたいよ、という。

さて、走力などというものはそうそうレベルアップするものでもないだろうけれども、
次の目標は、10km走で1km7分を切ること、になるだろう。

2009/10/17

シュール

若冲の動植綵絵を観に上野に行く。
金曜の夜だから予想よりは空いている。
若い女子連れが「やっぱり若冲の絵って顔が可愛いよね」と囁きあっている。
そうだよね、と思う。
あの迫力の鶏でさえ、ユーモラスで可愛らしいのは目のせいだろうか。
見飽きない精緻な描きこみでありながら、対象が平面的に切り取られ、
構図のせいもあって、シュールだ。

白雀の顔。
蝶。
蓮池遊魚図の手前の一匹。
カエルの群れが一方向を向いている。
鳳凰の羽根の派手なハート型。
あひるのくちばし。

生活、生命に近くて、親しみのあるシュール。好きです。


三遊亭圓生にはまる。
声色の使い分けが絶妙。
佐々木政談、小間物屋政談、三軒長屋を聴いて、あはははと笑う。


2.5kmをなんとか走り切れそうな程度のスピードを出してジョギングしてみる。
それでもまだ1km6分台。

2009/10/12

落語

夜、落語を聴くとよく眠れる、というエッセイを立読みして、
ジョギングによる疲労のせいか何もしなくたってぐっすり眠れるけれども、
なんだか急に落語が聞きたくなった。

まずは志ん生から入るのが王道でしょう、と思ったのだけれども、
人気のせいか、図書館在庫CDは貸し出し済み。
たまたまあった円生のを2枚借りてきた。
各人の思いこみで同じ音でもいろいろに聞こえる、というテーマの
「紀州」という小話が気に入って
youtubeでも探して聞いてみた。
落語・三遊亭圓生『夏の医者』(1/2)

たしかそのエッセイストさんは金原亭馬生にお熱で云々、と書いてあったのを
思い出して、馬生も。
落語「目黒のさんま」(前半)

さすがにこれは、殆ど落語を知らない私でも聞き覚えがある。
あったかいうどんが食べたくなる
桂枝雀の「時うどん」

アタリさんのおかげ

新宿をぶらぶらと歩いて来年の手帳を買う。
もともと約束の時間に追われるような外勤の仕事もしていないので、
月間計画さえ書ければ支障ないのだが、
最近つけはじめた毎食の食事内容と、
マラソンに向けた簡単な年間トレーニング計画が記入できて、
かつ最小のものを選んだ。

本屋で新書やらを選んで、最後に話題の本コーナーで
ジャック・アタリ『21世紀の歴史』を手に取った。
ほんまかいな、とか呟きつつ、ちょっとお値段が張りますねなどと
内なる財務担当と相談したりもしつつ、
1分ぐらい悩んで、結局買うことにした。

折しも5000円以上お買い上げの方は抽選会がありますよ、
というので、いそいそと会場に行く。

がらがら、ポン。

5000円の商品券が当たる。

本日のお買い上げ総額は約7000円だからして、
あそこで2400円の本を買わなかったら、
抽選券はもらえなかった。

アタリさんのおかげで、商品券がアタリました、
と、しょうもないことを考えながら家路に着く。

村上春樹の1Q84をオーウェルのと同じ発音でイチキューハチヨンと読めるのは
日本人だけだなあ、これって日本人向けの村上流サービスなのだろうか、
と、これまたしょうもないことを、ふと思う。

立読みした落語本の影響か。

NHK音楽コンクールの今年の課題曲、
いきものがかりの「YELL」が頭の中で何度も鳴っていて、
ときどき泣きそうになる。
最近、J-POP系の歌手なんて全然聞かないけれど
久しぶりに、なんか、いい歌だなあ。

2009/10/11

丸さとか、太さとかね

先日下見をした10kmのコースをはじめて走ってみる。
いつも夕方か夜に走るのだけれど、さすがに10kmともなると、
景色が見えないとつまらない気もして、ちゃんと準備運動もしてから走りはじめた。
早稲田通りは、人ごみの駅前を過ぎると走りやすい。
キンモクセイの香りが漂っている。
日は照っているけれど、風が心地よい。
秋ですねえ。

後ろから足音がずっとついてくるような気がしていた。
ランナーとすれ違ったり、抜かれたりすることはままあるけれども
この超スローペースな私をずっと追い越さない人って、相当遅いなあ
と思っていたのだけれども、
ウエストポーチの中で、100mlほど入れたペットボトルの水が
しゃかしゃかとシェイクされる音が
後ろからワンテンポ遅れてついてきていたのだった。

1時間15分でゴール。

いつもジョギングしているコースは1周2.5kmで、
それを4周するという手もあるのだけれども、
やはり同じコースを4周するのは気力の面できつい。(元来、なまけものなので。)
3周終わったところで、やめておこうか、となりそう。
その点、1周10kmのコースならば、
なんとかゴール(家)まで完走しないと、と思うから、
苦しいところでも止まらずにがんばれた気がする。

途中、大きな道路の信号待ちと踏切待ちで数回止まって水を
飲んだりしたけれど、自分から積極的に止まりはしなかった。
きつめの坂道もちゃんと走った(よたよただったけど)。
75分で10kmだから、1キロ7.5分。
いつものジョギングのペースとさして変わらない。

はじめてにしては、よくがんばった(笑)
遅めの昼ご飯が、いつもと同じメニューなのに
えらく美味しい。
体重も、今年はじめて50kgを割った。
(よく考えてみると、ここ10年来ではじめて、というのが正確かもしれない)

先週の定期健診で、かかりつけのお医者さんに
(ちなみに、かっこいいおにいさんなのだが)
「そうだね、最初に来たときと、だいぶ感じがかわったね、
ええと、感じがというのは、うん、丸さとか、太さとかね」
と、きわめて物理的見地からなるコメントをいただいたところである。

2009/10/10

秋桜

マラソンのレースは、やはり走るには気持ちよい時期とあってか
近場のはどれも満員御礼、申込締切。
ではトレッキングにでも行くか、と靴と装備を探しにショップに寄ってみると、これまた混雑している。
アウトドアには気持ちの良い時期だからして。
みな考えることは同じ。
混んだり待ったりするのが嫌いな性分のせいで、一気にやる気が失せる。

原点に戻って、そろそろ10kmジョギングに挑戦するか、と、ペットボトルが入る
ウエストポーチを買って帰る。

某ブログ経由で見かけた金コーチご推奨の「体幹」走法を試してみた(2日目)。
咀嚼しやすいように素人風に解釈すると、
姿勢正しく、肩甲骨から腕を動かして、「背中で」走る、
着地のときには足の上に直線状に胴体が乗るように走る、
そうすると、胴体より足が前に出ない、
という理解だけれど、もしかすると間違っているかもしれない。
ともあれ、そうやって走ってみると、いつもよりラクに早く走れた気がする。
はじめて5kmを34分台で走る。

花屋の店先でコスモスが頼りなげに風に揺れていた。
店員さんに一鉢選んでもらって、日に当たるように部屋の窓際に置いた。

2009/10/05

正義

日曜の朝、「ようこそ先輩」」というテレビ番組があって、日曜美術館の前に、たまに見ることがある。
母校の学生(小学生である場合が多いように思うけれど、中学生の回もあったかしら、よく覚えていない)を相手に、先輩が現在の職業に関連することがらを講義する、という内容である。
昨日の朝は、伊勢崎賢治さんの回で、シエラレオネや東ティモールで武装解除、紛争解決に携わっていらした方だそうだった。
この手の話題には疎いので、子供向けぐらいがちょうど理解できる、と半ば自嘲気味に見始めた。

後半、ロールプレイで考えさせる授業だった。
川の上流がA国、下流がB国で隣り合っている。双方とも主に農業の国。(西から東に川が流れている)
国境に極めて近いA国領地内に水門がある。
川より少し南に、川に並行して道路があって、B国より東側には市場がある。
ある年、旱魃があって、川の水量が少なくなりました。
A国は水門を半分閉じてB国に流れていた水を自国内に流すことにしました。
B国は対抗し、道路を封鎖して、A国が農作物を輸出できなくしました。
更に旱魃がひどくなりました。
A国は水門を全部閉じ、B国は交渉にきたA国の人を人質にとりました。
さて、こうなったときに、A国のみなさんは、武力を行使しますか、どうしますか。
というような問いかけを小学生にして、議論を挟んで2回、どちらを選ぶか手を挙げさせていた、と思う。(たしか、1人の女の子が議論の後に武力を行使しないほうへ意見を変えた。)

2回目の挙手が終わった後、多数であることが正義ではない、少数派にも正義がある、
と氏は言った。
なぜか分からないけれども、その言葉がその後も残響していて、図書館で氏の本を借りてきた。
『武装解除』と『さよなら紛争』。
新書の『武装解除』から手をつけたのだが、途中から、14歳の世渡り術シリーズ『さよなら紛争』へ乗り換えて、そちらだけ読み終わった。

シングルスタンダードのない世界で、と副題のついた章には、人類共通の正義はない、だから自分にとっての正義は何かを見つめていきたい、と書いてあった。

最近、職場でチャットをしていて、policyという言葉を目にした。
XX is my policy,と彼女は言ったわけだが、それが、とても新鮮に聞こえた。
職場もまた、時にカオスと化し、少なくとも精神的には戦場となることがある。(もちろんそれはシエラレオネとは全く異なる平和ボケな戦場なわけだけれども、、)
数々の矛盾を抱える中で、自分にとって、正義、とまでは言えなくとも、何が正しいか、と
見つめる姿勢は、どこにいても、忘れてはいけないのだな、と思う。

2009/10/03

ハードル

地図で1周2.5kmのコースを作って、いつもは2回りしていたから、1回につき計5km。
5kmを体調によって35~37分で走っているのだから、ペースとしては、かなり遅い。
それでも、15~20分あたりまでは、かなり呼吸が苦しくて、30分を経過したあたりから、やっとラクになる、という状態が続いていた。
「鼻歌が歌えるくらいのスピード」が良い、と本に書いてあるのだけれども、
体力のない初心者が、鼻歌が歌える程度に遅く走るというのは意外に難しくて、
長年の不精のせいで、なまりきった心肺機能を上回るスピードをついつい出してしまう。
(客観的にはほとんど歩いているのと変わらないスピードになってしまうので、
かえって間の取り方がよく分からないせいではないかと初心者的には考える)

それが、昨日(のその前だったかしら、)走っていて、
はじめて、「鼻歌」のスピードを体得した。
走り終わっても息切れもない。顔も真っ赤にならない。タイムもいつもより遅くて5km39分。

初心者なりに考えてみて、最大のモチベーションダウンは膝を痛めることと思われるので、
むやみにハードルを上げるのは控えているのだけれど、
だいぶ涼しくなったし、筋肉もそろそろできてきたかしら、ということで
今日はじめて7.5km走ってみた。

どんな些細なことでも、今までできなかったことが可能になる、というのは、
走ることそのものの爽快さに加えて、また楽し、なのである。
この種の楽しみは、本を読むとか、映画を観るといった受動的な行為から得られるものとは
決定的に源を異にするように感じられる。

Saturday

Fainally finished reading Ian McEwan's "Saturday"(in Japanese). At the same time, listening audio book of it in English -for this one, not yet finished. I got this book by chance drawn through the recommendation of famous Japanese writer and read McEwan for the first time. It seems I like this author, especially the detailed description during brain surgery. Actually I rather like the enthusiasm for the science related details of the novelist than the description itself.

McEwan (and Dawkins) talked about religion and agreed in the interview, religion robs people of the sense of wonder even when we hear something new about how the world is.
Ian McEwan Interview - Richard Dawkins

Is there any way God and the open mindness to the world as it is coexist?
As for now, I do not have any clear objection against their view, but I 'm afraid I would not deny the compatiblity between those two, leaving whether I belive God or not on side.

2009/09/27

Tofu burg and carbo-counting

Recently, I sometimes feel dizziness from anemia. This might be because of calorie control. Docter had set the calorie for me before I started jogging. After that, the amount of exercise gradually but in a long term dramatically increased and I lost my weight about 13%.
There are many diet theories. My doctor told me the dominating method changed around each 10yrs.
Low glicemic index food may be one of a current main stream, and this can be applied for principle food -the food contains mainly carbohydrate.
However, for the person like me -lack of blood- should think about intaking more protein.
Now I'm trying Carbo-counting method. According to carbo counting, we need focus only on carbohydrate, because protein not so much increases blood sugar after eating.
Plant protein is preferrable for me, as even protein doesn't affect blood sugar, but it actually has calory. Too much protein ends weight increase.
Some days before, I found a package named 'Tofu burg no Moto'. We mix this 'moto' -this is made mainly from bread crumb and flavoring- and Momen-tofu , and then rolled it like hamburg, just fry it on weak-middle heat. With Ponzu-source, it's especially tasty. I has been eating Tofu burg for four days at breakfast and supper with much satisfaction.
Dizziness gradually leaving as Tofu burg coming. Cheers carbo-counting!

Pleased to realize 'Twitter' can be followed by google reader.

2009/09/23

はじめての10km

正確にいえば初めてではない、職場から家まで歩いて帰ったことがある。たしか形ばかりの会社の忘年会が会議室であって、その頃はまだ自分に飲酒を許していたので、高いワインを少し飲まされて、酔い覚ましにと歩き始めたら、家まで歩いてしまった。google map によると、あれもちょうど10kmぐらいだ。
でもあのときは仕事帰りで鞄も持っていたし、パンプスではないにしろヒールのある靴だったし、途中でおにぎりも食べたし、2時間経過したあたりで気づいたらマメができたりもしていて、最後は足をひきずて歩いた。とてもじゃないけど、ウォーキングといえる代物ではない。

さて、来るべき10kmマラソンに備えて、というか、そのトレーニングたる10kmジョギングに備えて、おなじみのmapでコースを作る。距離感を足で知っておく必要もあるし、まずは道に迷わないように。石橋を叩いて渡る性格なので、まず初回は下見を兼ねて歩くことにした。
おともは例の「what i talk about running ...」。10回以上聞いているけれども、内容がシンプルなだけに、ふだんの英文ライティングに流用できるフレーズ盛りだくさんなのに気づいて、しつこく聞いている。全速力で歩いているだけで目立つけれど、声は出さずに唇だけ動かしてのシャドーイングもしながらだから、きっと向こうから歩いてくる人にはヘンなひとに見えるに違いない。これまたおなじみの野球帽を目深にかぶって歩く。途中、ジョギングを終えた風の若い男性が歩きながら会釈して過ぎる。このご時世に礼儀正しい若者もいるものだと少しびっくりしながら会釈を返したつもりだが、なにしろ全力で歩いていたから、頭を下げたのは、もうすれ違ってしまった後だったかもしれない。

10kmは意外に近くて、100分で歩けた。1km10分の計算になる。歩いたにしては速かったね、と自画自賛。世界記録などとは無関係な市民ランナー(あるいはウォーカー)のモチベーション維持は、いかに適切に自己満足できる目標を設定するかにかかっている。この日記もその一助である。

今日はじめてなことはもう一つあって、audibleの事はじめ。そのうちいつか、と長らく思っていながら、実行に移していなかった。書店でオーディオブックを買うのに比べれば随分とお買い得ですしね。記念すべき購入第1作目は邦訳も読みかけの「Saturday」。主人公が脳神経外科医なので、脳関連の単語が導入部あたり、けっこう出てくる。これを機に習得すべし。

夜、またプールに行って、平泳ぎ。さすがに足が疲れていて、スピードは出ず。

2009/09/22

冬になるまえに

心肺機能強化のために、軽めの山にトレッキングにいく、と目標をたてる。
本当は明日、と思ったのだけれど、
シューズとか装備とか、念のため、と思うと、いろいろ準備もあるし。
冬になる前に実現したい。とりあえずは、高尾山かな。
来年は、最低10km、できたらハーフマラソンに出る。

膝にかすかに違和感があるので、2日連続で泳ぐ。
youtubeでhow to swim -breaststroke関連の映像を見てからプールに行く。
ジョギングを始めてから、下半身強化が目的として追加された。腕は伸ばしたまま、キックだけで進む。手を伸ばしたまま動かさずに息継ぎするのがけっこう難しい。
途中から呼吸が苦しくなったので、ふつうの平泳ぎに切り替える。
気がつくと、かなり本気モード、というか、全力で泳いでいる。いつもは余裕なのだが、久々に40分時点で息切れ。

やはり、膝が心配。テレビを見ながらスクワット。

To acquire a void

Haruki Murakami wrote in the "What I talk about when I talk about running", he ran in order to acquire a void. I totally agree with that.
I came to realize I didn't need any music when running, as for now. As the only thing I thought was the condition of my muscles, knees, breathing and the roads that existed several meters ahead of me.
I forgot all about complicated things related to my job -actually it didn't really matter for my life and might be even that it didn't relate to the job in a essential way, but as you know, sometimes tiny trivial things bother us a lot.
The void exists not outside of me, but inside of me -when we learn the way how to reach it.

2009/09/21

植物性ですね

5連休の初日と2日目は仕事絡みのセミナーで座っていた。
聞いていた、と書きたいところだが、哀しいことに、座っていた、が正しい。
どうやら病院の臨床工学技師さんなんかが本来の対象者らしく、法規関連以外は殆ど分からなかった。
医療機器は、医薬に比べると文系にもまだ参入余地のある職種があるが、やはり品質、薬事、治験あたりが限界で、安全管理になると電気回路なんかが分かる頭がないと難しそうである。(いや、もちろんマーケや営業という手もあるが、生憎あまり興味がない)
セミナーは竹橋だった。よっぽど、昼休みに抜け出してゴーギャンをもう一度見ようかと思ったが、自腹で払った4日で20000円(後半は来週の土日)のおかげで思いとどまった。

終了後、竹橋から丸の内まで歩いて丸善に行く。休日の丸の内はひっそりとして人影もない。堀端をときどきランナーが駆けていく。
『バガボンド』井上氏の書棚にあったらしい『死と身体』、それから、これは立読みをしていて見つけた『糖尿病でもおいしく食べる』(糖尿病でない人でも一読の価値があるカーボカウントの初心者向け解説本、1Q84を引用しているあたり親しみが湧く)『つぎはぎだらけの脳と心』を購入。

セミナーというのは聞いてるだけでストレスになるのか、そういえば、昨日も帰りに高田馬場の書店に寄ったのだった。北村薫氏の新刊を買おうと思ったが、コワイ話だというのでやめにして、『名短編ここにあり』と続編を仕入れた。あとは河合隼雄『生と死の接点』、誰か忘れたが作家の「熱があるときに氷をしゃぶりたいように本が読みたいときに、」とかいうポップの惹き文句が気に入って、イアン・マキューアン『土曜日』。
『名短編…』の冒頭に置かれている半村良「となりの宇宙人」は、艶っぽい描写がそれほど好みではなかったが、緑色の、ふにゃふにゃとした宇宙人たる「宙さん」が箸を持って豆腐を食べる場面が妙に良かった。
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「スプーンを出しましょうか」
「いや、いいんです、お箸を持てるように稽古します」
「よし、その調子だ。どう、うまいかい」
宇宙人は冷奴をひとくち口に入れて首をかしげている。
「どうだい、食えるか」
「植物性ですね」
「豆腐だよ」
「おいしいです」
「そうかそうか、たんとおあがり」
(北村薫/宮部みゆき編『名短編、ここにあり』収載 半村良「となりの宇宙人」より引用)

最近、野菜中心の食事をしているせいか、立ちくらみは昔からだが、眩暈もする。体重も、殆ど標準体重だれど、思ったより減っている。たぶん、ジョギングでエネルギーを使っているせいだろう。
カロリー管理だけでは不調をきたしそうなので、カーボカウントを導入することにした。
そういうわけで今日の昼食は、久しぶりの豚しゃぶ。
食べたあとに「いのちの食べかた」の一場面を思い出したけれど、でも、やっぱりお肉は美味しかった。

2009/09/16

Risk dispersion

According to "Omnivore's dilemma" written by Michael Pollan, 'there are some forty-five thousand items in the average American supermarket and more than a quarter of them now contain corn.'
It is said that you are what you eat, then, may be I am corn, at least somewhat % of my body is.
My current job is named as "marketing services" division, but actually related much more to QA and RA, I get used to check FDA website almost once or twice per week.
Once FDA enforcement report updated, e-mail notice comes to me. There are so many product names on the recall product list.
What I 'd like to check is only medical device section, but the list starts from "Food" section. Before I reach the med device, whether I like it or not, my eyes catch recalled food name.
Recently, I realize so many same food name repeatedly comes up on the list; like as peanut butter. Not only peanut butter, but also the food contains the peanut butter.
I don't like peanut butter, but if I like that recalled butter, it is awful.
I' m a kind of person who eats same food repeatedly once loves it. If I liked that peanut butter, now I would be dead due to eating so much contaminated butter.
I came to know, the risk dispersion of the food, sometimes fatal to our life itself.

*Today's jogging; 40min, 5km.

2009/09/14

19才

眼鏡の度が合わなくなったせいで、
アナログ体重計の目盛りが見えなくなって久しかったのだが、
いくらなんでも、と思って、
デジタルのヘルスメーターを買ったのが4ヶ月前ぐらい。
基礎代謝、内臓脂肪、身体年齢、骨量、筋肉量とかも出る、数千円の。
薬のせいもあって、一時期かなり太っていたのだが、そこから4ヶ月半で13%減って、
まあ、並になった。

面白いのは、走った当日は筋肉量が減ること。
筋肉、使ってるはずなのに減るって、どういうこと?と思っていたのだけれど、
これがいわゆる破壊されてるってことなのかしら、と漸く思い当たった。
1日か2日放置すると、体重と筋肉量も一時的に増える。
なるほど、これが再生ね、と、ひとり合点する。
更に放置しておくと、また、減る。
こういうのが面白くて、朝食前、夕食前、運動後と、しつこく量る。

で、本日。
ジョギング40分の後、量ってみると。
なんと、身体年齢19才。内臓脂肪が減ったのが大きいみたい。
今までの最高は21才だったんだけど。10代とはね。
せっかくなので、記念に記録しておく。

ちなみに、3日連続40分走ったあとは、運動当日でも、筋肉量も体重も、すこし増えている。
ふーん。そうきたか。
自分の身体で実験しちゃった科学者、医学者の話って聞くけれど、
自分の肉体のレスポンスを探るのって、意外に、はまりますなあ。むふ。
これが何か他人様のお役に立つような何かになれば、
良いのだけれどもねえ。
そういえば、Ghost townでGervaisが見上げたポスターに書かれていたのは、
たしか、この言葉だった、と思う。

Only a life lived for others is worth living. Albert Einstein

2009/09/13

2回目の5km

最寄のレンタル屋まで往復30分歩いて、昨日買ったジョギングシューズを試す。
スニーカーで良いんじゃないの、と思っていたのだけれども、
小出監督の本によると、クッションと足首のホールドが違うよ、ということだそうで。
値段はスニーカーと大して違わないけれど、
がっしりした、ランニング用のシューズを購入したのである。
確かに着地がすっきりする。ご満悦。

昼間はDVDとCD三昧。
リリースを少し楽しみにしていたRicky GervaisのGhost town(邦題;オー!マイゴースト)を見る。
嫌味のない、ごくフツーのラブコメに仕上がっている。
Gervaisもハリウッドに行って一般化されると、こうなるのね、と、ちょっと可笑しい。

この前のライヒに懲りて、ジョギングに適した軽快な音楽を探す。
だけど、今まで音楽に軽快さを求めたことがなかったので、
何を選んでよいのやら。
Jazzとクラブ系の棚で店員さんのオススメと、
唯一名前に聞き覚えのあった、クオシモードの曲が入っているCDを3枚。
キーワードは「踊れる」。踊れるなら走れるでしょう、きっと。

グーグルマップで5kmと10kmのコースを作成。
来週あたり、10kmに挑戦できるかなあ、と思いつつ、今日は5kmをもう一度。
信号で止まらないコースを選んだから、
多少遠回りしたはずだけれど、昨日と同じ、38分。
筋肉痛は、腿からまた上昇して、今日はおしりにきた。
村上さんはサロマ湖のウルトラマラソンで1日62マイルを走ったあと、
足はあたりまえだけれど、腕にきたそうだ。
走っているのに腕に来るとはね。人体のメカニズムって面白い。
代謝についても、ちょっと調べたりしている。

そういえば、村上春樹の著書で1回以上読んだ、というか聴いた本は初めてである。
というか、英語のオーディオブックで村上春樹を聴くのが、そもそも初めてだけど。
たぶん小説だったら、英語で聴こうと思わなかっただろうし。
とにかく、小説よりも、ご縁を感じる。
あ、今更だけど、『走ることについて語るときに僕の語ること』のはなし。

外山滋比古『ライフワークの思想』を読みかけ。

2009/09/12

はじめての5km

なんだか、ジョギングのブログみたいになってきた。
子どもの頃、突如、納豆が好きになって、1食に2パック、3食連続して数日食べ続けたことがある。
バランスが大事、と頭では分かっていても、「お熱」な時は、しつこくなってしまう。
人間相手にやると嫌われるのがオチなので、
あまり人間には熱をあげないように心がけてはいるのだけれども。
ともあれ、いまはジョギングに「お熱」なのだからして、これはもう仕方がない。

これまで継続走行時間を目標にしてきたのだが、
はて、いままで自分は好きな道を好きなように走ってきたが、
いったいどれほどの距離を走っているのだろうかと
気になりはじめた。
まあなんというか、遅きに失したりというべきかもしれないが、至極当然な疑問である。

おすすめのジョギングコース、何キロ、などというのは
ネットにも本にも種々存在するけれど、
そこまで出向くのも億劫だし、走り終わったあと、
汗びっしょりのシャツを着替える場所など考えなければならないのも手間がかかる。
やはり距離の分かる、自宅を発着地にできるコースがほしい。

小出監督の本によると、距離を測るには、最近はイロイロあるけど、
車で走ってメーターを見るのがいいんじゃない、と書いてあった。
はて、マイカーを持たない自分としては、
タクシーに乗って運転手さんに頼んでみようかしらと思いながら、グーグルマップをいじっていた。
すると。
グーグルトランジットで「車で行く」を選ぶと、ちゃんとキロ数が出るじゃありませんか。
最短距離表示だけでなく、ルート変更なんてこともできる。
これで自作コースの距離が測れる。
便利な世の中になったものである。

というわけで、5キロのコースを作成して、走ってみることにした。
自分がむかし通った小学校や、その隣の小学校を通る道順で、分かりやすいように
大きな車道沿いのコースを選ぶ。
少し雨が上がりかけたので、古着屋で買った野球帽みたいなキャップをかぶって出かける。
すでに秋雨なのだろうか、9月とは思えない気温。最初の2キロほどは汗も出ない。
車道を選んでしまったせいで、信号待ちが入る。これはいただけない。次は変更しようと思う。
次第に雨が強くなる。
でも野球帽のつばのせいで眼鏡も無事だし、
夏の頃に汗をかいていたのと、さして変わらない濡れようなので、
あまり気にならない。
すたすた。
初めての車道だし、ただでさえ反射神経が鈍いので、音楽は聴かないことにした。
雨のせいか、人通りもすくない。
空気は悪いが、ひと目を気にしなくてよい分、車道沿いも悪くない。
コンビニ前で、ゴール。
さて。5キロのコース、何分で走れたでしょうか。

途中、信号で3回ぐらい停まったけれど、腕時計を見ると、38分。
1キロ7分を超えているから、通常のレースだと、制限時間ぎりぎりか、タイムオーバー。やれやれ。

レース参加は、まだまだ先の話になりそうである。
そもそも、人混みの道を走るのはあまり好きじゃないけどなあ。
(ペース遅いから、混まないか、、、)
ま、気長に、いきましょう。

2009/09/10

レベル2

最近、「疲れた」にも、種々あるのに気がついた。
レベル1 少し休んで水でも飲めば、夕食前にジョギングできそう。
レベル2 プールで平泳ぎならできそうだ。(夕食前)
レベル3 夕食を食べてから(最低1時間半後)なら、ジョギングできるかも。
レベル4 夕食後なら、歩けるかも。
レベル5 ごはん食べたら寝ます。

ちなみに、夕食後ならプールに行けるかも、というレベルがないのは、
夕食から1時間半(できれば2時間)経過した後に泳げるプールが近所にないからであって、
もしそういうプールがあればレベル3と4の間に挙げたいのである。

さて、今日はレベル2。
唇のかさぶたも漸く取れたし、涼しくなったから空いているだろうという考えも手伝って、
久々に出かけた。なんと11日ぶり。
その間ジョギングはしていたわけだけれど、泳ぎはじめてみると、
使っている筋肉の部位が走るときと違うのに気づく。

クロールは鼻に水が入って痛いので、できない(今のところ)。だから平泳ぎオンリー。
2往復目までは、け伸びして、浮いているだけ。
7往復済んだあたりから、やっと通常のように水を蹴ることができるようになる。
手と足のフォームと、25メートルを何回の動作で泳げるかだけ意識する。
クロールの男性陣に、どんどん抜かされていく。
10往復目ぐらいから、スピードを出す。
途中から数えるのを忘れてしまったけれど、40分でいつもは1キロぐらい。
外の風が涼しくなったぶん、プールは、ほんのり温水になった。

Michael PollanのOmnivore's Dilemmaを読みかけ。
ここのところ、youtubeで毎夜authors@googleのPollan氏の講演をかけているのだけれども
必ず途中で(それも経過後10分程度で)眠ってしまって、まだ最後まで聞いていない。
身体を動かしているせいなのか、夜、目が冴えて眠れない、ということがなくなった。

2009/09/08

破壊と再生

日曜日。

例の小出監督の本を買ってきた。

マラソン、なんて、これっぽっちも考えていなかったのだけれど、

監督の語り口に上手く乗せられたのか、

フルは無理でも、10キロか、ハーフぐらいなら、、、などと

思いはじめた。

めずらしく手帳を開いて、トレーニングメニューを考えてみたりする。

折しも、東京マラソンの応募者数は過去最高だとか。

今日も40分Jogる。

朝、空気のきれいなときに走るのが好き、という向きもあるが、

わたしの場合、夕方から夜に走るのが心地よい。

起きぬけは、ただでさえ貧血気味だから、

全身が鉛のように重たくて、今のところ、まだ耐えられそうにない。

腿前面の筋肉痛が少し残っているが、

走り始めてしまえば忘れてしまう。

でも筋肉痛を最小限に抑えるために、本を見ながら、ウォームアップ、クールダウンも。

この痛みは筋肉が破壊されているのだとか。

破壊されたあと、少しのお休みを与えてやれば再構築されるから、

休養もトレーニングのうち。

少しずつの破壊と再生を繰り返してゆくと、いつのまにか大きく変わっている、

人間の身体とは、そういうものであるらしい。

ジョギングの本と一緒に買ってきたのは、北村薫「ベッキーさんシリーズ」の1、2巻。

こちらも一気読み。

2009/09/06

60min.

どうして走るようになったのか、といういきさつについて、
もしも興味のある方には、前のブログを見ていただくことにして、
とにかく昨日も走った。60分走った。
一昨日出した自己ベストが40分だったから、これで継続走行時間記録の更新である。
客観的に見れば、歩くスピードとほとんど変わらない。
でも、本人の自覚からすれば、誰がなんといおうと、断固、走っているのである。
そう。すでにwalkerではない。runnerなのだ。

まあそんな気分転換みたいなものもあったし、
単に前のブログの使い勝手が悪くなったのも手伝って、ブログの引越しをした。

さて、いままでは2日続けて走ると、膝から下のスジが痛んで、
「いたいよーう」
と言ってはプールに逃げていた軟弱者の正体は相変わらずなのだけれど、
唇のヘルペスが完治しないので、今回はプールという逃げ道がない。
つらくなったら歩こうね、と自分を説き伏せて、
念のため水とブドウ糖と財布を、
小ぶりの、これしか見当たらなかったリュック(!)に背負って
走り始めた。

道すがら見かけるベテラン風の長距離ランナーさんたちは、
しばしばリュックを背負って泰然と走っていらっしゃるが、
それほど重くもないのに、慣れない身には、背中で揺れる異物が存外、走りの妨げになる。
ますますスローペースとなる。
最後の10分ほどは2分毎に腕時計を見ながら、
それでもなんとか、1時間経過。
ぼてっと道端のブロックに座り込む。結局途中で水は飲まなかった。

さて、一夜明けると、今回は腿が痛い。
膝下のスジから腿へ、と筋肉痛も格上げ、というところだろうか。
走るだけでなく、終わった後のメンテナンスも大事よね、と
ビギナー向けのガイドブックを探していたら、面白いのを見つけた。
あの小出監督の『知識ゼロからはじめるジョギングマラソン入門』。
「なか見検索」で目次を読むだけでも、元気が出る。
これから書店に行くので、ついでに探してみよう。