2016/06/27

お気に入りの人生

チクセントミハイの2004年のTEDトークを偶然目にした。ユングとの出会いを引き寄せたのが「空飛ぶ円盤」の講演だった、というところが面白い。
人が幸せを感じている「フロー状態」を表す語としてecstasyという言葉が使われ、日本語では忘我の境地などと訳されるけれども、そもそものギリシャ語では横に立つという意味だそうだ。 今ここにいる自分から抜け出して横にいるかのような、忘我の境地。
フロー状態に入るには、いくつかの条件がある。チクセントミハイの名前と図などと入れてちょっと調べるとその図が出てくるが、いずれも、やや高いスキルと難度の課題に取り組んでいるときにフローに入りやすいらしい。
まあ、もちろんそんなクリエイティブな人たちが味わうような高尚な状態ではないが、確かに自分でさえも、誰もいないオフィスで仕事をしているときなどに、時間の感覚がなくなる程度に集中できる短い似非フローが訪れたりすることがある。
もちろんそれは、機械のアラーム音なんかで無残に中断されてしまったりするわけだけれども。
まして、平日、電話がりんりん鳴るオフィスなんぞでは、そんな美しい精神状態が続くことなど、望むべくもない。
長田弘の「最後の詩集」のそのまた最後に、「お気に入りの人生」と題した詩がある。
食べることはふしぎな楽しみ、と始まって、だが食べた後に、ちょっとぼんやりしたい、ほんの少し、無の時間がほしい、と続く。
あるとき、小料理屋さんで、ひとつまみのお焦げの入った小鉢を出されて、とびきりおいしいそれをひとりで食べながら、15分ぐらいの時間がとても長く感じた。以来、何も考えないその時間と、その仕掛けとしての贈りものーそれは、チーズだったり、塩ひとつまみだったりするのだがーを自分に用意することが楽しみになった、という。
フローまでは望めなくとも、プチご褒美をお伴に、ひととき何も考えない時間を過ごす。
そんなお気に入りの時間を自分に贈ることができたらいいな、と思う。
長田弘は最後にこう結ぶ。
「とりとめもない、ささやかな、お気に入りのリスト。しかし、よき人生なんて、もともととりとめもない、ささやかな、お気に入りの人生にすぎないのではないだろうか。」
(長田弘「お気に入りの人生」より)





2016/06/26

土曜

昨日出勤だったせいか、今日が土曜日のような感じ。
たっぷり寝坊。
このところさっぱり自炊していない、と思いつつ、7-11のアイスカフェオレを飲む。
暑くなってくると、ただでさえ低い炊事頻度は格段に落ちる。
また録画のネコ歩きを見ている。
ネコって、おならするんだね。

2016/06/21

だんだん

頼んであった「空の絵本」が、郵便受けに届いていた。
表紙から、とてもいい。
見せたくなる。


風邪をひくと、どうしてかアイスが食べたくなる。
ソフトクリーム。
冷たくて、おいし。
コーンをぱりぱり。


もういちど絵本を開く。
だんだん ねむくなってきて。

2016/06/19

記憶


NHKでストレスの話をやっていた。
Mind wonderingといって、脳が目の前のこと以外のことを考えている時間は約47%だという。
コーピングといって、質より量のストレス軽減法を100個ほど書きとめておき、こまめに実行することや、マインドフルネスといって呼吸に意識を集中して瞑想することなどが効果があるそうだ。
ちょうど宅急便で届いた長田弘を読んでいたけれど、そのものずばりという感じで驚く。
「記憶というのは、「覚えている」ということではなく、「自ら見つけだす」ということです。というのも、すべてを覚えていることはできないために、人の記憶は本質的に不完全であり、そのために記憶と言うのは、断片、かけらを集める、そしてまとめることだからです。記憶は心に結ばれる像の、イメージの倉庫でした。(中略)
記憶は、言いかえれば、自分の心の中に自分で書き込むという行為です。驚きを書き込む。悲しみを書き込む。喜びを書き込む。そうやって、自分でつくりあげるのが、記憶です。(中略)
記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの土壌となってきたものは、記憶だ。(中略)
じぶんの記憶をよく耕すこと。その記憶の底にそだってゆくものが、人生とよばれるものなのだと思う。」長田弘「なつかしい時間」収載、「記憶を育てる」より

おやすみ、おやすみ

ストレッチポールで背中をごろごろ、テニスボールで腰をごろごろしながら、何を聴いたら導入剤を飲まなくても眠れるか考えていた。
Goldberg variations、高橋悠治はむろん眠れない。グールドなら。
いや、そもそも、この曲はそのエピソードに反して、眠るには元気すぎる。
キース・ジャレットのThe melody at night with youに白羽の矢が立つ。
長田弘訳で「おやすみ、おやすみ」というタイトルの絵本があると知る。
絵本読みながら眠れるだろうか。
と思いつつ、別の絵本たちを何冊か仕入れることにする。
お買いものばかりしている。
追記:キースも、美しすぎて眠れない。
追追記:2周目中盤から記憶がないから、そのあたりから眠れたとみえる。





2016/06/18

回復

ある種の人間は、限界に近いところまで身体を動かすことで自己回復できる、と思う。
中途半端なところだとかえってダメで、消耗しきるぐらいのところまでいかないと、精神が浮上してこない。
別に皆がそうだとは思わないから同意を求めるつもりはないが、少なくとも私はそういう種類の人間だった。
最近浮気してる、とセンセイには言われるけど、好きになると割と一途になっちゃうだけで、浮気と言われるにはあたらない。いわば、いつも本気。いや、食堂の話だ。つまりまた大戸屋でスイーツ食べて休憩中。
下手なカフェなんかよりおいしいし、なにより、ごはん時以外は空いているところがいい。
一服したら、もう少し動きに行く。

2016/06/16

なんでも

朝から最悪にしんどくて昼ごろには泣きそうになる。
今週はまだ1度もジムに行けていないから、今日こそと思って早めに会社を出たのに、気がついたら家に着いている。
そんなことこんなこと、なんでもホルモンバランスのせいにしてしまおう。







2016/06/14

冷汁

帰りがけにふらりと食堂に入ったら、冷汁がメニューに加わっている。
一度食べたら好きになってしまって、以来、ひと夏に2,3回は、それを目当てにそこに行く。
冷やした味噌汁をごはんにかければ同じと思いきや、ネコまんまとはやはり違う。
冷汁の方は出汁がきいていて、ほぼかならず、キュウリと魚が入っていたりする。
調べてみたら、焼いた味噌を使ったりするらしい。
さばさばとおいしくいただく。
例年になくストレスフルな冬だったけれど、いつの間にか春も過ぎて、もう、冷汁の季節になった。

2016/06/13

ビーチでバカンス

スカイプ終了。
2年ぶりです、何してたの、とのこと。
ぼく木曜から奥さんとビーチでバカンスなの、とのろけられる。
いいね、ハッピーで。
フィリピンの人だとケラケラ笑いながらしゃべれるのが不思議だ。
いやあ、どうでもいいけど、今夜宅急便で届いたチリ―のCD、やっぱりいいよ。
大切なものを無下に却下されるぐらいなら、誰にも教えずに自分だけで悦に入っていたいと思うから、いつまでたっても一向におともだちとやらが増えない。



チリー

来週外人さんが来ると言う。
最近さっぱり英語を話さないから、とっさに単語が出てこない。
ずっと会費を捨てていたのだが、かなり久しぶりにスカイプでフィリピンの人と話すことにする。
もう1年前ぐらいになるんだろうか。
タワレコをうろうろしながらポップの惹き文句と試聴で買った数枚の中で、いまもipodの中に生き残っているのがチリ―・ゴンザレス。
思い立って昨日amazonでまた3枚仕入れた。
基本的にピアノが好き。
昨日もBSか何かで聞くともなく聞いてはいたが、オペラなどは、やっぱり高尚すぎて、よくわからない。



2016/06/12

山椒

なんだかふわふわした週末だった。
単に導入剤を飲み忘れて、よく眠れなかっただけかもしれない。
レッスンに出ているときだけ覚醒していて、あとはなんだかぼんやりしていた。
いつものように夕方実家に寄って、十六穀米のおにぎりを2つもらって帰る。
いただきもののちりめん山椒は、ごはんがないとなかなか進まない。
ラップで巻いただけの緩いおにぎりを箸でくずしながら山椒と梅干しといっしょにいただく。
ぴりりとして、おいし。
また長田弘「すべてきみに宛てた手紙」をぱらぱらとめくっていた。
こんなときにこんな言葉に出会うなんて。
心のどこかで探していた言葉を目の前に差し出してくれるのだから不思議だ。
「痛み」への手紙という最終章にエミリ・ディキンソンの詩が引用してある。
「一つの心が壊れるのをとめられるなら
わたしの人生だって無駄ではないだろう
一つのいのちの痛みを癒せるなら
一つの苦しみを静められるなら
一羽の弱ったコマツグミを
もう一ど巣に戻してやれるなら
わたしの人生だって無駄ではないだろう」
すてきな詩だ。
そんな何かが自分にできるだろうか。
続く後記にはこうある。
「書くというのは、二人称をつくりだす試みです。書くことは、そこにいない人にむかって書くという行為です。文字を使って書くことは、目の前にいない人を自分にとって無くてはならぬ存在に変えてゆくことです(中略)これらの言葉の宛て先である「きみ」が、あなたであればうれしいと思うのです」
たぶん、それとは関係のない話だけれども、
仮に、架空の宛先であった存在が目の前にあらわれて、二人称で自分を呼ぶというような事態が発生したら、どうなんだろう。
けっこう、どきどきしてしまったりするかもしれない。

2016/06/09

呼吸ふたたび

眠れないので、ずいぶん前に買った呼吸法の本を開いてみた。
3つ以上あてはまった人は、呼吸法を習得すると楽になると思います、という12の質問に7つ当てはまる。
巻末にCDがついていた形跡があるのだが、もうどこかいってしまっている。
思いついて呼吸の本と検索してみたら、著者トークイベントの模様が動画でアップされている。
いま丹田呼吸法を聞きながら打っている。
冒頭に谷川俊太郎さんの詩「息」が掲載されている。
「(中略)
星が息をしている どこか遠くで 限りなく渦巻いて
声もなくまたたいて 星は息をしている
人が息をしている ひとりぼっちで 苦しみを吐き出して
哀しみを吸い込んで 人は息をしている」
(詩集「手紙」1984年より引用)
導入剤を飲んだせいか、だいぶ時間差はあったものの、眠くなる。

2016/06/07

サバイバル

タイ料理店でお食事。
みんなお元気そうで、安心した。
次は半年後かな、それまでサバイバルだよ、と、もと上司さんは爽やかに去りゆくのだった。
酔っぱらっていても、去り際がかっこいい。

2016/06/06

深呼吸の必要

どうも呼吸がしづらいことがよくあるんだけれども、今日ストレッチのクラスに出ていて、肋間筋のストレッチをすると呼吸がずいぶん楽になることに気づく。
前から聞いていたんだけれども、その時はストレッチの仕方が今一つだったのか、おのれの肋間筋が硬すぎて開かなかったのか分からないが、なにしろはじめての実感。
簡単に言えば、要は脇腹を伸ばして収縮した肋間筋を広げればいいわけだけど、調べればいろいろと方法が出てくる。
女子はただでさえ胸があるから背中が曲がりがちだし、デスクワークするひとや心配ごとを抱えているひとも肋間筋が収縮しがち。
うーんと脇腹を伸ばして深呼吸するだけで、けっこう楽になる。
長田弘に「深呼吸の必要」という詩集があった。
たしか持っていたはずだと書棚を探すけれど見当たらず、同じ作者の「すべてきみに宛てた手紙」を開いてみる。
1ページ目に「すぐに呼吸がくるしくなって、どうしても全力で走れずに、走るのをやめ、」というくだりを見つけて、あなたもだったんですね、と友を得たような気持ちになる。
そして最後にこう結ぶ。
「ひとの人生は、やめたこと、やめざるをえなかったこと、やめなければならなかったこと、わすれてしまったことでできています。わたしはついでに、やめたこと、わすれたことを後悔するということも、やめてしまいました。
煙草は、二十五年喫みつづけて、やめた。結局、やめなかったことが、わたしの人生の仕事になりました。―読むこと、聴くこと、そして、書くこと。
物事のはじまりは、いつでも瓦礫のなかにあります。やめたこと、やめざるをえなかったこと、やめなければならなかったこと、わすれてしまったことの、そのあとに、それでもそこに、なおのこるもののなかに。」(長田弘「すべてきみに宛てた手紙」)
瓦礫のなかにあることを喜ばなければいけないんだろう。
そこに、なおのこるものがきっとあるから。

2016/06/05

おかたづけ

ジムから実家に寄り、焼いたニンニクやら生姜シロップやら、やたら健康志向の食品を頂戴して帰る。
押し入れから出してきたCDをかけながら衣替え。いい曲が案外たくさんお蔵入りになっている。
2年以上着なかった服を捨てる。
努力に対する成果が明らかだから、掃除はいいと誰かが言った。
一つ片付ければ、一つだけきれいになる。
掃除は散乱した気持ちを整えるのにも効果がある。
まだベッドの上に冬服が散らかっているから、片付くまでは眠れない。
幸い明日はお休みだから、気が済むまでやってしまおう。

2016/06/04

スティル・ライフ

アルヴォ・ペルトをはじめて聞いたのは、池澤夏樹の「スティル・ライフ」をドラマ化した作品の中でのことだ。「Arbos」が使われていて、その響きに衝撃を受けた。
百万回引用されている文章だが、備忘のため「スティル・ライフ」の冒頭を記しておこう。
「この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。
二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過すのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれど。」


主人公は三浦半島の雨崎という岬に行く。やがて雪になる。そこが作品の主題、世界観の転換ともいえる重要なシーンだ。たしか、ドラマではここでペルトがかかったんだったと思う。
「音もなく限りなく降ってくる雪を見ているうちに、雪が降ってくるのではないことに気付いた。その知覚は一瞬にしてぼくの意識を捉えた。目の前で何かが輝いたように、ぼくははっとした。雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。静かに、滑らかに、着実に、世界は上昇を続けていた。ぼくはその世界の真中に置かれた岩に坐っていた。(中略)ただ、ゆっくりと、ひたひたと、世界は昇っていった。海は少しでも余計に昇れればそれだけ多くの雪片を溶かし込めると信じて、上へ上へ背伸びしていた。ぼくはじっと動かず、ずいぶん長い間それを見ていた。」
(池澤夏樹「スティル・ライフ」より引用)


そんなこんなを思い出しながら、よき記憶の断片や、そのなかにふと混じる妄想じみたものたちが、季節外れの雪のように降り積もっては溶けてゆく。
きっと大事なのは、こんなに広い世界の、または宇宙の片隅で、ひとときの間、そこに並んで一緒にいられたことだったかもしれない。
それは例えば、グラスの中にチェレンコフ光を見たような邂逅だったかもしれないね、などと言えば大げさに過ぎるだろう。
でも、そんなふうに思いたい夜もある。