2010/04/26

抜け出してみて

とりあえず歩くことにしてジーンズのまま外に出て、5分も歩いたら自然と走り出していた。シューズだけは履いていたから、不便はない。しばらくの停滞からおよそ1ヶ月。すっかり足がなまっていて、いかにもメタボ解消に走ってますという露骨にアマチュアな仕草で、よちよちと。それでも走っているのだから、よしとする。
まず夕食後2時間経過したら外に出る、というオートマチックな動作が(いや実際は3時間ぐらい経っていたわけだが)できたところが進歩。
そこから抜け出してみてはじめて、停滞していたことが明らかになる、ということがある。これも理解とか論理とかが後付けで来る例なのかもしれない。最近、そんなことばかりだ。わけがわからない。
とにかく、自分にとって走ることは、すでに走ることだけではなくなっていた。

2010/04/25

希望の物語

土曜の話。お茶の水の丸善で例のBook3を買って、予約時間ぎりぎりで歯科に駆け込む。珍しく混雑していて40分待ち。おかげで本が進む。村上さんに助けられたと思うのは、ああ自分って、速読とまではいかないけれど、わりとスピード感をもって本が読める人間だったんだと思い出せたこと。今月に入ってアンナ・カレーニナを読みかけたあたりから本のページをめくるのがどんどん遅くなっていって、しまいには本を手に取らなくなってしまった。このあいだ内科の先生に「そんなにやる気ないってことは、それはつまり、鬱っぽいのですか?」と聞かれて「いやもともと性格がこんなふうに、まったりしてますから、鬱っぽいというより、春だし、単にやる気がないだけだと思うんですが」と答えたものの、本さえ読む気にならないようでは人生つまらなすぎると思っていたところでもある。歯科の後、ヒルズでのボストン美術館展と写真美術館での森村泰昌「なにものかへのレクイエム」展へ行き、そこから下北沢に移動して昔の職場のみなさんががんばっているお芝居を見て、一緒にお芝居を見たex同僚さんとご飯を食べてから帰宅の道すがら読み続けつつ、電車の窓から月を眺めては一つしかないことをときどき確認してはいたものの、自室に戻ってさて仕切りなおし、と支度を整え(つまりコーヒーを飲んでから寝転んで)夜中の3時までかけて読み切ったわけである。
こんなスピードで読んでいたら読んだことにならんでしょう、だいたいbook1と2の内容を覚えているかと尋ねられれば確かに詳細忘れていたのだけれど、さっさと読めるということは、無意識に自分に重要なメッセージだけ選別して受け取っているということでもあり、書評をものすでもない一般読者としては、まあそれでよしと思うのである。
自分にとって重要なこととは、確信だけが先に来て、確信に基づいて行動しているうちに、論理は後付けで来るということ(いや、または論理なんて、来なくたっていいのかもしれないし)。どうでもいいけどこれってやる気の出る仕組みと似てますね。何かはじめないとやる気は出ませんよっていう、メビウスの輪みたいな、あれです。あれ?似てないか。まあいいや。えーとそれから、絶望と希望は、実は影と光のように離れずにあるということ。そして、ひとりではあるが孤独ではない、そういう希望のありようというものを青豆さんから教わりました。

2010/04/21

モチベーションのはなし

朝、いつものようにイヤホンをしたまま、頭はぼうっと、とはいえ遅刻寸前でもあるので、足だけはすたすた歩いていると、見覚えのある男性が向こうから歩いてきた。あら、先生である。患者たるもの診察室以外の空間でお医者さんに出会うと、うろたえてしまう。おはようございます、とあいさつして、そのまま歩くスピードを落とさずに通り過ぎてしまったものの、よく考えてみるとずいぶん患者として素気ないそぶりであったような気もする。ともあれ今日は診察日でありました。「今朝会いましたねえ」「ぼうっとしてまして、すいません」「ぼくもぼうっとしてました」「先生よく私って分かりましたねえ」「いやふつう1年以上会ってるとわかるでしょう(笑)」という前ふりがあって、本題に入る。自己管理のモチベーションが落ちてまして、と先月もした言い訳を繰り返す。去年も花粉の季節が終わったあたりからモチベーション上がってきましたので、と更なる言い訳をする。やる気のあるときとないときと、ちょっと極端なんですね、と、まことに的を射たコメントをいただく。じゃあモチベーション上がるまで、薬ふやしときますか、という結論に落ちつく。薬を待つ間に、最近すっかり空白が続いているほぼ日手帳のページをめくっていると、池谷裕二さんの「やりはじめないとやる気って出ないんですよね。脳の側坐核が活動しないとやる気出ないんですけど、そこって何かしないと活動しないので(大意)」って言葉が載っていて、あまりのタイムリーさに思わず、ぷははは、、と情けない笑い声を洩らしてしまう。
がんばれそうにないときは、がんばろうとしない。ハードルを下げることは悪いことではない。身体からのシグナルに、きちんと耳を傾けること。じぶんにやさしく、何かはじめること。

2010/04/20

Sunflower

サントリーホールにユンディ・リのショパンを聴きに行く。なんでそういう気になったのかよく覚えていないが、チケットを買った数ヶ月前、彼のラ・カンパネラをユーチューブで繰り返し聴いていたせいだろう。C席だったが予想よりステージ近くの席が取れていた。ピアノが近い。おなかに響く。彼の手は高音がとてもいい。天国とか極楽とかというものがあるとしたら、そこにはこんな音が流れているはずだと思うくらい、まろやかな高音。「葬送」は、あの有名すぎるモチーフ以外の部分をちゃんと聞いたのは初めて。前半のノクターンとポロネーズop22が絶品だった。アンコールはSunflower。かわいい曲。ラ・カンパネラもだけれど、こういう、きらきらっとした曲が、とても美しく弾けるひと。

2010/04/15

傘寿

母上の誕生日。御年80歳。自分が年をとるのよりも、母が80歳になったほうが、なんだか驚きなのは何故だろう。

2010/04/14

かれの心理における科学

3月の終わりに養老先生の『身体の文学史』を読んで、「現実感、実在感」という話がひっかかっていたわけです。特に鷗外のくだりで。でも、どこがどうひっかっているか分からない、といういつものパターンだったので、そのまま文章を打ち込んで、「下書き」にしておいて、時々眺めていました。

最近見た映画はちょうど、どちらが現実でどちらが非現実ですか、という謎解きを中盤から最後まで延々とさせられる映画で、(ネタばれになるので題名は伏せますが、なかなか出来の良い映画でした)そんなことも重なって、思い出して、くだんの本を取り出してきて読んだのです。
本は再読せよと言いますが、ああこれがひっかかりどころか、と思ったのは、こういうことです。

「デカルトにおいては、思考する自己あるいは自己の思考に実在感が付着していた。かれの哲学は、したがって、そこに「現実」を有する。一般に哲学や数学は、そうした「脳内活動」に対して現実感を付与し、そのゆえに、「抽象的」であらざるを得ない必然性を持つのである」

「肝要な問題は、その現実「感」である。それを実在感と言い換えてもいい。これは、われわれの脳が社会的に機能するとき、もっとも重要な機能として表われる。神なり、国家なり、ありとあらゆる制度なりが、われわれに与える現実感、あるいは実在感は、決定的に人を動かす」

「本来こうした実在感は、ヒトが置かれた周囲の環境に対して付着すべく存在したと思われるが、ヒトはその環境を人工的に創造する。そのために、なにが現実かを「社会が決める」状況に立ち至るのである。なぜなら、ヒトは社会という環境の中に育つからである。この国の近世社会は、そこから身体をおそらく意図的に排除した。(中略)戦後の社会においては、それは医療制度の中にのみ、封じ込められるのである」

「もしだれかが、自己の現実感の欠如に気づいたとしたら、鷗外のような行動が生じて不思議はないであろう。第一に、そうした重大な感覚の欠如は、探索行動への強い動機を生む。第二にその結果、かれの領域は大きく広がる。現実感がどこに付着するか、それが発見されるまで、いたるところに、それを追うしかないからである。第三に、それは事実に対するこだわりを生じてよい。なぜなら、すでに与えられてある理性は、現実感・実在感の対象たるべき存在が、「事実であること」を強力に要請するはずだからである。こうしてわれわれは、むしろ自然科学の心理的起源に到達する」

「その後の鷗外は、それがいかに「文学」に見えようと、かれの心理における「科学」を推進する」
(養老孟司『身体の文学史』より引用)

自分は森鷗外のような天才か秀才か、そういう人と同列に論じられるような人間では当然ながら、というか、残念ながら、ないのですが、問題はこうです。つまり、自分の漠然とした考えの推移というのが、程度の問題はさておき、まさしくこういう流れをたどりつつある、ということなんです。実情、自分の今の志向は、昔とは全然趣が異なってきていて、確かに仕事は医療制度絡みでもあるし、興味の方向性も自然科学領域になってきている。仕事上の要求もあるにせよ、最近、やたら細かいことまで事実でないと気が済まない。この傾向が、都市の脳化社会で、すっかり実在感を失ってしまった仕事や生活の中で、「現実感、実在感における身体や自然の不在」に喘いでいる姿なんじゃないですか、と指摘されたようにも思えて、それが、ぶすりと釘のように刺さって抜けない、まあそういったわけです。

ともあれ、鷗外を「かれの心理における「科学」」と読むその読み方が、すてきだな、と。
この後、養老先生のお話は、きだみのる、深沢七郎、と続くのですが、後半は、まだ読みきれてないので、また機会があれば。

2010/04/10

徒然すぎて

自己管理に対するモチベーションが極度に落ちてしまった。つまり自炊と運動の頻度が極端に低下している。ざるそばを食した後に、「ごま油仕立てのばかうけ」及び「ドルチェブリュレカスタード」なぞというものを平気で口にするようになってしまったのが証拠である。体脂肪率29%。朝食後とはいえ、ひどすぎる。まあ3晩連続ポテチ1袋とカマンベールチーズ1箱(掌くらいの大きさの、丸いやつね)、やきとり4本を食べたのだから仕方ないかもしれない。

今日は先週さぼった歯科の日で、帰りにお茶の水を歩いていたら、通りすがりの男性が「愛してるよーう」と連れに話しかけている。そのトーンが自発的な告白調のものではなく、「よーう」にかけて下る、極めて緩慢なトーンであって、おそらく、そのやりとりは、日常会話的に繰り返されているのだろうと思われた。思わず振り返るとくだんのお連れさんは背丈からして子供だった。逆方向に歩いていったし、それほど大仰に振り返りもしなかったから、顔は見えない。どうも男の子の声に聞こえたが女の子だったかもしれない。その自然さが外国もののドラマみたい。日本の親子の愛情表現のありようも、変遷を遂げつつあるのか、さまざまなものだなあ、と思う。

今週は徒然にBBCの「Hustle」を見ていた。詐欺師5人チームのお話。さすがbbcで、1シーズン6回、という潔さが良いが、シーズン6まであって、もう5まできたのだから、今週いかに「徒然」していたんでしょうかあなたは、という話でもある。
Toeicの結果がきた。850/990。当日朝ごはんを食べながら模擬テストを見直す以外に勉強しなかったとはいえ、2年前から30点しか上がってないって、どういうこと、と自分に腹が立つが、やはりテストの点を稼ぐには、テストに対応した勉強をしなければいかん、ということでありましょう、凡人は特に。900点を超えてたらもう受験するのはやめて参考書は全部ブックオフに持っていこうと思っていたが、微妙に心残りな点数。しかし、実務においては、試験問題みたいな、あえて文意があっちこっち散乱してる文章とか、意図的なひっかかりどころのある文章なんてめったに出てこないのだ。(だって、みんな相手をひっかけようなんて思って書いてないし、、何言いたいか辞書ひいても分からなかったら、メールかチャットして確かめればいいんだから。)なんてのは結局、負け犬の遠吠えか。あーあ。
シャッターアイランドって公開されたんでしたっけ。デカプリオさまの聞きとりやすい英語でも聞きに行こうかなあ。

2010/04/03

昨日今日あたりのこと

金曜夜。社内飲み会をパスして高橋悠治のコンサートに行く。欠席理由に「はあ、コンサートに行くので」と言うと、「どこで、だれの、」と細かいことまで尋ねるおじさんがいる。すいません、定時を過ぎたら、コンサートのほうが大事なので。高橋さんには、初めはトークから入った。次に書いたもの、そしてやっとCDまでたどり着いてはいたが、生演奏を聴くのははじめて。クラシックやジャズなんかとは違って、現代音楽系の音楽家には、こういうルートからの入り方が多い。曲や作曲家について、語ってから弾く、というスタイル。アンコールはサティ。
土曜。遅めの昼にパンケーキにメープルシロップをたんまりかけて食し、元気を出す。こないだも行ったのに、またカラオケを歌って、元気を出す。今日は渡辺美里のMy Revolutionがメイン。池袋に行って、服を買って元気を出す。夜、ジュンク堂。はじめて、生の北村薫先生トーク。覆面作家といわれていたのはずいぶん昔のような気もするし、体調も万全ではなさそうなのも理由の一つなのか、インフル用か花粉用のごついマスクをして登場される。覆面ならぬマスクを外した先生は、穏やかに話し、まあるく笑う。作品から連想するのと重なるお人柄でいらして、よかった、と思う。1時間半はあっという間にすぎてしまった。新書本にサインをいただく。猫のイラストが付いている。先生の笑顔に似て猫も笑っている。こういう瞬間が、しあわせである。
この年にして、文学部のくせに、いわゆる名作と言われているもので未読にしているものが多すぎる。われながらひどいと思う。今にして思えば高い授業料は捨てたも同然である。学生時代はちっともひどいと思わなかったのだから恩知らず娘である。反省も遅かりしではあるが、しないよりましかもしれない。「忘れられない箇所がたくさんある」とおっしゃっていた『アンナ・カレーニナ』を、せっかくの機会だからと読むことにして、買って帰る。イギリス現代小説は、まあ若干興味がないこともないが、やけに面白そうに見えた新刊の棚にあった『ベイツ教授の受難』もついでに買う。トルストイへの無意識の拒否感からだろうか。「迷える中高年必読、英国コミックノヴェルの至宝」というオビに引っ張られてしまうなんて、ひどいんじゃないかしら。まだ38歳なんだけど。帰り道、店の看板に「ひざまくらと耳かき」というメニューが出ていうのを見る。女性の膝枕を望む男性諸氏の気持ちはわからんでもないが、耳かきを他人にされたいという人間の気持ちがわからない。たとえ綿棒であったとしても、他人にあれを耳に突っ込まれるかと思うと恐怖である。看板の写真には、ちゃんと「さじ」のついた、いわゆる耳かきが映っていた。うわあ、こわい、こわい。。
おっと、いよいよ小沼先生ご登場の坂本龍一の音楽番組がはじまるぞ。ふふ、見逃せませんね。

2010/04/01

新PC

あれこれ考えているうちに、新PCが届いてしまった。
深く考えずに買ってしまったが、意外に横幅が広くて、今まで使っていたPC台をはみ出してしまった。さてどうしようかなあ。新しいモノ、新しい環境、新しいもろもろ、というのは、何かと新鮮でもあるが、その正体は違和感なのかもしれない。でもそのうち慣れちゃうんですよね、きっと。昨日の椅子取りゲーム宣言が、なかなかに強烈で、待てば海路の日和あり、ともいうし、時間が解決することがあるとは知りつつも、縺れた糸は、つい自分から切りたくなってしまう。条件反射的に、つい身辺整理をはじめてしまう。仕事のクロージングとしても、気持ちの整理にも、整理整頓、ファイリングなどという淡々とした作業は効果的である。