2009/11/30

いろんなことがありすぎて

5時を過ぎたとたん、オフィスから逃げるように飛び出す。
いろんなことがありすぎて、頭が爆発しそうなり。

少し早めの夕ごはんを食べても、元気になれない。

ゲームなんて、何の解決にもならない。

テレビを見たって、しかたがない。

こういうときは、走るに限る。
走っていると、ぐるぐると、どうどうめぐりしていることどもの、濃度とでも、または、めぐりの速度というべきものが、次第に薄く、しんなりと、そして、スローになってきて、雲散、というか、霧消にちかい状態になる。

コーヒーにクリームを、たらりと流し入れる。
くっきりと濃い、白い渦巻きが、スプーンの回転につれて、しだいにそのラインをにじませていって、周囲の褐色に溶けていく、ああいうかんじ。

だから、走るのを、やめられない。
理由は、それだけじゃないとは思う、けれども。

そのうち言葉にできるようになるかもしれない。

2009/11/29

箱根

三浦しをん「風が強く吹いている」を読む。
著者については、名前以外全く聞き覚えのない人だったし、駅伝がテーマじゃなかったら絶対に読まなかったと思うけれども、ひとまず映画を観るか決める前に原作をチェックしようかとブックオフで買ってきて、遅めの昼ごはんを食べながら読み始めたら、いつの間にかひきこまれてしまって、後半あたりからは、もう、殆ど泣きながら、いま読み終えたところ。

キャラクターは、実在の誰かと意図的にオーバーラップさせている感もあり、それでいて、どこかの書評にあったように「ありえない」「ファンタジー」的展開ともいえるが、それでも強引に読ませてしまうのは、箱根駅伝そのものの持っている多層的な意味合いをしっかり切り取っているからではないかと思う。
チーム競技であること。出場者が大学の学生であり、駅伝という中途半端な距離設定のせいで、ある程度選手の実力に幅を持たせることができ、この駅伝を必ずしもプロへのステップとしない選手が参加できること。

箱根において、目に見えるゴールは一つだけれども、その「ゴール」には、参加した人それぞれの意味がある。そして、ゴールを越えても、その先も道は続いていく。

その先に何があるのか、そこを越えると何が見えるのか、いまだ分からないけれども、どうも行ってみたい、行かずにはいられないという衝動をかかえている人にとっては、また、実際に、何らかの形で走っている人にとっては尚更、きっと共有できるものをこの本は、まあ、なんというか、あまりに爽やかな青春小説的な味付けではあるけれども、提示してくれている。

次の正月も、きっと、テレビで駅伝を見てしまうだろうな。

2009/11/28

牛しゃぶ

先週の日曜に引き続き、2回目のLSD(12km)。
ほんとうにスローに走っているせいか、12kmを越えても、まだまだ行けそうな気が、一瞬、したのだけれども、家が見えた途端に足が止まって、そのままふらふらと帰宅。(一応終了時のストレッチぐらいはしたけれども。)やっぱり、生来のナマケモノなのだ。
次は15kmを目標にする。距離を伸ばすには、やはり1周15kmのコースを作るしかないなあ。
90分で12kmなので、7.5分/1km。信号待ちも含んでいるとはいえ、スロー。
最初の頃は、10km走ると膝が痛んだものだけれども、最近はそういうこともなくなった。
慣れですね、なにごとも。

今日はわりとあたたかかったせいか、ジョガーとすれ違ったり、抜かれたりした。
みなさん、おつかれさまです。

スーパーで半額だった牛肉で、夕飯に、今年初の牛しゃぶ。
おいしかった。。

モーツァルト、クルターグ、シューマンとか

内田光子を聴きに、サントリーホールに行く。

いわゆる肥えた耳、みたいなものを持っていないので、そのピアニストが好きか嫌いか、などというのは、殆ど「感じ」でしかなくて、何の根拠もない。

なので、ごく私的に、ああ、なんだか、このひとは好きだなあと思う。


じつはモーツァルトという作曲家が心の底から好きだと思えたためしがないのだけれども、内田さんのモーツァルトは素敵だった。バッハの「フーガの技法」と「フランス組曲」のサラバンドに挟まれて演奏されたクルターグの「遊び」もよかったし。


内田さんは、なにかストレッチでもしているみたいに深く、お辞儀をする。その、なんというか、いさぎよい感じが素敵だとおもった。



帰宅してから、サー・サイモン・ラトル指揮のピアノコンチェルト20番を観た。良い。。
こんな顔して演奏してたんだなあ。(B席だったので全然見えなかった。。)


UCHIDA & RATTLE Mozart Piano Concerto No.20 1st mov. Pt.1/2

Mozart sonata in C K.545 2nd mov, Mitsuko Uchida Piano


アンコール曲目は
シューマン:『謝肉祭』の告白。と、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ30番とのことでした。

Mitsuko Uchida Plays Schumann's Carnaval, Op. 9

(「謝肉祭」。IVとあるけど、告白以降最後までの4曲。)

会場で、コンサートのパンフレットの束を眺めていたら、来年はショパン生誕200年とかで、ユンディ・リが来るらしい。ちょっと聴いてみたい気がする。

Yundi Li - 14th International Chopin Competition (2000)


2009/11/24

死ぬまで生きる力

通勤途上に順大がある。
いかにも医療従事者ふうの格好の人たちとはまた別の区域に、スポーツ関係の人たちがたむろしていて、ときどき練習風景を見かける。
今日は、ラグビー部とおぼしきひとたち。
道端でボールを弾ませている。
間近でラグビーボールを見たのは初めてである。
ああいうアーモンド型をしているのだから、あたりまえといえばあたりまえなのだけれど、
ラグビーボールというものは、ふつうのボールのように、真直ぐ上には弾まないのである。
そうだよね、あたりまえだよね。
でも、こんにちまで、そんなことも知らなかったのである。
奇妙な曲線を描いて、でもちゃんと手元に戻ってくる。
ふしぎだな、、、というようなことをおもいながら、帰路につく。

今月のaudibleの課題は、Surely you're joking, Mr Feynmanである。
試行錯誤を経て、途中の経緯を多少すっ飛ばしても意味が通じる、エッセイ風のものがよかろうと
やっと気がついたのである。12時間もあるよ。1ヶ月で終わるかなあ。
まあがんばりましょ。

昨日のNHK立花隆氏のがんの特集はとてもよかった。
ただやはりテレビだけだと冗長なので、見ながら戸塚氏のブログを読んだり、ネットに載っている立花氏のがんに関する対談記事を読んだりした。
生死一如というけれど、がんという病気ほど、そのことよく表している病気はないなと思う。
がん細胞を殺すということは健康な細胞も殺すことになる、という事実が、いま、こうしてわたしが生きていることの奇蹟を物語っている。
生は死を内包し、死は次なる生を孕み、連なっている。
どこがどう連なっているかという連関は、よく分からないけれども、
きっと、どこかに繋がっているという直感だけはある。
だからこそ、今日を生きられる、そんな気がする。

人間には、死ぬ力がある、死ぬまで生きる力が備わっている、と立花氏は語っていた(と、思う)。
それが、強烈な意志、そして生命への慈しみに満ちて響いてきて、
心の、とても深いところから励まされた。

2009/11/22

へんなおじさん

パイレーツロック、やっと観てきた。
フィリップ・シーモア・ホフマン史上、最高にかっこいい。
(カポーティ以来、ひそかにファンなのだ。)
ビル・ナイも、いいねえ。
ギャビン役の人に見覚えがあって、どこで見たのか気になっていたのだけれども、
「ノッティングヒルの恋人」の同居人、スパイク役だった。

ひたすら痛快な内容で楽しめるし、ロック好きでなくても聞き覚えのある音楽も良いけれど、加えて、
「へんなおじさん」好きには、見逃せない。
サントラも、ほしいかも。

The Kinks- All Day and All of the Night
The Beach Boys - Wouldn't it be nice

ナマケモノ

はじめての90分LSD(Long slow distance)。
10kmコースを1周したあと、90分になるまで近所を少し走ったから、距離は、たぶん、13kmぐらい。
ウインドブレーカーが1枚しかなくて、まだ乾かないので、このまえ登山雨具として買ったジャケットを着て出る。がさがさと固く、大袈裟な音がする。やっぱり、これって、雨具だ。。。
寒いのでユニクロのエアテックパンツを試してみた。こちらは、7kmを過ぎたあたりから汗をかいて重たくなってきた。とき同じくして、上半身の汗が冷気にあたって、寒くなってくる。一旦はずした指なし手袋を再度ポケットから出してきて、はめる。

昼ごはんのあと、ジョギング用タイツを探していたら、誠bizに「挫折しないジョギング」なる記事を見つけた。そこで勧められていることを、いくつか実践していた。
同じことを考えている人がいて、ちょっと嬉しい。

最初にコースを作るべし(だいたい30分コースでしょう)
短距離用コースを何度も周回するのは、途中で怠けゴコロが出て当初の目標距離を走れない場合が多いから、1周で目標距離を達成できるコース、また、最後まで走りきるために、終点が家、というコースが好ましい。
時間があるときのための長距離用と時間が取れないときのための短距離用とコースを分けるべし。
長距離用から短距離用が分岐するコースは宜しくない。(怠けゴコロが出ていつも短距離コースになってしまうから、、、)
左回りでコースを作るべし。(足の構造上、それがいいらしい)
仕事から帰ったあと、その日ジョギングするしないに関わらず、リラックス部屋着などに着替えず、ウエアに着替えるべし。

そうそう、そうだよねえ。
自分はナマケモノ、という前提でプランを作っているところが共通点。

ナマケモノ(苦笑)
ちびナマケモノ、かわいい。

2009/11/21

手袋その2

午後から、近場の商店街を2つ回って、おかいもの。
指先のない手袋を見つけて、つい衝動買い。
内側にフリースがついているので、気持ちいい。
節電のため、今年まだ暖房を使っていない自室の中でも
手袋していたくなる。(今も、している。べんり。)
手がほかほかだと、こころも、ほかほか。

レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」、読みかけ。チャンドラー「ロング・グッドバイ」も。
そろそろ毎月のaudibleのダウンロード時期なので、
今月の課題だったThe shadow of the windも、終わらせないといけないし。

パイレーツ・ロック、観に行きたい。そういえばタランティーノの新作ってどうなのかしら。
あら、そろそろジョギングの時間だし。
なにかといそがしくて、ぜんぜん、試験勉強すすまないなあ。

2009/11/20

手袋って

昨日、走っている最中、あんまり手が寒かったから、手袋、てぶくろ、、と呟きながら、押入れを探索した。
手袋は、あまり使わない。
ひと冬に1、2回、ああ寒い、と買ってみては、やっぱり、手が使いづらいから、という結論に達して、押入れに納品されてしまう。
そういう哀しい運命の手袋が、あった、あった。
なぜか、やたらぶ厚い、裏起毛の、北海道あたりでも通用しそうな手袋。
ウインドブレーカーに全く似合わないんだけれども、まあ仕方ない。

でも、走り出して10分もすると、あたたまって、むず痒くなってきた。
やたらぶ厚いので、外して片方ずつポケットに入れたら、妊婦さんが走ってるみたいになった。

正月の駅伝やマラソンで、指先のない手袋しているひとがいるけれど、あれって、途中で痒くなって外したくなったりしないのかなあ。
水みたいに、道端に投げちゃったりするんだろうか。
うーん。こんどチェックしてみよう。

テレビでアイーダがかかっている。生とかDVDを見ていて眠いことはあまりないけれど、どうしても芸術劇場のオペラって眠ってしまう。何故だろう。時間帯の問題かなあ。
意味不明なまま結局受けることにしたMDICのテキストも、眺めてはいるけれど、あまり進まない。

2009/11/19

寒い。

夏になる少し前から夜のジョギングを始めた身には、
はじめての冬。
走り出せば温まるのは分かっているけれど、
戸外に出る、その、はじめの一歩が、やたら重い。
少し雨でも降ると、それを良い口実に
布団にくるまって、PC眺めながら眠ってしまったりする。
日曜に走ってから4日ぶり。

腕時計をして出るのを忘れた。
のろのろで良い、と思っていたせいか、
ほとんど汗をかかないし、5kmで終えてしまうと、少し、もの足りない。

冬用のウエアを探してみる。
タイツと、そうそう、手袋がほしいな。

2009/11/17

明日から

仕事で商標絡みの問題が生じていたせいで、特許庁の講習会に行かせてもらったり、仕事中に特許電子図書館の検索を試しては楽しんでいたのだが、ひと段落してしまった。
そういえば、もう8年も前になるのか、東京に戻ってきて最初に考えたのは弁理士事務所でのバイトだった。今にして思えば英語力と理系知識の不足もあったのだろう、2社ぐらい面接に行ったものの、結局どこにも採用してもらえなかったけど。いまだに特許とかと聞くと、少し耳がそばだつ。
あーあ。明日から何を楽しみに仕事しようかなあ。

2009/11/15

機の思想

新装開店した山種美術館に速水御舟の炎舞を見に行く。
間近で見た蛾の羽は、炎の中で、焼けそうというよりも、端から溶けてしまいそうに見えた。
右端の一匹の羽は、写真にすれば随分青みがかって見えるが、実物の青は、もっとずっと、霞んでいた。この1枚だけ2回、じっと見て、あとは殆ど遠目に眺めるだけで会場を出た。
御舟は31歳で炎舞を描き、40歳で亡くなった。
駅に向かって歩きながら、昨日読んだソンタグの言葉を思い出す。
「本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力をもっている。だから、芸術作品をその内容に切りつめた上で、それを解釈することによって、ひとは芸術作品を飼い馴らす。解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする」(スーザン・ソンタグ「反解釈」より引用)


恵比寿駅の喫茶店で、持ってきた「日本辺境論」を読む。行きの電車の中で1章を読み、その後とばして3章「機」の思想を読んだ。これまでの人生において、確かに、世界の中心は今自分のいる場所ではない、と思っていたから学ぼうとしてきたし、今も「遅れてきた人」であり続けているせいか、沁みるのである。
「「学ぶ力」とは、「先駆的に知る力」のことです。自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです」(内田樹「日本辺境論」より引用)
あやうく泣きそうになって、いそいそと喫茶店を出る。新書を読みながら泣きそうになるなんて、怪しすぎる。

新宿で買いものをして家に帰り、走る。
日中陽がよく照っていたせいか、今日は半袖でも外に出られる。
5km、31分10秒。がんばった。

2009/11/14

隠喩としての病

池袋駅を横断して、ジュンク堂に行く。内田樹先生の新刊が目当て。しっかり仕入れる。

あとは、やたら高いスーザン・ソンタグの『隠喩としての病』を座して読む。書店に椅子があるって、本当に素敵。

ソンタグの名前を知ったのは割に最近だと思う。今日もこれ経由で杉本氏の講演を知ったという(会場で後姿をお見かけした)Brutus鈴木氏のブログだったような気もするし、松岡正剛の千夜千冊だったような気もする。ともあれ、今朝は千夜千冊『反解釈』のエントリーを再読して、ソンタグを見つけないと、とは思っていた。

長年癌を患ったソンタグは、症状等については触れることなく、あくまで隠喩としての病について論じている。たとえば、医学が発達する前はもとより、現代においてさえも、原因の分からない、または複数の原因が考えられるなどで、死に至る病気は、患者自身の何らかの罪に対する罰と考えられたり、または内面が病気として外面に現出したものと思われたりする。

また、社会の病巣、というような文脈で病が使われる場合、病の前提は「取り除くべきもの」であり、「戦うべきもの」と認識されている。医学の進歩を否定するものでは全くない。しかし、病と健康が共存している状態こそが自然の一部としての生命の状態なのではないかとソンタグは言っている(のだと私はおもう。)

ともあれ、長年病と付き合いながら、かくも潔い言説ができるソンタグという人を、もっと知りたいと思った。

what we can share

Attended lecture "The origin of art" given by photographer/artist Hiroshi Sugimoto at Rikkyo Univ in Ikebukuro, Tokyo. He showed slides of seascapes and said, there might be so much difference between what the ancient human relatives saw and what we see now. However, at least, we can share almost the same seascapes in common.

He is famous for having detailed knowledge about ancientry.
One of Mr.Sugimoto's "Dioramas" series, "Earliest human relatives".

His recent interest is to apply the electric current to films. The lightning was showed up mysteriously in the dark as if it had some life in it. The works are now available at IZU Photo museum.

absense of absolutes

Wondering to go to a piano concert including Kurtag in the program. Googling Kurtag and found cute clip of Bach.

J. S. Bach-Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit, BWV 106

Human has been exposed to absense of absolutes, ever changing life. Everything is changing, the world and so as our mind. Sometimes we have instinct to feel and confirm, friends and aquaintances are, in extreme case, alive or not, like the above clip.

2009/11/12

message in a bottle

This blog is like a message in a bottle. Nobody knows whether it gets to somewhere. Nobody knows there may be some truth, may be not. Whether picked up or thrown, it never matters to me. Just accumulate words and words, just drifting on a chaotic sea of internet.

2009/11/10

Chandler and Lévi-Strauss

My favorite author and blogger Prof. Tatsuru Uchida, wrote that Raymond Chandler and Claude Lévi-Strauss have something in common in the way of writing. According to prof. Uchida, Haruki Murakami wrote 'The Long Goodbye' afterword as a translator,
'What kind of things does Chandler intend to write with his best eloquence? In short, it is the world viewed through the eyes of Philip Marlowe as a narrator. The scene is looked so accurately, told so eloquently into very details, but seems not processed. Philip Marlowe would comment on many of the scenes, would take action. However, we look his comments and attitudes do not reflect his real sense of self..'
Prof. Uchida wrote he would not be surprised if someone replace Philip Marlowe as Claude Lévi-Strauss and say, this is the comment for "Tristes Tropiques". May be this is not major way of reading, but it would be good for readers who has a chance to compare both authors.
I took that advice worth following. In addition, realized that I happen to have "The Long good bye" translated by Murakami in my bookshelf. I' m about to turn the first page.

2009/11/08

もっとも遠くにあることを

用事で蒲田まで出かけて、帰りの電車の中、ぼんやりと流れる風景を眺めていた。
もぎけん先生Twitterの名言たる、見たことも聞いたこともない最もへだたったところにあるものごとが、いま光速で届いたと考えてみたら、「いま」が違って見えてくるよねという(ような感じの内容だったと思うけど違ってたかもしれない…)ことを思いつつ。
そうだ、もっとも遠いところにあることを思うべし。

家に帰って、さて、現実から遠いところにあるもの、そうだ、たまには趣味の脳科学を省みなければと、くだんのブログの昔の投稿から論文のリンクを探し出してきて読む。(なにしろ30を過ぎてから、慣れない業種の外資を狙って転職しているのも、ちと難しげな理系の言葉が出てくる英語を日常的に使用していれば、そのうち脳科学の論文だってすらすら読めるようになるに違いないという勝手な思い込みからのものである。かなり大雑把な思い込みだったことに気づきつつはあるが、しかし、少しずつでも「もと」を取っていかないと。)

A Key Role for Similarity in Vicarious Reward
アブストラクトの日本語訳も後から発見した。
他者の中に自己を見る、という、日常なんとなく感じていることが科学的に実証されているのを読むのはそれなりに面白い。たとえば松井選手のMVPを縁もゆかりもない私みたいな人間が少しは喜んでいるのだって、そういう作用なのだろう。
でもやっぱり素人としてはデータの読み方がよく分からないし、実証する方法を自分で考えられたらもっと楽しいだろうにと思う。頭よくなりたいなあ。ほんと。しかし基本的にもっと論文読まないと。
がんばろうね。
長い目で。

2009/11/07

走る走る

迷いが深いときに限って、家から外に出る気にならないものである。
そういうときほど、とりあえず外に出てみることが大事だとわかっていたはずだったが、結局もやもやと頭の中に霧がかかったような状態で、一日過ごしてしまった。
こういうときは、走るに限る。結局夜10時を回ってから家を出た。
走り始めた頃は、走るたびごとにタイムが短くなるのが面白かったが、ある程度定着した今となっては、タイム更新はなかなかにたいへんである。
息が切れる程度のハイスピード(のつもり)で走っているけれど、上り坂で足が上がらなくなる。
背筋を伸ばしたり、顎を引いたり、腕を振ったりと、いろいろやってみるけれども、気持ちに足がついていかない。呼吸だけが大袈裟に荒くなる。
このまえ見たモンブランをトレイルランする人たちの映像が一瞬フラッシュする。
ああいう人たちの限界への挑戦する真摯さに比べると、つくづく、自分は甘いね。
5kmを、それでも初の31分台で走る。
さて、1km5分台で走れる日は果たして来るのだろうか。
とにかく、来年はマラソンを走るのだ。
そろそろ15kmから20km走ってみないといけない。

I see the moon and the moon sees me

Watched the movie 'Evening', found a beautiful song the end of the story.
It seems a traditional song, 'I see the moon'.
In the 'Evening', the main character Anne who once dreamed to be a singer , is now a housewife and having two daughters, in the mess of everyday life. In the middle of the confusion, she suddenly began to sing for her daughters.
I see the moon(from 'Evening')

Lyrics;
I see the moon (and) the moon sees me
The moon sees the somebody I'd like to see
God Bless the moon and God Bless me
And God Bless the somebody I'd like to see...
http://www.grandparentsmagazine.net/SongLyrics/moon.htm

During the time having something warm in my heart, the world seems more beautiful than as usual.

2009/11/03

急に

夕方、急に「かぶ」が食べたくなる。
この寒いのに、スーパーまで出かけなくても、と思うのだが、どうしても食べたくなる。
人間の食欲とは妙なものである。
簡単レシピ集から選んだ「かぶのトマト煮」を作ることにして、スーパーで最後のひと束だったかぶと、トマトのホール缶を買う。
かぶは少し炒めてから、コンソメとかだしを適当に入れ(できればにんにくも欲しかったが買うのを忘れた)、トマトとローレルを投入、10分弱煮込んで、味をつけておしまい。おいしい。

夜、アラームが定時にセットしてあって、毎日りりりと鳴る。
今まで雨の日は走らなかったが、この日曜に登山用にも使えるしと雨具を新調してしまったから、今後は故障でもしない限り、雨の日でも走らない理由はなくなる。おまけに今日は晴れている。しかし寒い。
この寒いのに何故に走らねばならないのかと自問するも答はとうに出ている。2日運動をさぼると体調が悪くなるからである。ここで立ち上がらなければ負けである。負け犬の遠吠え。ぱおーん。ぱおおおーん。むなしく脳内を遠吠えがこだまする。ベッドから起き上がり、今シーズンはじめて長袖のウエアを取り出してくる。
走り出せば温かくなると分かっていても、とても半袖で外には出られないよ。
と、思って道に踏み出すと、半袖を着たおじさまに出くわす。なんと、歩いている。
とくにスポーツをしているらしい様子もない。どうしてこの気温の中、走らずに歩いていられるのか、人間の体感温度とは実にさまざま、妙なものだなあと思う。

山で使う筋肉は路上を走るときに使うのと違う。
山登りはつま先から着地することが多い。翌日、ヒールの高い靴は筋肉痛で履けなかったけれども、ヒールのないジョギング用のシューズなら問題なく履けて、10km走れた。ジョギングはかかとから着地するから、かかと関連の筋肉は痛くないのである。月曜は休んだ。筋肉を酷使した翌日か翌々日に筋肉量がぐんと増えるが、しばらくするともとに戻る。
今日も筋肉痛は残っていたが、もう通常の筋肉量まで戻っていた。5km32分は変わらないが、こころなしか、足が軽いようでもある。やはり、普段使わない筋肉を使ってあげないといけない。本格的な冬になる前に、もういちど高尾あたりの5-6時間のコースにトライしたい。

ひつじ

図書館で借りた加藤周一『羊の歌』を読みかけのまま返却期限が切れてしまった。
再度借りようか考えながらいろいろ検索していたら、こんな羊の歌(The lost sheep)を発見。
どんないきさつでこういうことになったのか全く分からないけれども、発作的に笑いが止まらない。きわめてマジメにやってるのに、悪いね。
でも最後に笑い声が入っていたし、たぶん、笑っていいんだよね…

ごく個人的に今話題のFather Tedは、勢いで土曜から見始めてseazon2まで全話見てしまう。上級者向けのThe officeとかに比べると、字幕がなくても初心者にも分かるしキャラも親しみやすい。神父とかシスターのコメディって外国でときどき見かけるけれど、日本のコメディでお坊さんが出てくることってあったかしらと素朴な疑問。

ひつじつながり。Chirpy Burpy Cheap Sheep (ついにシーズン3に入った…)
自室にも羊のポスターが貼ってある。羊ってなんだか好きなのだ。