2010/03/30

transparency

前の派遣先ではじめて、本や雑誌の原稿以外にも文書校正という業務が存在するのを知った。お役所や取引先に提出する大部な資料に間違いがないかどうか、チェックするのである。医薬どころか医療機器メーカーに勤めるのも初めてで、右も左も分からない人間ができることというと、コピー、ファイリングに文書校正ぐらいのものであって、こんなことでお金をもらっていいのかしらというような作業内容なのだが、ヒマな上にお時給も、まあまあよろしくいただけたので、1年ほどいた。そこでは100ページほどの報告書ができると、4人のチームで校正をしていた。わたし以外は業務経験のある人たちで、彼女たちには、誤記や訂正すべき箇所が「まるで蛍光ペンでラインを引いたように」浮き上がって見えると嬉々として言うのだから、素人には到底うかがい知れない世界である。
チーム作業の場合は、レビュー結果を上司が当人のもとに持っていくからまだいいのだが、たまに個人で仕事を頼まれるときがある。これがまた嫌なもので、こんなところを指摘したら相手が気を悪くするに違いない、などと1箇所につき10分や20分程は逡巡したあげく、仕事だから仕方ない、と重い腰を上げ、「いやわたくしの勘違いかもしれません、不勉強ですのでよく分かりませんが」などと、長たらしく低姿勢な前置きをしてから、資料作成をしたご本人様に丁重に間違いと思われる箇所を指摘するのである。形だけでも感謝してくれる人は、ごく稀にいたが、少ない。当然、人間関係もよろしくなくなる。やはり、楽に給料はもらえないのである。
そんな経験があるせいか、自分も人間である以上、どんなにがんばったって、間違いは犯すものだ、と思うのである。その前提があればこそ、苦手な人にも頭を下げて目を通してもらう。不出来を教えてもらったら、瞬時に本心はついてこなくとも、形だけでも礼を言おうと思う。たとえ、それがどんなにつらくても、謝罪して済むことならば、隠さずに改めたいと思う。書くのは簡単だが実行できるひとは少ない。最後は自分の心との戦いである。
外資にいると特に、自分の過ちを認めない人間と多く付き合わなければならない。簡単にsorry とかapologize などと使うと軽く見られるから使うな、ともいう。しかし、たとえどんな慣習の人たちと付き合おうとも、どんな言葉遣いをしようとも、どんなに歳をとったとしても、まずは現実を見て、過ちであればそれを認めることのできる、自分自身に対して透明な人間でありたいと思うのである。

2010/03/29

生きている

帰宅。PC画面は、ほぼ通常の半分程度の明度ながらも、まだ生きている。(なかなか、しぶといね、キミ。えらい。がんばれ。)新PCが届くのは木曜日。出戻ってる旧ブログにケータイエントリーしようと試みるも、片手で長い文章を入力しつづけるのって、むずむずしてしまう。慣れれば平気なのかしら。とにかく、ええと、昨日は走りました。なにしろ、最近出会った素敵なおじさまがマラソンをなさるというので、「わたくしも少し走りまして、今年はハーフマラソンに出るのが目標でございます」と、えらく性に合わないお嬢ぶったコメントをしてしまったので、やはり他人に宣言したからには、やらねばならぬと思うのである。(ほんまかいな。いや、ことによっては、というか、言った相手によっては、そうでもないこともあるか、いけないね、そんなことじゃ。うん。)花粉などモノの数ではない。で、昨日久しぶりに、おニューのXのタイツを履いて走った。マスクなんかしなかったけれど、走り終わってもクシャミひとつ出なかった。なあんだ。花粉が飛んでいないのか、アレロックが効いているのか、子供の頃からの花粉症、治っちゃったんでしょうか(確かに年々症状は軽くなってきている)。きっと花粉が飛んでないんでしょうね。なにしろ今日みぞれ降ってましたし。さむむ。

2010/03/28

一時出戻り

朝ごはんを食べながら養老先生の『身体の文学史』を読んでいたら、「現実感」の話から最近もぎけん先生の朝カルで読んだ論文とか、深沢七郎の話から中沢先生のお話を思い出したり、日常よく使用する製品て規格外だったときにはじめて現実感が生じたりするんだよな、とか、気づきもり沢山だったので、すわブログしようと思ったら、PCの画面左右下の隅が暗い。これは前にも起こった現象で、そのうち良くなるかなあ、なんて放置しておいたら、最後は真っ暗になって、何かを取り替えなければならないのである。肝心のその何かがなんだったか思い出せない。1年前かと思って調べてみたら、ちょうど2年前。(こういうときに、ブログ日記をつけてると便利。)前回はギリギリ保証期間内だったので無償だったけど、今回はもう買い替えたほうが早いかもですね。たぶん。
そういうわけで、携帯でエントリー登録していた前のブログに一時避難して、たぶん、そちらを更新します。このブログでも携帯エントリーできるのかもしれないけど、PCの余命いくばくもなさそうなので、取り急ぎ。
こんな出戻りブログを読み続けてくれているみなさまって、とても奇特なかたですね。ありがとうございます。もし万が一、お気に召したら末永くおつきあいください。ブログなんだからあたりまえだけど、現実においても、去るもの追わない主義ですので、この機に忘れていただいても構いません(涙)。前のブログにお越しくださってもうれしいですが、PC買い換えたら、またこちらに戻ってくると思いますので、URL変えるのが面倒なかたは、このまま待っててくださいまし。スイマセン。ではまた。

2010/03/27

too much history

日がな一日ホームズとERを延々と見ていた。どちらも目新しい展開はほとんどないから、手元はゲームなぞしつつ、もっぱら耳慣らし。ときどき字幕を見る。実務翻訳は背景知識と日本語力だと言うけれど、映画やドラマの字幕翻訳の場合は、字数制限もあるからかなり意訳されている。たとえば、看護師のアビーが元カレと別れて、さてカーター君と付き合おうかしら、という場面で、カーターに may be too much history と言われてしまうのだが、これが「(元カレを)ひきずってる」とか、settled hung up for somebody else が「過去を清算した女がいい」となっていたりして、インターンの頃は初々しかったカーター君も、だんだん嫌味で冷めた医者に成長してしまうわけだけれども、素直に、うまく訳してあるものだなあ、と感心する。しかし、訳す前に、何を言ってるか聞き取れるようにならないといけない(苦笑)。ときどきノートテーキングの練習もしたりする。聞いてなんとなく分かった気になっていることをいざ書き取ろうとすると、けっこうたいへんなもんですよね、と学生に笑われそうなことを、ちまちまとやっている。
書き取りといえば、ホームズの中で、証拠物件の書きつけを見たワトスン先生か誰かが「これは教養のない者の字だ」なぞとのたまうのだが、見慣れた漢字ならともかく、アルファベットのどこでそういう区別ができるのか、いまいちイメージできない。ぱっと見、それなりに整った字だったように見えたけど。(少なくとも、自分の書く字よりは。ええ、まあ、教養ないですけど、ね。)

2010/03/26

仕事のメールなんて、たいていが苦情か依頼か指示か催促である。催促以外は自助努力で防ぎようもないし、なくなったら、すなわちメシの種がなくなってしまうのだから、まあ、仕方がない。そんな中で、ごく稀に、いいな、と思うメールがある。過剰でもなく粗略でもなく、嫌味でも定型でもなく。硬すぎず柔らかすぎず、意図が過不足なく伝わる。それでいて短い。うまいなあ、と思う。
なにしろ、どうも最近日本語がヘンなのである。若い子が、とかの話ではなく、自分のが。いや昔からヘンだったよと言われれば、それまでですけど(笑)。自覚したのは、昨年末のこと。外国の人たちから、やたらとグリーティングがきて、返事を打ち終わった後の日本の人宛てのメールに、深い考えもなく「すてきなホリデーシーズンをお過ごしください」と打ち込んでポチリと送信した後、「よいお年を」と返事が来て、あれ、と思ったのが最初である。以来、英語の残像がカタカナで残っている、おかしな文章を書いている自分に気づくことが、ときどきある。すっと入ってくる自然体の日本語を送ってくれる人は、不安定で怪しげな軌跡を辿りつつある自分、もしくは自分の文章を照らしてくれる鏡のようなものであって、ありがたい。

2010/03/24

おげんきですか

通院日。いつもより40分ほど早く家を出て、病院に寄る。採血を済ませてから出勤。さすがに8時台は採血室も空いている。午後は講習会を途中で抜けて会社に戻り、テキストを置いたらすぐに病院に向かう。徒歩5分圏内にあるのが嬉しいが、3時半の予約でも、結局5時まで待つ。先生は、ご機嫌である。開口一番、「元気ですか?」と尋ねられる。検査値が悪い自覚はあるので「精神的には元気だと思います」と答える。直近1年を振り返ったって、元気かなんて尋ねてくれたのは、この先生と母ぐらいのものである。ありがたい。「仕事、変わるんじゃなかったっけ」そんなこと言ったかな、と思いつつ、仕事の話をする。近所にある医療機器売ってる会社に勤めていて、先生は内科だから使わないでしょうね、などと話したのは、約2年も通って今日がはじめてである。そうなんだ、ぼくは確かにあんまり使わないけど、そうそう採血のときにほら、紫のやつ、使ってますね、ええあれが競合メーカーのやつで、へえ、うちはもう、価格オンリーで決めてるでしょうね、などと話しつつ、いつのまにか自分の話になっている。夜に走るのが、少し心配そうである。暗いでしょ、というから、暴漢に襲われるのを心配してくれたのかと思いきや、人通りが少ないと、倒れてても気づいてもらえないから、と。爆笑。

2010/03/23

あの青い空の波の音が聞えるあたりに

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい

と言ったのは谷川俊太郎さんである。おとし物があるかは別として、何かざわざわと落ちつかないときは、海に行きたくなる。といっても、実行できるようになったのは仕事で車を使えた20代後半の頃。富山にいた頃は氷見のあたりか、七尾あたりまで行ったりとか、福井にいた頃は三国やら、遠出して敦賀とか。山奥で車を止めて、ミニカのフロントガラス越しにシートを倒して星空を眺めているのも良かったが、波を見ているとふしぎと気持ちが落ち着いた。
なんだかまた海に行きたくなってしまったなあ。(って、こないだ鎌倉に行ったばかりだけれど。)

2010/03/22

サクラサク

春眠暁をおぼえずとはこのことで、2回ぐらい目覚めたものの、結局昼までうつらうつらしていた。花粉症のクスリがよく効いているのかもしれない。去年の花粉症前半戦までは例年通りのクスリを使っていたのだが、後半戦にさしかかって効かなくなって、アレロックにしたら治まった。今年は最初からアレロック。昼間はそれほど眠気は感じないが(あたりまえだ、こんなによく寝てるんだから、)夜は眠り薬のようにコトリと眠りにつける。

浅草に出かける。相変わらず野村誠さんは、いい。何がいいかって言われても相変わらず上手く言葉にならないのだけれども、ずいぶん前に書店でたまたまトークを聞いて以来、とにかくファンなのである。今回は北斎の1枚の画(居間のようなところで琴と木琴、尺八に胡弓の四重奏が演じられている)にモチーフを得た曲とステージだった。野村さんは10曲中9曲は演奏せず、曲の合間に語り、最後の「後の祭り」だけ鍵ハモで登場、という形だったのだけれども、この四重奏は確かにそれだけで世界を成していて、鍵盤ハーモニカが入る余地がなかった、というのも納得だった。尾引さんと片岡さんといういつものメンバーに加え、琴と尺八奏者の方の息もぴったり。でもやっぱり、最後の曲で野村さんの鍵ハモが加わって、締まる。(今日はじめて見つけたんですが、リンクはってありますが、お湯の音楽会向けの映像、かなり、いいっす。本番見たかった。。)

Kindleか電子書籍リーダーほしい。ipad?しかし大きさが微妙。どれがいいのか分からない。。

さて、東京でも開花宣言だそうで。春、ですね。

2010/03/21

暮しのせいにはするな

早めに夕食をすませて図書館に出かける。わが区を唯一褒めてあげたいところは、たかが区民図書館にNatureを置いていることである。最近さぼり気味であったのだが、茨木のり子さんの詩に叱咤激励されて、遅かりし初心とはいえ、きえかかるのを暮しのせいにしちゃいかん、、とか思ったりして。過去3ヶ月分ぐらいをどさりと置いて、脳関係と気になる要約だけパラパラと読みとばす。5つだけコピって近くの喫茶店でナチョスを食べながら読む。相変わらず、細かいことはよく分からない(笑)。訳したりするとまた墓穴を掘るので題名だけ。
-Rapid spine stabilization and synaptic enhancement at the onset of behavioural learning
-Neural evidence for inequality-averse social preferences
-Preventing the return of fear in humans using reconsolidation update mechanisms
-Predjudice and truth about the dffect of testosterone on humans bargaining behaviour
-Foot strike patterns and collision forces in habitually bare foot versus shod runners
不公平感と報酬系の関連性の話が2つ目。前に朝カルで読んだのに似ている。流行りなのかしら。
シューズ履きより裸足で走るほうが足のためにも、走りの効率のためにも、良いかもね、というのが最後の話。でも、シューズを作っている会社の思惑もあるし、なんてレビューもついていて、また現実問題、裸足で路上は走れないし、びみょー。
養老センセーの『身体の文学史』を読みかけ。無料動画でERシーズン8も始まったし、なにかと多忙な連休2日目。

頼りない生牡蠣のような

昨日も行ったファミレスで、3段重ねのパンケーキを食べる。ホイップバターとはちみつをかければ、大概の憂いは消えてなくなる。休日でも11時までは概して空いていて居心地がよい。
昨日ジュンク堂での待ち時間に買った茨木のり子『おんなのことば』をふたたび開く。冒頭に「自分の感受性くらい」が載っていて、これだけで買う価値はある。

「ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな 
みずから水やりを怠っておいて(…)

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
(「自分の感受性くらい」)

「縛られるのは厭だが 縛るのは尚 厭だ (…)

明朝 意あらば琴を抱いてきたれ でゆきたいが
老若男女おしなべて女学生なみの友情で
へんな幻影にとりつかれている」(「友人」)

「生きてゆくぎりぎりの線を侵されたら
言葉を発射させるのだ
ラッセル姐御の二挺拳銃のように
百発百中の小気味よさで」(「おんなのことば」)

「失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性 (…)

あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと…」
(「汲む ―Y.Yに―」)

生牡蠣のような、ときたところで、はまる。この組み合わせの妙。茨木のり子というひとの、この生活に根ざした母性と厳しさ、ふと湧出する烈々たる情感が好きだ。こんな言葉遣いのできるひとになりたい。

2010/03/20

Yell

なんと「店長」トークが本日だった。予約は満員御礼だが、当日でも並べば入れてもらえそうな気がする。昼過ぎに家を出て、カラオケ屋に寄る。1年ぶりぐらい。どうもそれほど上手くなさそうなので、人前では歌わない。いつものミスチルと渡辺美里に加え、いきものがかりのYELLをレパートリーに加えた。「他の誰でもない わたしを生きていくよと約束したんだ、ひとり、ひとつ、道を選んだ」というあたり、つい、ほろりとしつつ、熱唱してしまう。
そう、サヨナラは悲しい言葉じゃない。ともすれば安住しようとする自分の肩を押すエールなんだ。としまえんでNINEを見てから、池袋へ。

今回は3回目で、いよいよ、いかに民俗学と出会ったか、というお題。ふとどきな読者としては、『アースダイバー』って面白いけど、なんでいきなり都市が縄文に繋がってしまうのか、分かるようで、よく分からんなあ、と、本心、思っていたのだが、そもそもの民俗学とはなんぞや、という基本的なところから、柳田國男を経て折口信夫まで2時間かけてお話を伺うと、なるほどと腑に落ちた。(んだけれども、ここにサマリーできるほどには理解できていない。まだまだですね、、)ちょうど、昨年読んで惹きこまれた柳田國男「清光館哀史」が、さみしさの本質を深く表していて、いいですよね、とおっしゃっていたのも、なんだか嬉しかった。なにかと混乱している頭をすっきり整理してくれる、頭のいい先生たちのお話が大好きだ。がぜん元気がでてきてしまう。これもまたひとつのSecure base。
明後日は久しぶりに野村誠さんを聴きにいこう。浅草で北斎だそうな。

2010/03/19

Secure base

ずいぶん前の彼氏と付き合いはじめの頃、相手にブログをやっている、と教えてしまったのは、今にしてみると、あれは、まずい手だった、と思う。オンナ心というのは、惚れた相手には自分を知ってほしいと思ってしまう傾向があるらしい。でも悲しいかな、いわゆる「ときめき」なるものは、いわく、もっと知りたい、という欲求が存在するから上昇するのであって、相手をだいたい掴んでしまったあたりから、下降線に入るといわれているからである。

出来の悪い恋愛小説なんかより余程、じん、ときてしまう、穂村弘の『もしもし、運命の人ですか。』によれば、ときめきを延長させるには相手に自分の情報を極力与えないこと、すなわち究極のアイデアとしては、連れ添って50年目になって、「君の名前を教えてよ」「ちか」「ちか、、いい名だ、ぼくはまさる」と手を取り合って死にゆくのがいいんじゃないか、なんて書いてあって、非現実的ではあるけれど一理はある、と思ったりもするのだ。

誰が見ているか分からないんだから、こんなところに、子供じゃないんだし、ありのままを書かなければよかろう、という向きもありましょう。そうね、そうです、確かに。ええ、たまに嘘も書きますし、創作もあります、はい。しかしねえ、プロの物書きでもないし、これって出発点としては日記なわけで(最初によそのブログで始めた当初は、てまりの日記、なんていう、やたら素朴な題名だったんだから)。こうしてくだらないあれこれを綴っておくことで、いくばくかの安らぎを得るためにものしているのであって、100%心にもないことを書く、なんぞという高度な芸当は、わたしにはできないんですよね。ここは一種の安全基地。だから、ね、どうか、やさしく見守っていてください。

2010/03/17

詳細わかりませんが

信号が青になったとはいえ、実行までに3ヶ月余りも残されていると、なかなかに気が重い。心とは裏腹に、仕事は淡々と降ってくるし、かつ雪や雨と違って、放っておけば消えてなくなるものでもない。ほかを円満におさめるには手元で細々と汗をかくしかない。溜めるのは嫌い。たとえ完成度80%(またはそれ以下)でも、拙速を旨として終わらせ、さっさと忘れたい性分である。されど長引くものもある。「ほーーーぅ」と、トイレで手を洗いながら長嘆息していると、個室から出てきたひとも、同じように「はぁーーぁ」。思わず顔を見合わせる。詳細分かりませんが、その気持ちだけは、分かります、と言って、互いに、ぷはははと笑った。

2010/03/14

Escape from the commonplaces of existence

昨日は結局試験の準備なんかする気にもならなくて、昼からとしまえんに出かけてシャーロックホームズの映画の方を見た。4時からのに間に合うように家から歩いていったのだけれど、1時間程前に到着してしまった。豊島園の駅前ってスタバとマック以外に何もない。練馬の駅前まで引き返して、朝カルでもらった論文を読んで時間をつぶした。映画ですか?そうですね、面白かったです、はい、ふつうに。

今朝になっても試験勉強する気が起こらなくて(普通、前日の夜更けぐらいにはその気になるでしょうに、ほんとに、もう、しかたないんだから。)9時すぎにやっと起き出して、受験票にこの前の免許更新に使った残りの写真を貼り、ムック本ぐらいの大きさの過去問集を持って家を出る。ガストで朝ごはんを食べながら、2年前に1回だけ、やはり試験1週間前ぐらいから使った過去問を開く。TOEICはリスニング問題が流れる前に設問を読めるかどうかと、リーディング設問の時間配分でほぼ決まってしまうのだったということを思い出す。問題を少し解く。あいかわらず、ひっかけ問題にひっかかったりして少し焦る。サラダと、ヨーグルトのとろりとかかったバナナパンケーキ、それにコーヒーを3杯飲んで漸く現実に目覚めて、試験会場に出向く。途中で腕時計を忘れたことに気づく。西武新宿の、いつも通りすがりに眺める店に寄って4000円ほどのを買う。受付時間締め切りの5分前に入室。やれやれ。
すっかり忘れていたけれど、TOEICはかなりスポーティーな試験である。相当速読力のある人でないと試験問題の再読なんてできっこないので、回答の即決力が必要だし、前半のリスニングは集中力が持続しないと簡単にキーワードを聞き飛ばしてしまう。ともあれ、はじめて終了の声と同時に全問読み終わり(いままでの2回は、時間内に全問読み終えることなんてできなかったので最後のいくつかは適当にマークしていた)、試験官さんの案内が終わる前にマークをし終えた。これもまあ、2年間の進歩でしょう、と思いたい。

大戸屋でごはんをたべてから、そのまま帰る気にもなれず、噂のモーガン夫妻を見る。公開まもないせいか最前列しか空席がなかった。字幕が大きすぎて、いちいち読んでいられない。ヒューグラントもサラジェシカパーカーも発音が聞き取りやすいので細部にこだわらなければ殆ど問題ない。問題にするとすれば、サラの顔がよく見えすぎて、つい目元あたりをチェックしてしまうこと。美形は美形なりにたいへんですね。もともと崩れてるとそういう心配もないですが。。。そう、発音が聞き取りやすい人といえばディカプリオで、春頃に1本何か公開されるらしい。

いつも何かの会場に行くと、可能な限り出口に近い通路際を選ぶようにしているが、映画の中盤で地震があった。正直なところやはり、こんな映画を見ながら、こんな大衆の混雑の中で、7階から落ちて死ぬのは嫌だな、と思った、あまりに平凡な一日。ドラマのほうのホームズ、赤髪同盟で、締め。こういう台詞はホームズだから格好いい。
My life is spent in one long effort to escape from the commonplaces of existence. These little problems help me to do so. (quotes from Conan doyle's Sherlock holmes; Red headed league )

2010/03/10

so pretty a toy

最近無料動画でシャーロックホームズ(ジェレミー・ブレット演ずるところのドラマのほうで、いやもちろん、じき公開の映画で賞を取ったとかのロバートダウニーJrだってアリーmy loveの頃から嫌いじゃないですが)を流し始めたので、もう数え切れないほど何回も見ているけれど、また寝る前についつい見てしまうわけです。でもって、いま「青い紅玉」を見ていたわけですね。いわずとしれた小ぶりのタマゴ大ぐらいの青色の宝石がお金持ちの家から盗まれてしまったという話なんですが。で、ドラマの中で、ホームズ氏が宝石ってのも因果なもので、こんなにきれいなのに殺人のタネになっちゃうんだから恐ろしいもんだねと語る、というようなあたりで、でてくるわけです。「When the commissionaire had gone, Holmes took up the stone and held it against the light. "It's a bonny thing," said he. "Just see how it glints and sparkles. Of course it is a nucleus and focus of crime. Every good stone is. They are the devil's pet baits. In the larger and older jewels every facet may stand for a bloody deed. This stone is not yet twenty years old. It was found in the banks of the Amoy River in southem China and is remarkable in having every characteristic of the carbuncle, save that it is blue in shade instead of ruby red. In spite of its youth, it has already a sinister history. There have been two murders, a vitriol-throwing, a suicide, and several robberies brought about for the sake of this forty-grain weight of crystallized charcoal. Who would think that so pretty a toy would be a purveyor to the gallows and the prison? 」というわけです。もちろんこんな長い文章が聞き取れるわけもないので、Wikisourceからコピったわけですが、宝石を指して「so pretty a toy」。いやあ、こういう使い方するわけですね。(超低レベル語で喜んでて、すいませんが、、)こないだからbeautiful、pretty あたりの言葉が気になっていたせいか、そのpretty って言葉だけ、ドラマの台詞の中で妙に際立って聞こえたわけです。何度も聞きなおして挙句に原典まであたるという入れ込みよう。まあそれなりに自覚はあるけど、いったん気になりだすと、やたらと尾をひくんですな、これが。
それにしても、ほぼオリジナルの言葉遣いに忠実にドラマ化してるってことで、さすが、コナンドイル卿って愛されてるんですねえ。

2010/03/09

三月の雪

鼻と喉に花粉症の訪れを感じながら雪を観たことがいままであったろうか、と考えてみる。うまく思い出せない。太郎の屋根にも、次郎の屋根にも雪ふりつむ。店先のトマトの頭にも雪ふりつむ。たこ焼屋さんの軒先の湯気の中に雪は溶けゆく。人事の季節。最寄コンビニの「いけだくん」にはここに越してきて以来レジでお世話になっているのだが、ふと見ると、いつの間にか名札に「店長」の二文字が加わっていた。昇進おめでとう。名ばかりで大変かもしれないが、きっと彼ならうまくやるにちがいない。どうやら声のきれいなバイトの女の子といわゆる「いい仲」らしいのだが(買いものするだけなのに、どうしてこんなことまで分かってしまうんだろう、ふしぎ。)ふたりでハッピーにお仕事できるといいね。きっと雪も祝福している。

2010/03/07

意味深

もぎけん先生のtwitter によれば、sweetness is to be found in the solitude of soul...なのだそうだ。sweet という言葉は辞書を引いてみても訳語がたくさんあって、どうも、その中のどれを取ってもこの文脈にぴたりと合う言葉が見つからない。単に甘い、だけじゃ済ませられない余韻というか意味シンさがありますよね。で、つられて思い出すのがbeautiful、って言葉で、日本で赤ちゃんを見たときの第一声は、ほぼ「かわいい」であるのが常識的かと思うんだけど、あー、たとえETみたいだと思ったって一応「カワイイ」って言うし、ふつう。でしょ。で、数少ないアメリカもののドラマ(FriendsとERで計4回ぐらい)で見る範囲内では、赤ちゃんを見たときに発する言葉というのは、どうもbeautifulであるらしい。たとえばキャロルとかレイチェルとかジン・メイが腕の中の赤子を見つめながらですよ、beautiful...って嘆息するわけですよ。たまにpretty とか、cuteとか言わないのかな、と思って期待してるわけだけど、やっぱりbeautifulなんだな、これが。で、かわいい、よりbeautifulのほうが、理由はうまく言えないけど、ぜったい、いいに決まってる。どうにでも取れる便利な言葉という意味では同じ感覚なのかもしれないけれど、異国の言葉がやけに意味深げに聞こえてしまうのは、これって典型的辺境的日本人だからなんでしょーか。なんかくやしい。
いやしかし。日本の母たちが赤子を腕に抱きながら果たして「かわいい」って言うかどうかってことが次第に虚ろになってきた。母たちはなんて言うのだろう。「かわいい」なんて言わないかもしれない。むしろ無言かも。そのほうが「かわいい」なぞと呟くよりはよほど絵になる。うーん。わからない。
なんてこと思うのは、何度か挫折して再び手に取って読んでいるB.RussellのThe problems of philosophyと、おなじみ数度目のトライとなるR.ChandlerのThe long good byeが、いまいちノリが悪いせいもある。Audibleで聴く本も、まだ決まらない。はて。通勤時に聞き流せる、よい本ありませんでしょーか、ね。

母君のこと

母君が「腰膝サポートタイツを2割引にて購いたい」とのたまうので、2年ぶりぐらいに買いものにつきあうことになる。もちろん、「あんたのも買ってあげる」という惹き文句につられて。親とはありがたきもので、子が何歳になろうと誕生日には(毎年ではないにしろ)何か与えねばならぬと信じてくださっている。今年はその何回に1回の僥倖。地下街の食堂で京風なんとか御膳を食して腹ごしらえの後、小田急ハルクに向かう。昭和5年生まれの母が何ゆえそのようなタイツを欲するのかといえば、茶道の稽古で膝を酷使した後に卓球をなさるからである。卓球友達の「そこにイチローがいるから」とのメッセージをたよりにお目当てはXのタイツであろうと目星をつける。父君用の5本指ソックスも入手する。

お次はユニクロ。「来週お台場に遊びに行くので、ジーンズが欲しい」とおっしゃる。母君のスタイルに適したユニクロのジーンズを探すのは至難であるが、当人はそのようなことは露知らず、スキニージーンズを手にお取りになり「この色がよろし、これをもて」と試着室に直行しようとなさる。「念のためWブーツカット(股上深め)をお持ちなさいませ」と後を追いかける。

姿勢矯正パンツを求めたあたりで「そろそろお腹がすきましたわね」とおっしゃる。喫茶店でサバランを注文される。運ばれてきた皿の上にデコレートされているカスタードクリームらしきものを指しウエイトレスさんに「これは何かしら」とのご質問。そんなこと聞いてどうなさるのかと冷汗が出かかるが、運良く母君の質問は彼女の耳に届かなかったらしく無視された。そんなこんなの間に裾上げ処理待ちの1時間が経過。首尾よく裾上げのジーンズを受け取り、上機嫌となった母君は急行で、わたしは鈍行で家路につく。そんな母の世話を焼くのは嫌いではない。

町田康の影響か、へんな古文調になっている。『東京瓢然』は面白かった。突如笑いの発作が起きるかもしれないので、車中で立ち読みなどなさろうと思う方は要注意。確かに、雅、とか禅、とか、客観、などと同様、飄然などという言葉は、他を指して評するならともかく、自己のあるべき姿として言葉にした時点で本質が失われる類の言葉である。ゆえに本書は、飄然たろうとして、そうなれない小市民的中年のおじさんがロック調で怒っているエッセイまたはフィクションであろう。それにしてもオビに「幻想的な東京」とあるのはどうだろう。妄想的もしくは神経症的のほうが正しいんじゃないだろうか。自分て変わってるよな、と一抹の憂慮をもって自覚している方は、いやもっと激烈にヘンなことを創作なのか真情吐露かは別として、まじめに書物にしたためるひとが世の中には存在していてくださるのだと共感をもって安堵できるに違いない良書である。

2010/03/06

Sweet voice

牛が食べものを反芻するように、頭の中でくるくると廻ることどもの連環をいちど断ち切りたいと思うとき、自分にとって最も効果的なのは走ることである。仕事まみれの平日思考から休日へモード転換するにベストな方法は、金曜の夜、できたら10kmぐらい走るのに限る。へろへろになってゴールする頃には、仕事のことなんか宇宙の彼方へ飛散している。この感覚が好きで走っているのかもしれない、と、時に思う。ただ問題は、やはり雨と、時季特有の花粉であって、やはり、マスクして走るのも、カッパ着て走るのもツライ。ツライのはいけない。そういった事象に備えて、フィットネスクラブの会員にでもなろうかと考えつつある。

町田康がいいという話をどこかで聞いて、かつて手に取ったときにはどうも文体が濃すぎて読み続けられなかったのだが、いま『東京飄然』を読みかけている。「おじさんの日帰り旅」という小市民に無理のない現実的企画と、飄然、というスタイルが、今の自分にどこかカチリとはまったらしい。情景描写が多いせいか、古文風文体も濃すぎず、かえって好もしい。

よく知っている人も知らないひとも含め、いままで出会った人の中で4人ほど、その声を聞くと特に理由もなく落ちつく、という人がいて、そんなときには、ああこのひとと長くお話していたい、いや正確には、内容はどうでもいいから、何かしゃべって、と思ったりするのだが、用事もないのに長々と話すのも苦手なので、なかなかそういうわけにもいかない。オペラ歌手ばりの朗々たる美声であればいいというわけでもないが、基本的には低い声がいい。そういえばこの前、外国人から営業の電話がかかってきて、いつものように、お得意のJanglishをもって最短で会話を終えられる受け答えをして切ろうとしたら、切り際に「きみってSweetVoiceね」と言われたことがある。ほう、さすがお世辞が上手な、と思ったものだが、確かに、ある特定の人の声には味があって、そう、それは、Sweet、とでもしか表現しようのない不思議な効能効果がある。