2018/12/31

おさめ

本日で今年の踊りおさめ。
夕方というか、もう夜というか、レッスンが終わって人がはけたところで、図らずも、「はあ終わった終わった」と独りごちてしまう。
又吉直樹の小説も漫才もあまり興味がないけれども「ヘウレーカ」だけは録画して見ていて、前回はくしくも、独り言はなぜ出るか、というお題であった。いろいろ面白かったが、要するに独り言というのは、自分との対話であり思考の整理だそうだ。悪いものではないらしい。
日曜夕方の先生は振りの説明以外殆ど語らないんだけれども、語るときは含蓄深いことを語るので、その希少性も相まって心に残る。地元の年内最終レッスンの時に、たとえを用いて、料理における味覚(舌)、のような、ダンスにおいて本質的に重要なものは何なのか、たとえば音を聴くこと、音に合っているいることとかだけど、それを鍛えないとね、というようなことをおっしゃった。あいつあんなことを言っていたなあと正月にちょっと思いだしてみてください、と。正月を待つまでもなく、DVDを観ながら、もしくはyoutubeやらinstagramやらを見ながら、ぼんやり、ぐるぐると頭がそのあたりを回っている。

正月の宿題はもうひとつあって某映画を見ることで、こちらも今年主観的に(そのご指導内容と自分への影響度において)大変お世話になった先生のお題。最近は曲を聴いていると、その箇所のトークまたはコメントが脳内自動再生される。映像付きのこともある。労なくそういう状態になる先生ははじめてで。振りだけでなくストレッチやトレーニングでもそうなるといいなあと思っている。
そういえば、今日久しぶりに測ったところ、ここ20年ぐらいで最も体重が軽くなっていた。どうりでジーンズがゆるいわけだ。これも「良い結果」の一つなのかもしれない。

なぜかよくわからないけれども、クラスに参加させてもらっている先生方のうち幾人かはどうやらこれを読んでくださってるのかもしれないと思われる節があるので、あらためまして。人見知りで振り覚えの悪い自分が、日頃の先生方のお心配りで楽しく、あるいは多くの気づきをいただきながら踊ることができていることに改めて感謝いたします。


2018/12/20

パーツ

有休残を鋭意消化中。とはいえ半休でちびちびと。
昼前、帰り際に引きとめられないように、いつもにまして音も立てずに支度をして、小さく挨拶して風のごとく会社をあとにする。
けっこう人の言葉を編集して記憶しているので、もしかしたら違ってるかもしれないけど、悔しかったら「表現」まで行ってみなさい、と今日先生はおっしゃって、そのあとやっぱり悔しくて、うーん、表現ね、表現、とぶちぶち歌詞をつぶやきながら考えていた。
悲しさの表現というと、つい悲しい感情を再現する方向から考えてしまうのだけど、自分は、たぶん女性の割には淡々としているほうで、年とともにますます感情の波が少なくとも他人と一緒にいるときにはあまり外に出なくなってきている。おまけに無表情である。そっち方面から攻めるのは苦手である。
ので、パーツで考えることにした。
クラスにとても上手な女性がいらして、先生が袖でお休みのときはついついそのひとをじーっと見てしまうのだけど、感情を感じるのは主に上半身だ。足を見て悲しそうと思うことはあんまりないわけで、やっぱり上半身で攻めるべきだろう。
手と目と首(顔というと表情も入るからあえて首とか目とかいってますけど)は、動きとか向き、角度でけっこう何か伝わるものがあるよなあ。そんなことを考えながら新宿の夜のクラスが始まるまで自習練。ターンの練習をしてみたりする。首のきりかたがまずいとみえて、やっぱりまだ目が回る。
先生はAdele大嫌いだそうだけど、自分はこの曲がとても好きで。今の自分にとって、踊ることはその名のとおりremedyなんだよなあ。

2018/12/19

思い出の曲が多すぎて

最近特に、思い入れのある曲がいくつもできて、新しい曲に移っていくのが少しさみしい。
録画でもしない限り自分が踊ってるところを客観的に見ることなんてできないから、出来栄えのいかんにかかわらず手前勝手に達成感に浸るか、先生の顔をちらっと見て、まあ、一応がんばったので、ゆるしてくれたかな、と思うかしかないわけで、そういう先生との出会いはけっこう重要なファクターだと思う。

数年前から会社とジムでの自分を知っているもと同僚さんが、最近のわたしを見て、1年前ぐらいまではこんな子(週5でダンスばかりしてる)じゃなかったんだけどねえ、と言っていて、たしかに、それまでは週2コマぐらいは出てたけど、大して身を入れてやってたわけではなかった。
はて1年前に何があったかと考えてみると、先生が、年末だから踊ります、といってレッスンの最後に踊ってくれたのがちょうど1年前のことだった(それ以外にも何かあったかもしれないけど、今は思い出せない)。
ダンサーさんが本気で踊っているのを間近で見るのが珍しかった自分は、単純に、うわ、すごいなあ、と思ったわけだけど、たぶんそれから少しずつ出るレッスンの数が増えていった気もする。
いろんなご縁が絡まりあって、いまの自分につながっている。
感謝。

2018/12/09

整体など

整体に行く。通常月2回ぐらい通っているのだけれど、左腰のぐりぐりが大きくなっていたせいで最近週1回にしていた。2週間前ぐらいの整体師さんのコメントによると、ここは筋肉のはずですが、なんか、骨みたいになってますね、とのことで。
いまだ整体は、この人、という先生が見つかっていないので、とりあえず近所でそれなりの成果を出してくれるところに通っている。
今のところ左腰のぐりぐりに関する自分的に納得感のあるストーリーは、今まで長いこと背骨が時計回りにかつ斜め(左骨盤が下がり右骨盤が上がる形)に捻じれていた、という説。捻じれは矯正で定期的に解消しているわけだけど、過去捻じれていた間のくせのせいで、ぐりぐりはまだご健在なのだろう、と思う。
その整体さんは矯正はしてくれるけど、矯正しなくてすむようになるための自衛的手段、トレーニングとかストレッチとかというところはいつも口を濁すので(まあ営業的にそういうものなのかもしれず)今後どうしたものか目下模索中。
ところで、本日(昨日)の目玉は腸骨筋なるものでした。股関節のストレッチをされていたときに、その形は足の付け根が痛いですと申告すると、あ、ここですかね、と押されたところが前述の腰よりも何よりも泣きそうなくらい痛い。ああすごいことになってますねとクールなコメントをいただきつつ、しばらくひーひー言ってました。それが腸骨筋だそうで、こちらも腰痛の原因なんだそうです。ああ痛かった。痛いといえば、この前ヨガのクラスで習ったわきの下というのもえらく痛い。こちらも広背筋とやらで腰がらみだそうですが。最近お気に入りの、でこぼこ付きローラーで思い出すたびにころころ。

ヒップホップのクラスの子が、ジャズのクラスってストレッチの時間長すぎない?(=振りの時間が短い)と言ってたけど、いやお嬢さん、あれだけ時間かけないとこわくて振りなんてできないよ、と最近思う。土曜は昼から動いているから夜には割合ましになっているほうだけど、いろいろ下ごしらえができてないと、とてもじゃないけど先生の指示どおりの動線なんて作れそうにない。いやそれどう考えても無理でしょう、みたいなことを先生は平然となさるので、おかしくなってつい変なところで笑ってしまったりする。ごめんなさい。
地味な改善の組み合わせで、少しでも自分の動線がましになるといいなあと思いつつ。

あ、一升瓶ようやく栓を開けました。おいしいっす。ごくごくいっちゃうかと思ったけど、今日微増したはずの筋肉がこれで死んでいくかと思うとあまり進まず、グラス2杯ぐらいでやめました。これくらいがちょうどですよね。ごちそうさまです。

2018/12/05

一升瓶

先月まで上司だった方から一升瓶のワインをいただきました。
今日栓を開けるとついつい飲み続けて明日か明後日あたりレッスン(または会社)に行けなくなる予感がするので、週末までじっとがまんの子。
(しかし、いくら週末でも、ひとりで飲んじゃいけない気もするが。ま、いっか)

日曜に新振りになってから、足が上がらないのがプチ悩み。
バレエちっくに美しく足があがらない、というか、足があがったまま静止できない。ハイキックみたいに反動をつけたのは少々ましなんだけれども。静止すると前ももがつりそうになる。しかたなく軸足を曲げてみたり、いろいろ試す。
別の日のピラティスのレッスンの最後に、足を上げてバランスをとるパートがあって、今おなかに力が入ってるので楽にあがると思いますーと先生がおっしゃることがあるんだけれど、確かに、ほんとうにそのときだけは、つりそうになく上がる。
これを45分のピラティスをせずともつらずに上げたいわけですが。
とりあえず腹筋が足りないことだけは確定していて。
美しく足が上がってるひとを眺めつつ(たぶん眺めててもどうにもならないんだけども、そこはなんというか、いわゆるきもちのもんだいで、)いろいろ模索中。



2018/11/28

うるうる

曲を聞いてるだけで泣けますが、動画アップしてくださっていて感涙しばし。
明日からしばらくお隣が空席となり、関係ないけど帰りがけに呼びとめられてイスラエルに出張に行けとかいわれ(正直、気がすすまない、、)、なにやら忙しげな予感がしておりますが、可能な限りすべて先延ばしにして、今年残りの有休は木曜の午後に捧げまっす。

2018/11/27

また眠れない

控えめにしておこうと思いつつ、送別会でワインを3杯ほどいただいて、いい感じに回っちゃったので、今日はこれでおしまいかなあと思っていたら、最後に出されたコーヒーを飲んでみたら意外に目が覚めたのでレッスンに出る。
やっぱり夜コーヒー飲むとねむれない。
あと3時間で夜が明けてしまうなあ。
なにごとにも最後の日というのがくるわけで。
だから後悔のないようにしておこう、と思いを新たにするために、さよならがあるのかもしれない。

2018/11/25

どこかで

今月、わりと時間を作ることができたので、地元のスタジオの開放時間を利用させてもらって自主練をした。HIPHOP系の振りは家でも練習できなくもないけど、ジャズはできない(狭すぎて)。幸い今回は途中まで動画もあったので、振りが分からなくなって挫折することもなく、自分的には今までで一番練習できた。実感したのは、振りというのはある程度できあがると上達しなくなる、または上達が鈍くなるということで。いやたぶん見る人が見ると言いたいことは山ほどあるんだろうけど。
ともあれ、結局のところ、基本動作が美しくないと振りもそれ以上美しくならないし、基本動作を美しくするのは筋肉とか柔軟性、連動性とかの鍛錬であって。
もちろん、セオリーは頭では分かってはいたんだけど、そういう言葉が身体を通して自分のものになる、という体験は貴重だ。こういうことは振りを練習してみないと分からない。自分には振りを素早く覚える練習も必要で。どれも大事だなあと思う。
土曜、ジャズが新しい振りになって、あああ、すてきだけどむずかしい、、と思っていたけど、今朝起きて動画を見てみたら、この前の先生の公演の振付の一部(約20秒)だった。習ってるときは、この動線は、どこかで、、、と一瞬、既視感を覚えたものの、まったく気がつかなかった。おかしいなあ、何度も見てるのに(笑)。鑑賞してるのと振付覚えようと思って見るのとは違うというのもある、、というのはいいわけだけど。
金曜にトレーニング要素の強いレッスンに多く出たせいか全身筋肉痛なるも、はい、そんなわけで、朝から元気です。



2018/11/22

健康診断

今年もあと1カ月余りとなりました。
振り返って、何してました?と聞かれたら、
仕事以外ならダンス、としか答えようがありません。
健康診断だったので、待ち時間に、最近お世話になった
(又は現在形で、なっている)曲を振り返ってました。
中には振りを思い出せないのもありますが...
(おかしいな、あんなに練習したのに)
それぞれ思い出があって、みんな好きだなあ。

あ、ちなみに自営業のみなさま、健康に自信があるみなさま、
同世代(±5歳ぐらい?)のみなさまも、まだ若いみなさまも、
ちゃんと検診には行きましょうね。
どうかどうかいつまでも末永く健康で、
そして美しく舞う姿を見せてくださいますように。




2018/11/17

夢を見た

金曜の夜。ストレッチすると催眠術にかかったみたいに眠くなる。ダンスなぞやめて、お願いですからねかせてください、と思いつつ始まったら始まったでもちろん、ちゃんとやる。先生の指示はだんだん細かくなる。というか、もとから細かかったのかもしれないけれど、きっと、その他のことでせいいっぱいで、耳では聞いてても腑に落ちてないのである。たぶん先生がたには呼吸のように自然な動きも、何度見てもその動線がどう形成されているのか分からない、ということがあるんです。腑に落ちても、動けるようになるのには時間が要る。ちょっとだけご忍耐いただけますか、そのうちできるようになりますから、たぶん(笑)。

終わるととたんに眠くなる。ジムの向かいに天然温泉付きホテルなるものがあって、ここで一泊しようかなあと一瞬考えながら通り過ぎる。赤羽駅の乗り換えで買ったぎょうざを食べおえてことりと眠る。朝5時に一度目覚めて、そのあと珍しくストーリー性のある夢をみた。
日本橋のオフィスから昼にパンを買いに歩いていくと、なぜか海の見える山の斜面に出た。パンを買う行列ができている。なんでこんなに並んでるのか尋ねると、お菓子も一緒に売っていて、ポルボロンが絶品だという。大好きだ。買う、と並ぶ。待ちくたびれたころにはパンはもう売り切れに近くて、ポルボロンももう売り切れたという。しかたなく残ったパンをトングでつまもうとするとみるみるうちに小さく縮んでなくなってしまう。
それでも縮まなかったパンを2つばかり買って帰ろうと山道を登るのだが、当然ながら日本橋らしき景色が見えてこない。通りすがりでタクシーをつかまえる。なぜか運転手のおじさんのほかにおじさんがもう一人のっている。
日本橋ですね、大阪じゃなくて東京の。はい。はいよ、っと言って、おじさんは道路をはずれてトトロのネコバスみたいに道なき道を飛び跳ねながら運転する。
山から離れて少し都会らしい景色が見えてくる。隣のおじさんに話しかける。おじさん、すごいっすね。今度困ったときのために携帯番号教えてください、というと、えーと、と探し始めるがなかなか見つからない。小さなモニターに運転手の名前とか所属とかが表示されていて、番号らしきものを見つける。あ、これ撮らせてください、といって写真を撮ろうとした瞬間、ナビ画面に切り替えられる。
東京ではあるようだけれど、なんだか違和感のある景色が続く。時計をふと見るととうに昼休みは過ぎていて、もう4時近くなっている。
ああ、どうしよう、パンを買いにいったらそこは山でしたなんて言えないなあ、半休にして帰ろうか、いやそれにしても連絡が遅すぎる、行方不明時間が長すぎる、、いっそのこともう辞めちゃおうか、いやそれでは生計が、、
というところで目が覚めた。

2018/11/13

下手な自分も

日曜、感動、というと月並みにすぎるが、いろいろ思い出しつつぼんやりしながら武蔵境から帰っていつものレッスンに出る。練習したつもりだけどやっぱりいろいろ間違っていて、いつものごとくうまくいかない。終わった後にいつも自主練してる上手なひとたちにはじめて混ぜてもらう。30分ぐらい練習して最後一人ずつ踊ることになる。小心者なので、お願いして、直接見ないで鏡の方を向いててもらう。それでもやっぱりいろいろ間違える。
とてもいい言葉をいただいたので備忘のために。
「下手な自分も見ておいてもらうといいんです。あとで、ああ、ずいぶん上手になったな、って思ってもらえるから」
本当に踊るのが好きなひとの言葉だからすとんと心に落ちる。勇気をいただく。

2018/11/11

先生

8月末からレッスンに出させていただいている先生が、先生は続けてくださるんだけど舞台からは引退されるとのこと。最後に母校で踊りますとおっしゃるので、三鷹というか武蔵境というか、とにかくそのあたりまで出かける。
早めに着いて学内をふらふらする。チャペルや礼拝堂がある。芝生で子供が遊んでいる。住居棟みたいなところもあるから、学校関係者のお子さんだろうか。
自分はカトリックの女子高だったから、確かこの学校も推薦枠があった。こういう学校に来ていたら今頃こんなではなかったかもしれないな、と思ったりもする。今この年になってみれば、緑も多く静かで、学業又はその他の何かに没頭するにはいい場所だと思う。けれど、きっと、自分は若い頃にここにはいられなかっただろうなあ、という気もする。
学食で豚肉の味噌煮380円也をいただく。深めのお皿にてんこ盛り。ふつうこういうものは肉は3分の1分かそれ以下で野菜でごまかすものだけれど、ここのは、お皿の中に存在する主なものは豚肉。茄子が好きだから茄子から食べると後に残るのはほとんど豚肉。さすが学食。
前置きが長くなった。
先生のパフォーマンスを生で見るのはもちろん初めてだし、これで最後だそうだ。もっと早くお会いすればよかったなあとも思うけれど、最後に間に合ってよかった。
自分には一度見た振付を映像的に記憶する能力もないし、それを表現する言葉も持っていない。
ただ、あのとき舞台の上から、透きとおるように美しく、あたたかくてやさしい何かが、先生たちの身体から放たれ拡散していって、それをわたしは確かに受け取った。定かに線を結ばないながらもその残像が、今も心の中にまだ波打つように揺蕩っている。

たしか茂木先生が昔、ソクラテスと弟子の関係の話か何かで、先生というのは何を教えてくれるかよくわからない(事前に想定できない)けれども、なぜかしらそばにいたい人だ、というようなことを言われていて、そうそう、と手を打った。
すてきな先生に出会えてわたしはしあわせである。

2018/11/04

エール

父はもうこの世にいないから、娘にこんなことを書かれても腹は立てないだろう。
たとえていうなら、母は自分が走りたい人で、父は走る人に沿道からエールを送りたい人だったんだろうと思う。
自分は持病もほとんど父譲りだが、性格も父に似ている。似ているせいで、父はきっと一人娘に愛されていると感じることはあまりなかったんじゃないかと思う。気の毒である。

母はいまでも卓球の全国大会に出て、今回はベスト8止まりだったと悔しがっているような人だ。学生時代は、ソフトボールをやらせればピッチャーで、バレーはセッターだったらしいが、ママさんバレーでひざを痛めてからは卓球に転向した。以来卓球ひとすじ。
一方父は夜学を出た若い頃はいろんなことをしたようだが、勤め人になってからは夢らしきものはあきらめて淡々と働いた。娘に自分の夢を果たさせたくて、文学全集を買い与え、たまに小説家になれと説いたがそっぽを向かれた。単身赴任の香川で覚えたうどんをたまに打って母とわたしや知人たちに食べさせ、のちに飽きて蕎麦打ちに転向し、蕎麦屋を出す夢をあたためたが実現には至らなかった。ふと思い立って自転車でオーストラリアを一周し、毎日ひげをそりながらラジオ講座を聞いて韓国語を口ずさみ、小説家の夢はあきらめたもののどこぞの作家に弟子入りしてたまに小説やエッセイを書いた。一度読まされたがつまらなかったから二度と読まなかったが。まめに日記を書き、ほかにも何か書きためていた。

夕食は断られたが、いつものように朝実家に行って、二人して父の写真の前で話した。
最後に入院した時に、お父さん具合悪いから卓球の大会行くのやめるわと話したら、どうせ、ぼくはねているだけだから行ってきなさいよと言われて、行ったのよねえ、と母。その時は結局、負けたらしい。母は勝ち気な性分なので、勝ったときは嬉々として語るが、負けたときは、どうだったの、と聞かないと口を開かない。悔しげな顔で、負けた、とつぶやく。
で、ほんとに最期の時になってお父さんが、あのときの試合はどうだったの、と聞くのよね。いやらしいわよねえ、と笑う。
父はそれなりに賢かったから、ある程度自分を客観視していて、手元では自分にできることをしつづけたものの、ある種の諦念を持っていた。一方、いつまでも走り続ける、走り続けられる母が好きで、彼女をサポートできるのが喜びだったんだろうと思う。
自分もどちらかといえば父側の人間で。
走るひとのうつくしい姿を近くで見ているのが好きだ。自分にもなにかお役に立てることがあればいいのになあ、と思いつつ。



2018/11/03

ぼんやり

このところ相当ぼんやりしていたと見えて、1週間のあいだにいろんなポカをやらかした。
レッスンが終わって、袋の中にロッカーのカギがないことに気づく。なくしたと騒いだあと、想定していたのと違うロッカーを使っていたことが判明する(その日別のお店で使ったロッカーの位置と勘違い)。おまけにカギをかけ忘れている(およそ3時間)。
別の日、会員証をロッカーに忘れてくる。
さらに別の日、受付で支払いした後、カードを受け取り忘れる(およそ5時間後に発覚)。などなど。
プライベートのポカばかりだったのが幸いだった。しっかりしないと。

土曜が祝日なので、金曜、久しぶりに大宮の先まで行く。ほぼ無心で先生のおっしゃるとおりストレッチ。コンディショニング系は大好物だけど、金曜の夜は疲れはてているので余計にありがたい。ジャズの振付もすてき。動画もうれしい。
土曜、ちなみに父の命日。母上に夕方お食事でも、とお誘いするも「いそがしい、それどころでない、別の日で」と却下される。

大人になってからの学びは、自分で適切な目標を設定して、自分で自分に達成感というご褒美を与えてあげないといけない、と思う。
7割しかできなかったと悲しむか、いや7割もできるようになって、自分、ずいぶん成長したわと思うかは各人の目標設定次第だと思うわけだけど、今日の自分は後者。先生にはしかられるかもですが。できなかったところも曲を聞いてだいたい思い出せれば個人的には上出来。ごほうびに大戸屋でいわしとろろ丼定食とデザート。いざ支払いする段になってカードがないことに気づいたわけだけど。
ぼんやりしているのは、振付に使われてるすてきな曲ばかり聞いているせいもある。

2018/10/27

単純

IT用語でendless loop(infinite loop)というのがあるのを知った。
文字通り、無限ループ、プログラムが同じ処理を繰り返して終了できない状態になることだそうだ。
メンタルでもこういう状態になることがある。答えの出ない問いが無限に脳内をめぐり思考停止、ひどくなると行動停止に至っちゃうわけだけど、その解消の方法は、自分の場合はっきりしている。兆候があらわれたら即、身体を動かすこと。それ以外ない。昔はマーシャルにずいぶん助けてもらったし、今はダンス。好きな先生のレッスンに出ていると自動的にしあわせになれる。覚えた振付を記憶するために音楽を聴く。考えている時間を物理的になくす。それで解消する。どんどん単純な人間になっていく。しあわせである。
しあわせといえば、よく見る動画ー最近、寝る前に「あとで見る」に登録してあるダンスの動画10件ぐらいを流してみることにしている。なにごともイメージって大事だとおもうわけで、それが自分にできるとかできないとかでなく、ああこんなふうに踊れるといいなあ、というイメージ強化のため。その中の一つに、cooler than meという曲があって、ちょっとぽっちゃりした女性なのだけれど、絶妙にしあわせそうな表情で軽やかに踊っている姿がとてもいい。どこのどなたか存じ上げないけど。こんなふうにしあわせそうに踊りたい、そう思いながら飽きずに見ている。
ところで、踊りながら首から上を動かすのは結構むずかしい。首を動かすとか頭を動かすとか目線を動かすとか。表情を作るというのもこれまたむずかしい。そういうことを考えていると、無限ループなんてことはどうでもよくなる。やっぱり単純なのだ。今日も昼から3軒はしごして、疲れ果ててあとはねるだけ。おやすみなさい。

2018/10/20

最強

あの朝、結局、シャインマスカットのデザートは食べなかった。
昼過ぎになって、あ、忘れた、と思いながら、微妙な空き時間に久しぶりにジュンク堂をぶらぶらする。本の装丁が呼んでいるのを感じられるから、リアル店舗もたまには行きたい。「翻訳できない世界のことば」と、小説1冊お買い上げ。












お腹の中で蝶が舞っているのにはそこはかとない違和感があるけど、もしかしたら蝶好きの人にはヒットするのかしら。バナナのほうは、何分とでも取れるこのアバウトさが好き。いちおう、だいたい2分、て書いてある。

月曜、朝起きてから妙な音がするとは思っていたけれど、会社に出かけようと靴を履こうとしたら、玄関天井の蛍光灯カバーからぽたりぽたり雨漏りしているのを発見。上階の給湯器の配管から少量漏れていたらしい。会社を休んで業者さんが来るのを待つあいだ、映画2本観る。「The Cotton club」大人の色気的なものをこれで研究しなさい、というようなことをジャズの先生がもっと上等な表現でおっしゃっていたので参考まで。イメージは理解する。理解したのと実践できるのとはまた別で(笑)。2本目は以前から気になっていたアキ・カウリスマキ作品1本。地味なストーリー展開ながら興味を逸らさない不思議な魅力。見終わったあとにじんわりあたたかい心持ちが残るすてきな作品。

金曜、朝カル。最寄りの丸亀製麺に寄るのが習慣になってきた。腹ごしらえをして待ち時間に論文を読む。今回のは読みやすい。
端的には好奇心にドライブされたActive learningの効用、というキーワードが残るのだが、そのテーマが形を表してくるまでの2時間の軌跡が名講義のゆえんである。
講義の終わりに、Bruno MarsのふつうのUPTOWN FUNK のofficial videoを少し見た後のこれ- UpTown Spot、ひとりくすくす笑いが止まらない。楽しいっていうのは最強ですよね、と誰かが言っていたのをふと思い出す。そうそう、ほんとに。最強です。

2018/10/13

かんちがい

早く帰りたくて最近は7時半出勤を励行しているせいか、週末になると猛烈に睡魔におそわれる。久しぶりの11時間睡眠。
自室のやや距離を置いたはす向かいにデニーズがあって、モーニングを食べにいく。そんなにしょっちゅうではなくて、引っ越してきてから数回目である。
会社で背中合わせのこれまたはす向かいに座っていらっしゃるグルメなおじさまが、「いやあシャインマスカットって美味しいねえ」とニコニコ顔でおっしゃるので、いつか食べてみようと思っていたら、デザートメニューにその名を見つける。写真で見ると、3粒ぐらいしかのってないのがさみしいけど、モーニングを食べ終わったらオーダーしようと固く心に決めつつ、スクランブルエッグとパンケーキを食す。
カフェオレとカフェラテの違いが分かっていない。いや字面の説明は分かるが、味の違いがよく分からない。ドリンクバーにカフェオレとカフェラテが上下に並んでいるのを見つけて、2回ずつ飲み比べてみる。ちょっと濃さが違うようだがほぼ同じ味がする。やっぱり、自分て違いがわからない女なのかもしれない、と思う。
ダンスの振りで使われている曲をイヤホンから流している。先生の個性あるチョイスの曲たちで、どれもそれぞれに好き。数えてみると、1週間で7人の先生に教えてもらっていて、レッスンは週末から週初に集中している。物理的にこれ以上増やせないし、でも減らしたくもない。
録画してあったネコ歩きを見る。生後2ヵ月の犬と生後4ヵ月の2匹の猫が3匹で犬猫ダンゴを作っている。犬は、自分をネコだと勘違いしてるのかもしれません、と岩合さんのナレーションが入る。
そうだね、きっと犬はいつか自分は犬であって猫にはなれないと悟るのだろうけれど、かんちがいしている間の、そのはかなく、でもあたたかく、とろけるようなしあわせも、きっとそれはうそではない、と思う。

2018/10/07

希望

ケーブルテレビのチューナーが壊れていて、コールセンターに電話しなければと思いながらユーチューブばかり見ている、または聞いている。朝から茂木先生の講演を聴いていて、そのまま流れで次の動画も聞くともなく聞いていた。
自分で言うのもなんだけれど、わたしは自分が見聞したことを、ああこれはわたしへのメッセージだ、と都合よく解釈する達人である。たとえ話し手の想定した正客や目的は別の人や物事であったとしても、そんなことはどうでもいい、というと乱暴かもしれないが。とりあえず、いただけるものはありがたくいただいちゃうのである。
希望の技術、というキーワードが残った。希望を持つということはひとつの技術である。知っていることと知らないこととの絶妙なるmixture、無知の知は希望の技術だと思う、自分が何者か分かったと思うことほど脳にとって成長の妨げになることはない。何者か分からないのは不安だけれど、不安と希望は表裏一体である。明日何をしているか分からないという感覚をどれだけ持つか、まったく違う自分でもありえたという想像、偶有性のパス回しをどれだけやっているか。先生ご自身も、自分は何者であるか分からない、というようなことを語っていらした。
茂木健一郎 本当に賢い人は「知らない」

そうだ、自分は何者であるかなんて、限界なんて早々に決めなくたっていいや。
午後からダンス。相変わらず振付を覚えるのに時間がかかる。たぶん集中力に向上の余地はある。先生が踊っているのを見ていると、人間てこんなに自由なんだと思える。至福のひとときである。
そう、希望だ、希望。要は納得いくまで練習しなさいというメッセージをいただく。

2018/10/04

眠れない

地震で携帯2個に起こされて、眠れないのでPCに向かっている。
なにごとにも自分に利する側面と他人を利する側面とがあると思うけれども、表現という行為になったときは、やはり利他的な側面を全く考えないわけにはいかないんだろうなと思う。
ダンスをはじめたのは、待ち時間にレッスンに入ってみたら意外と楽しかったから、以外のなにものでもなかった自分の場合、当初、人の踊っているのを見ること、とか、人に見られること、はあまり考慮に入っていなかった。
今も、人に見られたいという気持ちは自覚的にはほとんどない。鏡の中に見える自分の格好が、もう少し、もう少しましにならないかと思うだけである。
しかし。
踊っている自分の姿というのは、録画でもしない限り、自分ではその全体像は正確に認識できない。誰にも見られていないか、自分以外の誰かに見られているかのどちらかである。そういう本来的に他からしか見られない行為なのに、他人の目線を意識しない、できないというのは片手落ちなんだろうなと、遅まきながら思うに至ったわけである。
最近見た動画にAnthony Leeという人のがあって、Cry me a river なんかを見ながら、人間というふつう動線が曲線になる生きものが作る、人工的直線的な動きも美しいんだなあ、と思う。もちろんほかのタイプの振付も好きで、もっぱら視聴回数に貢献している(笑)ものもいくつかあるんだけれども。
で、前述のは美しいのは美しいのだが、見るだけでも息を止めて見るようになってしまう代物で(自分だけかもしれない)、たとえばこれを踊りなさいといわれたら(言われてもできないけど)さぞ苦しいだろう。呼吸できそうにない。つまり、こういうのは、自分が楽しむためというよりは、人に見られる目的でないとできないんだろうなと。
眠くなってきた。
引っ越して1年少し経った。転職して時間の余裕ができてから、出られるレッスンが増えたのはよかったけれど、さて、今の自分は、1年前より少しはましになっただろうか。とりあえず、好きな先生が増えて、昔より踊るのが好きになっちゃったことだけは確かである。




2018/09/28

1%

たまにきれいにしてやらないとよごれっちまう魂の洗濯に朝カルに行く。
茂木先生はある意味、もう突きぬけてしまっているので、その存在、その言葉に接するだけで自分の身の回りのことどもなど、たいしたこっちゃないと無理なく認識できる。
大人になってからの学びは、1%のキモを教わったらあとの99%は自分で考えろ、試行錯誤しろ、と言っていた(たぶんもっと丁寧な言葉で)のは確かFさんのメルマガだったと思うけれど、その1%を自分に与えてくれる人はそう多くない。やっぱり先生は突拍子もないようでいて、キモのところはしっかりおさえてくれる。
面白かったのはappraisal theory of emotionといって、感情が働く前に実は認知が先に働いて評価しているという話だった。評価の後に感情がくる、と聞いてしっくりする。やっぱり、人間なんの理由もなく好きになったりしないのだ。
配布されたプリントは、脳がどのように美を評価するかという話だそうだ。今回はがんばって最後まで読めるかなあ。
教室で、前の画面を見ながら、背中が痛い。腰トレのおかげで腰回りは改善の兆しだが背中は相変わらず固い。今日午後休して出たレッスンでウエーブのしすぎだろか。ちょっと気になる。
薄着してきてしまったので、讃岐うどんであったまって帰路につく。





2018/09/23

記憶

カズオ・イシグロの文学白熱教室の録画をひっぱり出してきて観る、というか、聴く。職場の机の引き出しにしまってあった、ほぼ未読の「忘れられた巨人」の文庫本の表紙を見て、それを買うきっかけになったその講義を思い出したというわけだ。

イシグロ氏にとって記憶は、一枚の切り取られた静止画像のようなもので、そのディテールや背景はあいまいで、そこから前後に記憶が広がっていくのだという。動画にしてしまうとはっきりしすぎてしまうような、人間のあいまいな記憶を通じて語るという手法で小説を書くという手法にとりつかれている、と語る。
人間は重要な話をするとき、実は信頼できない。自分をどのように評価するか、過去にしでかした過ちや不愉快なことをどう避けるか。そんなとき、人間には嘘をつく才能がある。個人においても、社会においても、何を忘れ、何を覚えておくか、何をいつ思い出すのか、永遠の課題だと。

「日の名残り」についての会場からの質問に対して語ったことが興味深かった。
読者にまず気づいてほしかったのは、語り手として登場する主人公の語る言葉がその言葉どおりには受け止められない、主人公の言葉はどこか信頼できないということだった。作品の中で、主人公の視点は一箇所にとどまらない。まるで日記の延長のようでもあるけれど、どこまで現実を受け入れるかという彼の精神的な立ち位置によって、時期によって彼の立ち位置が変わっていき、伴って彼の口調が変わっていく。主人公は自分に正直になっていく、現実に向き合う勇気を持つようになっていく。信頼できなかった語り手は次第に信頼がおけるように変わっていく、それが重要だった。
小説は事実ではない、ただ嘘という言葉は使わない、それは意図的に人を惑わすものが嘘であって、事実ではない、作られたものではあるがそこになんらかの真実が含まれている、そういうものだと。人間として感じる心情、それを伝えたい、わたしはこういうことを感じた、君は理解してくれるか、それを伝えたいんだと。

また備忘録になってしまった。
自分は小説を書いたりはできないけれど、ああほんとうに、そんな気持ちでこの拙文をしたためている。この空間に登場することどもは、ありふれた日常であって、とりたてて記録しておくべき価値あるものは何もない。ただそこで感じた心情、真実などというべき大げさなものではないが、そのかけらのような何かは自分にとってかけがえのないものであって、それを時ともに流さずに、とどめておきたくて。

2018/09/17

PLAY

パリオペラ座の「PLAY」(アレクサンダー・エクマン振付)の録画を3回見る。今朝起きて2回、帰宅して1回。
気に入ったものは何度見ても飽きない。しつこいのかどんくさいのか、その両方なのか。ダンスも同じ振付を何度踊ってもこれで飽きたということがない。だいたい言われたことなんて1度で全部咀嚼できないし、1回できても次のを試みたら前のを忘れてしまっていたりするから、なかなかこれで完璧、とならない。時間がきて最後の1回が終わると、あら残念、と思うのが常である。
「PLAY」の話に戻る。
大人たるものバレエ鑑賞ぐらいできなくてどうする、と思って、機会があれば録画するのだが、10分もすると眠くなって、結局全部見ずに終わるような種類の人間だ、という前提で、そんなわたしが3回見たのだ。すばらしく面白い作品だった。
だいいち、目に楽しい。
ダンサーたちは、よくできたオブジェのよう。
よく思うのだけれど、美しいひとたちは、ただそこで躍動しているだけで美しい。作品の振り付けとは関係ないけれど、極端なことをいえば、とびはねながらただランジしてるだけで、うつくしいのである。もう意味も物語もなにもいらない。われら凡人はただ賛美するだけである。
斬新、などという言葉を使えばすでに陳腐。
アイデアにあふれた眼もあやな仕掛け、そこで美しい身体が躍動している、それがこんなに楽しいなんて知らなかった。

2018/09/16

ささみ

ジャズシューズなるものを買ってみた。
やわらかそうでいいなあと思っただけの話だが、これを履いてみたら、何度やってもできなかった足の甲側を床につけながらターンするという芸当(笑)が(はだしでやっても、靴下はいてやっても、むろんふつうのシューズでもできなかったわけで)が、いきなりできちゃったのである。シューズの力、偉大なり。おまけに軽い。かさばらない。持ち運びに便利なり。はげしく飛んだり跳ねたりするクラス以外はこれでいこう。

遠出の甲斐あって、ストレッチのクラスでもいろいろ教わってきた。
複数の整体師さんたちの証言によると、自分はなにしろ尋常でない腰の硬さらしいので、そう簡単に改善しないと思っていたのに、言われたとおりのポーズをとっているだけで、よくなってきた。勝手にお師匠さまと決めて、しばらくついていくことにさせてもらった。
先生がもも周りのマッサージの話をしながら、スーパーにささみが置いてあるでしょ、あれと同じぐらいの柔らかさになるといいですね、とおっしゃった。今のじぶんの太ももの感触は、なんだか妙にごりっと筋張った、ハム、まではいかないけど、たぶんささみではない。
昨日焼きそばが食べたくなって、ああ、もう秋になったんだな、と思った。夏場はそうめんいっぽんやりだったもんね。で、茄子を買って、それから豚肉コーナーに寄る。豚肉の隣に鶏肉コーナーがあって、あ、ささみ、と思いだした。
触ってみる。つんつん。
こんな足になるのかしら。ぷにぷに。
ささみになあれ、と思いながら、フォームローラーでころころする。
あ、そうそう、スーパーでそのまま帰りかけて、先生が、あ、ささみ、さわったらお買い上げくださいね、とおっしゃったのも思いだして、ちゃんとカゴに入れた。
ささみは冷蔵庫に鎮座している。まだ何に使うかは決めていない。


2018/09/11

ほぼ日記

なにかと支障が生じるので、仕事のはなしは一切ここにはでてこない。
したがって自分の興味が向くもののことをつらつらしたためることになる。
あいつまた同じこと言ってるわとお思いの方もあるだろう。
ほぼ日記なので。
あなたが勝手に読んでいるのです。
というわけで、好きにさせていただく。
好きなことにフォーカスしていると、その対象物に関するものごとが、自然と向こうから近付いてくる。誰かがなにげなくつむぐ言葉も、わたしには、行け行け、進めというメッセージにかわる。
背中を押してくれる言葉や、ふわりと笑顔をくれる、遠くや近くのひとたちに感謝しつつ。

2018/09/09

wild hearts

クラッシック以外に自発的に音楽を聴こうという気になるのは振付に使われた曲ぐらいなのだが、ここ数回のジャズのクラスで使われた曲がとてもすてきだった。
先生が最後に、ところで歌詞の意味しってる?とおっしゃったので、次のクラスの待ち時間に調べてみたら不覚にもなきそうになった。
いい曲です。
wild hearts can't be broken 

2018/09/05

秋風

こういった方法で思いをかたちにしていると、面倒なこともあるが、いいこともある。
少し遠いひとたちから何らかの形で思いがけずフィードバックをいただくこともあるし、言葉にすることで、自分の背中を押すことにもなる。

9月に入った。
すずめやリツとも今月でお別れ。
毎日15分の心のともしび。今期はずいぶん元気をいただいた。
何があっても、すべてあのときのときめきから始まっていることを忘れるものか。
秋風羽織の名セリフをつぶやきつつ、あしたもがんばろう。

2018/09/01

遠足

夏休み(午後休)2日目。
インフルと入院で病休をずいぶん使ってしまったので、有休はちびちび使わねば。
いつも土曜の夜に出ているクラスの金曜昼版に出る。9月から3か月目で、踊りこみに入る。超初心者だったわたしに基礎から踊りこみなるものの楽しみまで教えてくれた(今もだけど)のはこちらの先生である。自分の場合、ざんねんながら踊りこんだってたいしてうまくなっちゃいないのだけれど、自分の内部世界と曲がシンクロする感覚は一度味わってしまうとくせになる。
夜のクラスに移動。ちょっとした遠足みたいな距離。大人の遠足なのでグリーン車に乗る。仕事帰りのおねえさんがチューハイを飲みながら、いい感じでぼんやりしている。おたがい一週間おつかれさまでしたよね。心の中で声をかける。
大宮からひと駅過ぎたところで気配を感じて目をあけると、suica拝見しますと言う。見上げると赤ランプになっている。あれ、おかしいな。さっきは緑だったんですけど。行き先はどこですか。あ、そこなら大宮で乗り換えないと。
アプリを見直すと、確かに大宮で路線が変わっている。乗る前は一本前の電車で検索して、それは直通だったが、一本後の今のってる電車は乗り換えねばならなかった。やれやれ。
いろいろあったが無事目的地に着く。
ストレッチとジャズのクラスに出る。今までに未経験のストレッチがおもしろい。ひたすら言われたとおりの形をつくる。これで腰痛でなくなりますよとおっしゃる。主にデスクワーク時の姿勢のせいで、肩から腰にかけての背面がつらくて毎週整体に通ってる身としては、ほんまかいな(すいません、疑い深い性格で)と思いつつ、今日起きてみると確かに腰が軽い。これは、しばらく通って習得しなければ。
あ、そうそう、びっくりしたのは、日曜の昼に自分の地元のクラスでお見かけするおにいさんがいらっしゃったこと。お互いさまだが、まあずいぶん遠くまで(自分の地元とこの現地とどちらが遠いのかは知るよしもないが)。HIPHOP系がお得意とお見受けするステップの軽やかなかたである。
遠足のしめはサイゼリヤでごはん。幸い、何を食べてもおいしい人種である。
帰りの電車は空いている。習った曲をかけつつ、うとうとする。
日々の出会いはそれだけで奇跡である。
しあわせな一日でした。

2018/08/30

軽さについて

最近いろいろな理由で足が遠のいてしまったが、エアロをはじめたばかりのころ、先生の足ばかり見ていた。
というのも、エアロは前後左右に移動が入るので、足を間違えると隣の人とばったり鉢合わせしたり接触しそうになったりして、ご迷惑をおかけする。
とりあえず、他人様に迷惑をかけてはいかん。
ということで、優先順位として手より足、となって、結果的に先生の足ばかり見ることになる。
先生というのは見ていないようで生徒のことを見ているものらしく、ふと何かのついでに「私の足ばかり見ててもだめなんですよ、身体全体を見ないとね」と言った後、わたしのほうを見た。
あらら、ばれちゃった。
ということで、その後なるべく足にばかり注目するのはやめて、なんとなく先生全体を見るようにした。たぶんそれが正解だったんだと思う。
その先生にはしばらくおめにかかっていない。ちょっとさみしい。

ダンスをするようになって、別の意味で足に注目するようになった。
美しく踊るひとたちは、おしなべてみなさん足が軽いのである。
重さがないみたい。
なんでこう、軽いんだろうなあ。
ふと気がつくと注目している、という具合である。
歩いているときなんかは、ふつうである。
踊り始めると軽くなる。

たまに筋膜リリースを目的としたヨガに出ることがある。はい力を抜いて。重さを感じてくださーい。などとインストラクションが入る。
そうか、力が抜けると重くなる。ということは、軽いのは力が入ってるということか。
どこに力が入ってるんだろう。
ふたたび注目。
結論。
あんまり力入ってるように見えない。
軽さってむずかしい。

たまたまブログに今日から新しい曲、とあったので、半休を取って、はじめてのジャズのクラスにおじゃましてみた。
すてきな振付で、曲が動き出す。
できるようになるといいな。
会社員たるもの平日の昼に通うことはできないし、週末のはきっとレベルが高すぎるので、ちょっと遠い夜の初心者向けクラスに出られるか考え中。
夜まで時間があったので、自習練しすぎたのか、あちらこちら筋肉痛。

2018/08/28

ぶちぶち

基本、ネガである。
などというと、言葉が人間をつくる、とかおっしゃる先生方にしかられるけれども、この基本的な性根を入れ替えるのはきわめてむずかしいのだ。
加えて、負けず嫌いー他人と比べてというよりも、自分がこれと決めたことができないのが嫌いーなので、いったん決めてしまうと、ぶちぶち文句を言いながらやる。
文句言わずにやればいいのだけれども、ぶちぶちつぶやいてしまう。
すいません。
ここに書いてあることは、とくだん嘘もないつもりだけれど、きっと全部ほんとうでもない。(言葉は万能ではないし、まして表現力不足のため、全部が伝わりきるはずもないわけで。)
なので、特に誰かに向かっていってるわけでもないけれど、あんまり、人の言葉なんて気にしないで、どうぞ、そのすてきなわが道を行ってください。
人間、ちょっとむずかしいことに取り組むのが脳によろしい、と諸先生もおっしゃっている。とりあえずわたしは、もう、ちょっとできないぐらいで、へこんだりするフェーズはとうに過ぎてしまった。
できなければ、できるかぎり、できるまで続ける、ただそれだけ。


2018/08/26

日々新た

引っ越してケーブルテレビを契約したときにレンタルしたチューナーの録画保存容量が一杯になって、新規録画できなくなった。
営業のおじさんは、相当録画したっていっぱいになりませんよと言っていたが、1年で容量に達したわけだから、まあ、相当録画したんだろう。
やむなく不要なものを削除して、保存したいものだけ分類することにした。今後は未分類の録画だけ一括削除すればいい。
分類した中で一番件数が多いジャンルは、意外にも動物、である。
動物といっても、そのほとんどは猫である。
もっといえば、岩合さんの世界ネコ歩きである。
ネコ歩きは削除できない。気にいったものは何回でも見る。
最近は、ネコ歩きに混じって、ネコメンタリーというのがお気に入りである。
養老先生と、猫のまる。先生が含蓄深いことを語り、まるがのんきな顔して寝ている。実に絵になる。昨日から通算4回目だが、見飽きない。
とはいっても横でPCで別の動画を再生したりしている。
勝手におすすめしてくれる動画は、昔はやはり猫ばかりだったが、最近、外国のダンスレッスン風景が多くなってきた。
上級者のクラスとみえて、みんなお上手。そろっているなあ、と感心する。でもなんか、そろいすぎていておもしろくない。
レッスンでも生徒さん同士でお互い踊っているところを見たりすることがあるんだけれども、もちろん、みんなそろえようとしているのだが、初心者なせいか、微妙に不揃いで、それぞれ動きに個性があって、おもしろい。
他者になんらかの価値提供する(ショーで見せるとか、視聴回数を稼ぐとか)には、やっぱり、そろってないとだめなんだろうけど。
そういう市場価値から離れたところに、何か、感じるものがある。

ふとテレビから養老先生の声が聞こえる。
現代社会で生きてると、世界は同じになっていくんですよ。それがグローバリゼーションの根本でしょ。マレーシアの田舎でも品川駅でも、スタバのコーヒーの味は同じでしょ。
もういいかげんみんな疲れてきてるんじゃないですかね。猫見るとわかる。絶対同じじゃないんですよ。日々新た。

その前に、動物は絶対音感だから、たとえば先生が猫、と言うのと、誰か別の人が猫、と言うのとでは、音が違うから同じととらえられない。言葉、理屈ではなく感覚で生きるということは、全部違う、違いの世界に生きているということ。だから日々新た、という話がある。

生きることのものさしですよ。
必要なものを手に入れて、あとは寝ている。
お互い、生きてますなあ。
やかましい理屈を言わなくても、顔を見ていればそれでいい。
(養老先生「まるのこと」より一部)

エンドロールに先生の声がかぶる。
うらやましいでしょ、それでいいんですよ生きてくの。
どっちみち、たいしてかわんねえんだから。

さて、わたしにも新たな一日が始まった。

2018/08/20

記憶

他人のはともかく、自分の記憶というものをあまり信用していない。
わたしの記憶の編集力はなにしろすごいからだ。
と確信するに至っているのは、最近ダンスの振付を再現するために記憶を掘り起こす機会が多いから。
通っているジムのレッスン風景の録音録画は厳禁である。
まあそれはプライバシーや著作権の問題があろうから、いたしかたない。
そこで必然的に、習ったことを思い出す作業が必要になってくる。
新たに習ったところは長くて1分、もっと短いことだって多いのに、思い出そうとした時にはすでに白紙、という頃もあったから、これでも進歩はした。が、それでも部分的にぽっかりと穴のあいた箇所がある。右か左か、前か後か迷ったりする。たまに手足を動かしたりして記憶よ戻ってこーい、と繰り返し音を聴く。
そのうちひらめいて、これで間違いない、と確信して翌週レッスンに出てみると、見事にカウントがずれていたりする。ある意味手前勝手に創作している。間違っているなとわかっている場合でも、やっぱり穴があいたままでは気持ちが悪いから、とりあえず思い出したものを頭の中に残しておく。
記憶が正しいときもある。たまに。
そんなときは、たいてい、声と一緒に静止画または動画が脳内で再生される。
目線はずして。さす。たん、た、た。脈絡もなく突然、声と言葉が降ってくる。
身体を動かして練習するスペースも時間も限られているから、頭の中で踊る時間のほうが多い。
そうして記憶を編集、または再構成する作業も、実際に踊るのと同じくらい好きだったりする。もうすこし再現性が高くなるとなおよいんだけれども。




2018/08/18

おとうふスイーツ

京都人の云々というドラマを見て大原千鶴さんのファンになった。
退院後、自炊モードに入って、まずしたことは、大原さんのお料理本を2冊買うことで、もっぱら目で楽しんでいるだが、たまにレシピに従って作ったりする。
前から気になっていたのが、精進料理の本に出てくるデザートの豆腐白玉。
豆腐で白玉団子が作れるなんて、なんてヘルシー。
そのうち作ろう、と思っていたのだが、白玉粉とあんこを買うのをいつも忘れた。
たまたま何かを検索していて、今日の夕食レシピか何かといっしょに出てきたのが、デザートに豆腐餅という記事。
絹ごし豆腐200gに片栗粉大さじ5杯+砂糖を混ぜて、レンジで2分チンしてまた練り、団子状にちぎって、きな粉をかけておしまい。超単純作業。
ファンなら大原さんのレシピどおり白玉粉とあんこで作ったら、という心の声をよそに作ってみた(けっこういいかげんなファンだ)。
これがもと豆腐だったとは思えない。もう少し砂糖を入れておけばきっと立派なスイーツと思えただろうという出来栄え。
朝食代わりにいただいた。そのうちまた作ろう。



2018/08/17

ごぶさたしていて

とても久しぶりに茂木先生のお話を聴きにに行く。
前職で6時半の開始に間に合うように帰れなくなって足が遠のいていた間に、新宿の住友ビルは工事でいつもの通路が通れなくなっていたり、朝カルのフロアが模様替えされていたりと様変わりしているが、先生はお変わりないように見える。
あれだけメディアでの露出が増えているのに、それほどの混雑でもないのはふしぎだ。
英語の論文を読むと謳って参加者のハードルを上げているからだろうか。ほんとはたいして読まないのだけど(笑)
今日は、どんな人に、どんな時に知性を感じるかというお題。
きっと先生のお話はどこかで読めるだろうから、聞きながら思ったこと。
高い専門性を持っていながら、そこへの階段をのぼっていこうとする非専門家とつながる手段を持っているひとにintelligenceを感じる。
専門性というのは、必ずしも何かの領域ということでもなくて、先生がコメントされていたinner logicとかdepth、または美しさ、 みたいなことでもいい。手段とは、言葉である場合が多いけど、非言語的な、そのひとが持っている空気感というか、非専門家に寄り添う気持ちの問題もあったりするのかもしれない。
先生にはたくさんのヒーローがいて(今日のお話しではマーラー、ゲーテとかジョブズとか)その人たちのことを熱く語ってくださるわけだけれど、わたしたちは、先生というフィルターを通じてそういった遠い知性を近くに感じることができる。
講義開始までの待ち時間にひさしぶりに論文を読んで、講義の間に字幕なしではさっぱり分からないBritish comedyを見て、ああ、そうだった、こんな文章をすらすら読めるようになりたくて、BBCで笑えるようになりたくて、英語を使う機会が多い業界に入ったんだったっけ。最近あまり仕事で使わないせいで、すっかりなまけていたけれど、別に仕事のために英語をやろうと思ったわけじゃなかったのを思い出した。

2018/08/14

花火

遠くに花火のあがる音が聞こえる。
今年見たのは、少し前の土曜の夜、ジム帰りに川沿いを歩いているときで、あ、と見上げた途端、3発で終わってしまった。
もうすこし見たかったな。
うつくしきもの。
いつまでも網膜にとどめておきたいけれど、それは叶わない。
いや、そのとき、その場にいられたことが僥倖。
最近そう思うことが多くなった。

2018/08/12

お茶漬け

6月に入院して病院食に教育された。びっくりしたのはごはんの量。ほとんどふつうの人と変わらない。
頭では別に点数表どおりに食べてもいいと分かっていたけれど、それでもやっぱり炭水化物は減らしたほうがいいと思っていた。
糖質制限ダイエットというけれども、炭水化物を減らした分おかずの皿数を増やしてしまうと、逆に体重が増える(自分の場合)。
入院してまず1.5kgほど減った。これは塩分制限食で水分が落ちたせいだそうだが、案の定退院後すぐに戻った。そこからまた4kgほど減った。
先週、入院後はじめて主治医の先生とお話ししにいって(いや、正確には診察を受けにいって)ごはんを増やしたら痩せましたと言ったら、それブログに書いといてください、ぼくたち糖質制限はおすすめしてないんですよとおっしゃったので、言われたとおりに書いておく。ちなみに自分の場合、効能としてではないが結果的にやせる薬が投入されているのも体重減少の原因の一つ。
入院時の処方は先生ではなくて、入院患者担当の先生たちのお見立てである。
その薬をみて、あぐれっしぶだなあ、と先生。選択された形容詞が患者としては微妙におもしろい。
まだ若いからねえ、とおっしゃる。
え、若いですか、先生もいっしょぐらいですよね。
49です。
たいして変わりませんね。。先生もお若いですね(笑)
病人にしては若いってこと。
基本的に人見知りな自分が、ほのぼのした会話ができるいい先生である。
話がそれたがそういったわけで、最近おかずを減らしてごはんを食べることにしている。
炭水化物だいすき。
とはいえ、ごはんを炊く気力もないので、自宅の時は、もっぱらおにぎり使用のお茶漬け。
深めのスープ皿に松茸風味のお吸い物のもととこぶ茶を少量のお湯で溶いた後、中央におにぎりを配置。上から水150㏄程度を加え、梅ぼしと、お好みでなめたけ、チューブ入りしそ、しょうが等々を少量投入。おにぎりにビニールで包んだ乾燥のりが巻いてある場合は、はがして、ちぎって上から散らす。
あればキュウリの千切り、ゆでたオクラの薄切り(酢、いりごま少量加えたり)、崩した絹ごし豆腐等をまぜたりする。
コンビニの塩サバ薄切りやスーパーのお値下げ品刺身等を加えると、りっぱなごちそう。
ただの生命維持、栄養補給としてでなく、毎日の食事を楽しみにできるようになって、すこししあわせになった。

そうそう、最近熱中症予防で、ただの麦茶ではダメでポカリとかって言われますけど、われわれ患者はスポーツ飲料厳禁ですがどうなんですか、レッスン4本ぐらい出る週末とか、、とお尋ねしてみたところ、冷房きいてる部屋でその程度なら水でじゅうぶんとのクールなお返事でした。スポーツ飲料も好きなんだけど、ざんねん。

2018/08/11

バランス

奇跡のレッスンシリーズの録画を2本見る。
1本目は小学生の弦楽部、2本目は少し昔の録画で、もう何回か見ている中学生のストリートダンス。
いずれも感情表現の話。
子供たちが感情を音楽で、またはダンスで表現できるようになると、1週間という短期間でパフォーマンスが素人目にも変わったのが分かる。
詳細は省くけれども、ここで、プロのパフォーマーを目指しているわけでもないふつうの会社員の自分にとってのポイントは、「伝わる」表現のためには練習が必要ということだ。なにごとも。その手の本はくさるほどあるからもう続けないけれども、いまさら、改めての気づきなので備忘のために。

しかし感情だけで自分の世界に入りすぎても美しくない。子供たちは美しかったけど、若さの特権だろうか。客観性とのバランスがないと、きっと受け入れられない。
日曜はなにかといそがしいので、土曜はせめて午前中はぼんやりしている。脳のアイドリング。
選択、決断とフォーカスという。欲張りすぎてもいけないが、いまはどれも外せない。いずれ選ばなければならない時がくるまでは、アンテナの向く方角に進む。



2018/08/04

ストーリーを語りたい

金曜日になると疲れはててしまって、おとなしく帰って早めにねてしまう。
いつも昼までごろごろしてるわけだけれども、今朝は早く起きた。
ピアノリサイタルの録画をみていたら、たまたまプロコフィエフが始まったので、手を止めて見る。というか、聴く。
プロコフィエフというと、子供の頃に父に与えられたカセットにサンサーンスの「動物の謝肉祭」とペアで入っていた「ピーターと狼」のイメージが強すぎて、長いことノーマークだった。たぶんピーターのテーマがいま一つピンとこなかったのだろう。
当時はたぶんその近くに置いてあったラフマニノフの交響曲2番とホルストの惑星ばかり聞いていた。今の自分にはラフマニノフはかえってちょっと重い。ホルストは、どうだろう。よくわからない。
今かかっているのはプロコフィエフのピアノ協奏曲3番の3楽章、ピアノ連弾版。少し前に見たピアノコンクールのドキュメンタリーで、同じ曲を弾いた人が優勝していたが、あれはオーケストラだった。どちらもいい。
サンサーンスも同様で、動物の謝肉祭はやっぱりピンとこなかったわけだけど、交響曲3番のオルガン付きを聞いて、あ、長いこと誤解しててすいません、というような気持ちになった。
子供だからといって子供向けのものを与えれば喜ぶだろうという発想はやめたほうがいいよお父さん。まあ今さら言っても仕方ないけど。
あ、それで、そのプロコフィエフを弾いているピアニストがインタビューに答えて話していた。
自分は演奏そのものに興味はない。(演奏を通じて)その曲にこめられたストーリーを聴衆に語りたい。
それほどピアノに詳しいわけではないので初めて見るピアニストで、けっこうなお年の方だった。
確かに、ピアノに限らず、パフォーマンスそのものよりも、そこから立ちあがってくるストーリー、または思索の形跡とか志向性みたいなものに、より惹かれる傾向にある。
ある意味、パフォーマンスはそこに表現されたものがすべてであって言い訳はいらないわけだけれど、でもやはり、それはそうでなければならない理由がある、そういう類の作品が、アーティストが好きだ。

2018/08/01

いきなり

去年の8月まで勤めていた会社と、11月から働き始めて現在に至る会社が徒歩5分のところにある(もうすぐ引越しだけど)。
そういったわけで前の会社の同僚さんとときどきランチに行く。
先々週から先週にかけて、酷暑と評された日が続いたときは、連日午後3時を過ぎると体力が限界にきてしまって、コーヒー飲んでも目薬さしても、体操してもガムかんでも、頭はもうろう、目はしょぼしょぼで、日本の会社もそろそろ昼休みを長くとってシエスタできるようにしたらいいんじゃ、と本気で考えていた。
そんな中、もと同僚さんがランチに誘ってくれたので、お手頃価格のステーキ200gをいただいてきたわけだけれども、予想外にもステーキの効果ばつぐんで、その日以来、終業までしゃっきり過ごせるようになった。
そうか、肉が足りなかったんだわたし。
というわけで、週1のステーキを課すことに(食べ過ぎ?)。
今日は一人で、立ち食い(だからお手頃なのだ)。
早めに行ったのが正解で、お店を出る頃には炎天下に長蛇の列が。
みんな肉が足りないのね。

2018/07/31

たぶんにやにやしている

ダンスを始めたのはたぶん2年半前ぐらいだと思う。
ジムに通い始めた当初はマシンで走っていただけだったけれど、根気がなくて15分もすると飽きてしまうから、スタジオに入ったら45分は強制的に動き続けられる「レッスン」なるものに出てみようと思った。
たまたまその時に目にしたのがマーシャルで、インストラクターさんや生徒さんたちのすてきな姿に刺激されて、その後4年ぐらいはマーシャル一筋だった。移り気なものの凝り性でもあるので、形の良いキックやパンチを打てるように筋トレや柔軟性を養うためのレッスンにも出た。マーシャルは背中も使うので、おかげで猫背もかなり解消された。
そろそろ何かほかのレッスンに出たいなあとレッスンの待ち時間に物色していたときに、たまたまダンスのレッスンに入ってみる気になった。
ダンスなんてしたことがあるはずもなく、見るのも特に好んでいたわけでもない。
コンテンポラリーのバレエぐらいは見たことがあったけれど、誰のだったか記憶になかったぐらいだ(最近になって、ぺジャール振付のボレロだったことをグーグル様が教えてくれた)。
たまたま入ったそのレッスンは、3ヵ月続く振付けの3ヵ月目だったので、結果見るも無残なことになったのだけれど、ふしぎと、もう一度、と思った。
振付を覚えるのが難しくて、最初はメモ帳に人型を書いて動きを記帳していたが、往々にして記憶が途中で脱落していたり間違っていたりする。そのうちDVDが出ているのを知って、お手軽な手段に乗り換えた。そのうち、DVDがなくても覚えられるようになった。
週に1回やっていただけではさっぱり上達しないので、いろんな先生のレッスンに出ることにした。ジムの利点は、いろんな先生のレッスンに出られるところだ。先生によって振付にも傾向があるので、基礎は同じだがいろいろな動きを覚えられる。そして今に至る。

あと何年踊れるだろう、とときどき思う。
10年はないな。せいぜい5年かしら。
練習したら少しはましになると思えなくなったら、きっと太極拳とかに移行するだろうな(それも太極拳に失礼か...)。
だから今はできる限り、踊っておこうと思う。

朝ドラで、秋風塾の同期3人組が良いことを言っている(録画を見ている)。
「人生で、あのときああしておけばよかったって後悔することがあるっていうでしょ。
でもわたしもすずめもそういうのないんだよね。ちゃんと挑戦して、漫画の神様におまえじゃだめだって言われた。プライドずたずた、傷つく、へこむ。でもそれが生きるってことじゃない。
傷つくのこわいけど、お前じゃだめだっていわれるのこわいけど、ほしいものに手をのばすってことが生きるってことじゃない。だめだって分かるのに9年かかっちゃった。でもそれでよかったんだよね。何もしないよりぜんぜんよかった。それがあって今がある。生きれば生きるほどタフになる。(大意)」

レッスンで、先生が踊ってくれることがある。
仏頂面に定評があるわたしだけれど、先生たちが本気で踊っているのを見ていると、次第に口角がゆるんでくるのが自分でもわかる。
たとえば、シルヴィ・ギエムの動画を見ていたとして、そりゃあすばらしいと思うんだけど、画面を見ながらにやにやしたりしない。
なぜかわからないけれども、目の前で、生身の先生が踊ってるのを見ると、笑顔になる。なんでだろうね。
ひとつには、たぶん、それまで教師の顔だった人が踊り手の顔に変わったことに心が動くんだろうな。振付覚えるのはわたしにはけっこうたいへんなんだけど、先生の美しい動線からその本気度の波動みたいなものが伝わってくると、それまでの苦労がひととき報われる。
先生たち、いつもすてきな振付作ってくれてありがとう。
なかなか上達しない生徒を見守ってくれてありがとう。
そんなことを思いつつ、今は踊っている。

2018/01/05

父さんは傷ついている

今朝から左側の片頭痛がひどい。
みなさん本日年初の初出勤とみえて、会社携帯がメールの着信で時折びりびり鳴りだした途端これだから困ったものである。
わたしは入社以来初の有休。
ダンスのレッスンに行けば治るかも、と耳を押さえながら地下鉄に乗る。
ウォームアップあたりまではキリで突くような痛みが3分に1回ぐらいきていたのだが、振付に入るとぴたりと止まる。
(と後から振り返って気づくのだけれども)
帰りの地下鉄のホームあたりから、またずきんずきん復活。
心底集中できてるときは痛まないのか、血流の問題とかなのか、よく分からない。
とか思いつつ、席に座ってカズオ・イシグロの「忘れられた巨人」を取り出して開く。
実は購入後、読みかけて3回ぐらい挫折しているのだが、テレビの「白熱教室」を見ていてやっぱりこの作家さん好きだなあ、と思って再度の挑戦となった。
記憶を扱っている作品だということもある。
人間というのは自分の都合のよいように記憶を編集する生きものである。
思い込んでいる記憶が事実と異なることもある。
あの頃は幸せだったと記憶していても、よくよく事実を精査すれば実はそうでもなかったんじゃない、ってこともあるし、その逆だってあるだろう。
まだ読んでないけど、そういうことと関係ある話らしい。
と、向かいのおじさんがとつぜん、
「いしぐろかずお」
と真正面から私の顔を見つめて言う。
とっさに言葉もでず、固まった顔で無言でこくこくうなずく。
向こうも何か満足げにこくこくうなずく。
ひと駅で乗り換え。
しかし、ファンならカズオイシグロと言ってくれよ。
なんだか不意を突かれて読み続ける気にならない。

大草原モードに戻る。
しかしチャールズ父さんはよく怪我をするひとだなあ、と思う。
木から落ちて右腕骨折もあったし、間違いとはいえローラがライフル倒したせいで、結果的に銃で撃たれちゃったし、水車小屋の重さ400キロぐらいの石が転がってきて引かれかけたりと最近思い出すだけでもかなり負傷している。
どうでもいいことというのは意外と気になるので、帰宅後PCで検索してみると同じこと考えてる人っているもので。
何回とは書いてないようだし、今更シーズン1から見直して数える気にもなれないけれど、それって負傷するとMichel Landonがいいカラダ見せられるからなんじゃないの、とか言ってる人もいるみたい。
まあ確かにね。
傷ついた父さんはすてきです。
傷ついてなくてもすてきだけどね。
こういうどうでもいいこと考えていたって頭痛はとまらない。
薬も効かないし。
休み中太っちゃったし、またジムでも行くかなあ。

2018/01/01

Remember me

CATVで大草原の小さな家一挙放送が流れているので、録画して毎日見ている年末年始です。
日本の古い時代劇などは、いかに名作と呼び声高くてもなかなか敷居が高くて見る気も起きないのだけれども、こちらは同じく開拓時代の古い話、古いスタイルの映像なのに、すんなり、しみじみと沁みてくるのはどういうわけだろう。
子供の頃に観たものにはそういう効能があるのかもしれない。
シーズン2の「Remember me」に印象深い言葉があったので、備忘のために。

”Remember me with smiles and laughter, for that is how I will remember you all. If you can only remember me with tears, then don't remember me at all. ”

- by Laura Ingalls Wilder