2009/12/31

Jog at the close of the year

For last two months, jogged total 22times, 151km (last 4months total: 318.5km).
Though a lessening in the frequency of run was noted as in winter season, well done, for me. Will run a half marathone next year. But never push myself overwork.

2009/12/29

The Known Universe

Amazing work. Got a good start of holiday break to imagine something much distant from our daily lives.

The Known Universe by AMNH

good morning

Up early. Such a gooood morning as not have to go to work for a week! Sense of something new to be happening.

2009/12/28

本を売る

年末の大掃除のついでに、本を売るひとは多いらしくて、徒歩5分ほどのところにあるブックオフは混んでいた。
たしか一昨年は店の台車を借りてきて、ダンボールに詰めて運んだ。ところがこのお店の台車には持ち手がついてなくて(つまり台に車がついているだけで、前進させるには荷物それ自体を押すという)、徒歩5分とはいえ、信号を渡ったり、車道から歩道に乗るときの段差なんかが、えらくたいへんだった。懲りて、去年は旅行用のスーツケース2つ(海外用と近場用)に詰めて2往復したけれど、本というのは着替えなぞと違って、一杯に詰めると重いのなんの、これまた一苦労だった。今年は少し学習して、夏あたりに1回本を売った。そのせいで、今回はだいぶラク。でも、それを差し引いても、本を買う総数が前より少なくなっているのかも。それはいやだな。2000円ほどの小遣いを得て、キムチ鍋の材料を買って帰る。

2009/12/26

skylark

Just watched Clint Eastwood's movie "Midnight in the garden of good and evil" drawn to the song 'skylark' in the begining, now available on 'Gyao' web site.

Today is the first time for me to know K D Lang's voice through the song.
Beautiful voice. And beautiful lyrics, though written by the other person as she covered this song, such as:-

skylark, have you anything to say to me?
won't you tell me where my love to be? ...
skylark, have you seen a valley green with spring, where my heart can go a journey
and in your lonely flight, haven't you heard the music in the night, wonderful music..
skylark, i don't know if you can find these things, but my heart is riding on your wings,
so if you see them anywhere, won't you lead me there?

Skylark (begining of 'Midnight in the garden of good and evil')

Hallelujah

2009/12/25

かんちがい

クリスマスの朝、寝過ごすシアワセ、またはフシアワセ。気がつくと8時半を回っている。
ときどき、ひどく起きられないのは、わたしのせいではなくて(いえ、はい、わたしのせいですが)、より正確には低血圧のせいである。この前の健診では最高血圧が80だった。立ちくらみもする。
ふらふらと家を出て、がら空きのバスに乗り、JR駅構内のパン屋さんで、朝昼兼食のチーズもち豚ハムたまごホットサンドをパクつき、コーヒーをすする。

御茶の水駅から歩き始めて、かんちがいに気づく。どうりで、きのうどれだけネットで写真を探しても、なかったはずだ。昨日の「ツリー」は順天堂ではなく、お隣りの医科歯科大だった。おまけに「カーテン」じゃなくて、ブラインドらしい。(まあ、いわれてみれば、そうだよね)。考えてみると、順天堂は10階ぐらいしかないから、「ツリー」するには、ビルの背丈が足りないのだけれど、通院しているせいで、「ひいき」目があるのか、見知った先生や看護師さんたちの姿を重ねながら、あの光景を見ていた。あらら。まあ、もともと思い込みの強さには自信がある。

そうだ。こういうときこそ、あのマルケスの言葉を引いてくるべし。人生とは、何を記憶し、どう語るかであると。きのうの一時の妄想なり想像は、もしかしたら現実とはまったく違うものなのかもしれない。でも、あのとき感じた何かは、まぎれもなく、自分の人生の一部だったのだから。

会社につくと、もう11時。PCのスイッチを入れる。パスワードは暗記したい英単語を1語含めた文字数字にすることにしていて、今回は、いささかの願望をこめて、「静寂」である。
静かなクリスマスの朝、ないし、昼ちかく。
おそるおそるメールボックスを開くと、メリークリスマス、とはじまるメールが届いていた。

こころやさしきひとたちの季節。みなに幸あれかし。

2009/12/24

ツリー

オフィスの鍵を持っていないので戸締りができないから、「最後の一人」になってはいけないのだが、自分が止めると複数の締切を破りまくる可能性のある仕事が、朝、メールボックスに溜まっている。夕方6時に帰るために、めったに出ない集中力を発揮せざるを得ず、他人から声をかけられても気がつかない有りさま。そんな中、外人からは、イラストを貼ったお気楽グリーティングメールが届く。あなた、作るの好きなのね、という人は、凝りようで分かる。でも確か去年、ITから禁止令が出たはずだけど。そんなの、誰も覚えちゃいない。眺めながら、謹賀だの御慶びだのとは何か明らかに違う空気をはらんだ、Wish とかMerry とか、happy といった言葉の軽さが好きだな、と思う。

努力の甲斐あって6時に会社を出る。気持ちが急いていたせいか、真冬用のコートが少し暑いぐらいに早足になっている。駅が近くなったあたりで、今来た方角に携帯を向けている人に気づく。振り返ると、順天堂病院の高いビルに、何か三角の模様が浮かび上がっていた。よく見ると、カーテンを閉めた部屋と開け放しの部屋とのコントラストで、上手にツリーがかたどってある。デパートか何かで似たようなイルミネーションを見たことがあるけれど、そこが病院であるせいか、何か違うものを感じる。管理スタッフとか看護婦さん、もしかしたら入院中の患者さんが「この部屋はカーテン開けといて」「ここは閉めて」とか、するんだろうか。あたりまえだけれど、院内にいる人には、あのツリーは見えないわけで。道行く人のために、あの中にいるひとたちの、きっとひとりではない、たくさんの手が、カーテンを開けたり、閉めたりしてくれたんだ。通りすがりの、わたしみたいな人間を、ひととき、ふと振り返って微笑ませるために。そう思ったら、なんだか、とても、ほっこりした気持ちになった。

2009/12/23

もろもろ整理

整理の基本は捨てることにある。増やしたいなら、せめて同程度容量を先に削除して、空きスペースを作らないと、新しいモノは入らない、いや、整理したいなら、捨てる前に入れてはいけない、とは常識あるものの本によく言われることで、いちおう実践しようとしている。すべてにおいて、あまり執着がないので、きっかけさえつかめれば、さほど労せず捨てられる。

今を含め、主に過去3社のブログをはしごして使った経緯があり、昔のブログを退会して抹消しようかどうか、と思いつつ、久しぶりにログインして2006年のエントリーを読むともなしに読む。驚くべきことに、内容がやたら可愛らしい。まず文体からして、ですます調だし、当然ながらハンドルネーム使用だった。今みたいに挑発的なことも書いてないし(比較的)、基本的に夢見るオトメだった(すでにだいぶトウはたっていたが)。文章だって、こんなふうに、だらだら打ちっぱなしということもなく、ちゃんと改行もしている。ブログのデザインテンプレートだって、それなりに選んでいたし(おまけにピンク地の模様)。今と同人格の人間がものしたとは思えない。はじめてのブログで、多少猫をかぶっていたところはあるにしろ、やはり時の流れと自分の変化は自分自身では把握しきれないものらしい。
これから10年後に(もし生きていたとして)見たら、何か発見があるかもしれないので、退会せずに取っておくことにした。

ついでに発見したのがブクログの「本棚」。こちらも3年弱放置していたに違いない。その証拠にセルフヘルプ系と経済入門系の、現時点では「趣味じゃない」本が山ほど登録してあって、いや、こんな本読んでたんだよなーと精神的変遷にひとしきり驚く。和書は今の志向に近いものだけ残してざっくり削除し、洋書を少しだけ登録した。今後は1冊読み(聞き)終わったら、記念に登録するとしよう。
早くも今月も23日になって、月1のaudibleのcreditが更新された。ファインマンはなかなか面白かったけれど、卒業して、これからの1ヶ月はJulian Barnes「Nothing to be frightened of 」、自伝的といわれている小説(たしか数ヶ月前の時点で最新作だったはず)。以前邦訳を読んだ「イングランド・イングランド」が面白かったからと数ヶ月前にペーパーバックを買ってみたときには、Barnesの文章はレベル的に難しいことが判明して、以来積ん読の刑に処されていたのだけれど、今回買っちゃった決め手は、朗読が著者だったこと。これは、うれしいでしょう、やっぱり。で、けっこういい声なんだな。意味の分からない単語を読み続けるのは苦痛だけれど、朗読なら難しいところは聞き流せばいいし、まして好みの声なら意味不明でも癒されるしね(笑)。

そうそう、このまえ某ネット書店のメール広告についてコメントのだけれど、あの翌日からメール広告におけるジャンル偏向性は解消された。ちゃんとマーケティングしているらしい。えらいえらい。

手帳使用頻度の少ない人間なので、いつものように、ウィークリーながら殆ど記入欄のない小さくて薄い手帳を10月頃に買ってしまっていたのだけれど、突如、無性にメモ欄の多い手帳が使いたくなって、はじめて「ほぼ日」を買ってみる。専用両面シールのリフィルまである。ほう、と思って、いろいろ、ぺたぺた、貼ってみたりする。割にいい感じ。

ガルシア・マルケスの自伝本を立読みしていて、オビの「何を生きたか、ではない。何を記憶し、どのように語るか、それこそが人生だ」という言葉が、妙に尾をひいた。さしたる記憶と語る術を持たない人間としては、どうも、すいません、というほかない。マルケスならでは、そう言い切った後に、余韻があるよなと、本を閉じる。
マルケスは(も、というべきか)読了したことがない。いずれ、読めたらよいけれども。分厚い本だった。

2009/12/20

仰臥漫録

やはり、さむすぎる。最寄JR駅のモールに行き、ついついユニクロに吸い寄せられて耐寒用品をいろいろ買ってしまう。早速、洗濯できる軽いキルティングのパーカと、フリースのぼうし、それにヒートテックのTシャツを試してみる。短パンの下にレギンズとレッグウォーマーで、そのままジョギングに出られるように完全武装でいる。部屋では今年まだ暖房を使っていない。
「数学的にありえない」は、2-3年前に「このミス」上位に選ばれたミステリー。作者は統計を専攻した人物らしい。賭けごとのシーンに絡んで、ちょいちょいと出てくる分には、数学オンチのわたしにも、ばくぜんと理解できる確率論の話が、「高校時代に数学ちゃんと学習しておけばよかったな」とたまに後悔したりする身としては、ありがたい。上巻を読み終えたところ。ドラマ「坂の上の雲」を途中まで見る。小説のほうは、今まで何度となく挑戦しては挫折している。なぜか分からないけど。番組監修もしている関川夏央の解説書のほうは途中まで読んだ。それによると、子規はあの作品上、時代の空気を担わせる重要な人物であったらしい。正岡子規を香川照之が演じていて、おかげで俳句は分からないなりに、子規が少し好きになった。これからは「仰臥漫録」の写生と諧謔を手本にしよう。(いや、無理か、笑)

2009/12/19

ぼうし

予約日ではなかったが、もろもろ足りなくなったので病院に行く。受付をしたあと、丸善で待ち時間に読み終わりそうな軽いのをと探していたが、「数学的にありえない」になった。来るべき真冬のジョギングに気合を入れるため、Victoriaで厚手のウインドブレーカーと長袖シャツ、それからタイツというかスパッツというかを購入。耳の隠れるぼうしも探しているけれど、いまひとついいのが見つからなかった。診察を終え、もろもろをリサイクルバック一杯持ち帰る。これが8週間後、ペットボトル2本ほどの医療廃棄物となる。夕陽を眺めつつ新ウエアでジョギング。ごはんも美味しい。「数学的に」の続きを読み中。

2009/12/18

勇気

朝カル。Xmas special用の作品を鑑賞。予想外の収穫は、先生の雄姿を拝して、いや自分も走らないと、と思ったこと。帰宅後、そろそろ捨てようかと思っていた古いセーターを押入れから引っ張り出してきて、ウインドブレーカの下に着こんで家を出る。
そうだった。一歩、踏みだしてしまえば、走り出せる。
ちなみに、やっぱりセーターでは厚着すぎた。汗だく。

今日は色々と今後の学習教材になりそうな情報源を教えていただいた。べんきょしよ。と思いつつ、しばらく「のだめ」を眺めている。

2009/12/17

こんな夜に

こんな夜にひとり家を出て、暗い夜道を走れるひとは、相当エライんじゃないだろうか。
このところ平日の夜に走れなくなってしまった。
なにしろ寒いし、なんだか、つかれる。

どうでもいいけど、社内メールの慣用なのか、皆が冒頭「お疲れ様です」と文章を始めるので、一人で用件からはじめるのもなんだしと「おつかれさまです」と一応書いている。「疲れ」という字を見ただけで疲れるので、あえて、ひらがなで書く。チャットを終えるときに「失礼します」といって切るが、この漢字/感じが気に食わない。発音する場合には全く問題ないが、なまじ字面を見ると、別に礼を失してるつもりはありません、などと、内なる反発がある。そういう反応をしてしまう自分が煩わしい。だから最近は「しつれいします」と、これも、ひらがなにしてしまった。「ご苦労様」、というこの漢字も、今日初めて経験したが、字面を見ただけで、相手の意図に反して、ひとしお気持ちが重くなる。ひらがななら、少しはマシかもしれない。漢字も意外に罪つくりである。

2009/12/14

胃カメラ

今の派遣会社に登録してから、一度も健康診断を受けていなかったことを思い出して、成人病検診を受けることにした。早起きして検診センターに行く。朝食を食べられなかったせいか、血圧が異常に低い。これじゃあ朝ジョギングできないのも無理ないと思う。乳がん子宮がん検査も初めて受けたけれど、加えて、胃カメラ。以前に短期派遣で健保に検診プランを売る会社に行ったときは、マニュアル通りにテキトーな営業をしていたけれど、いや、たしかにマンモグラフィーは痛かったし、胃カメラも苦しかった。なにより、胃カメラは後味がよろしくない。トローチを舐めても、一日中喉が痛い。
でも胃カメラの、医師の手技と自分の内臓の中を見られたのは収穫だった。カメラを器用に体内に挿入していく手つきを見ながら、前の前の会社にあった贅沢な手技練習室を思い出した。熟練の社員さんが、治験や臨床で自社ステント使ってもらう医師を呼んでデモンストレーションをする、ホテルみたいに綺麗な部屋で、スタッフも勉強に、と実演を見せてもらった。小さな小さなステントを患部に正確に置く。術者の手つきは、モノが小さいだけにもっと繊細ではあったけれど、たしかあんなふうに、ぐるりぐるりと、螺旋を描くように、模造の血管内を進んでいったっけ。
検査結果は後日、だそうだけれども、わが内臓は、とても綺麗な色をしていた。

2009/12/13

Calling

年内に内田先生のライブなお話をもう1度聞けたら良いけれどもなあ、と微かな期待を胸に紀伊国屋ホールに行ったら、嬉しいことに当日券が手に入った。
相変わらず、軽やかにお話が展開するが、やはり贈与経済のお話が強く残った。
その商品を持っていることが自分が何者であるかを示す価値、というのが象徴価値であり、you are what you buy 的思考が無限の消費行動を誘発する。なぜ無限かというと、自分が何者であるかを有限な所持品で示すのは不可能だから、なんだけれども、何故かそれに気づかないまま、人々はマーケットに踊らされ、無限の購買活動をさせられる。
いいかげん、その不毛なループから脱却して、必要な人に必要なものが与えられる、贈与経済へ。それは、革命的な、最も収奪されている人が救われる劇的、革命的な変化でなくてもよい。ある意味、その人の周りの人しか救えないという残酷さ、矛盾はかかえていたとしても、自分の支えなければならない人の顔が浮かぶ人が、その人に適切に贈与することから、まず始めるしかないのではないか。
贈与経済の困難は、実は、身の丈を越えたお金が手に入ったときに、適切な相手に適切に循環する形でお金を贈与することができる人的ネットワークを構築しておくことが難しいからであって、お金がないときからそういうネットワークを作っておかないとダメなのよ、というお話で、熱く収束する。

いろいろ考えた。20代をそういう農村的贈与経済ネットワークみたいな中で過ごして、あまりの閉塞感に耐えられなくて全部ぶっちぎって東京に帰ってきた人間としては、耳の痛いお話でもあるので、そこはあまり、つっこんで考えられない。

お話の途中、象徴主義の購買行動というお話を聴きながら、購買行動を「仕事」に置き換えて考えていた。キャリアを自分とは何者かを示すもの、と考えた場合、やるべきことは無限になる。身の丈に合わない要求に応じなければならない事態が生じる場合もある。誤りを率直に認められない場合、往々にして本人がそれを自己否定と勘違いするせいでもある。率直でありたい。仕事を通じて自分の「ものさし」を鍛えるようでありたい。しかし現実は。時々、そういう困難なり限界を感じることがあるような、気もしていた。そこに最後の質疑応答でのCalling という言葉が重なった。仕事とは、そんなあなたに来てほしいと、相手から呼ばれるもの。だからCalling。

だとすれば。
わたしはわたしのままで、かくあるしかないのではないだろうか。
今の場所にこだわって、身の丈以上のことをする必要もない。別の場所で、別の貢献の仕方を考えたってよい。それは必ずしも、ひと思いに転職、ということではなく、現状維持しつつ、別の枝を伸ばすことである。
それは諦めや怠惰に流れるというよりはむしろ、軽やかな楽観主義ともいうべきで、一条の光をその先に見るような気がしている。やっぱり、先生のお話を聞けて、よかった。

反比例

ジョギングをするようになって、天気と気温に敏感になった。折り畳み傘を持ち歩いているので、今まで予報は殆ど見なかったのだが、目標としているところの、週に3回走るには、土日両日可能として、あと1日、平日何曜日に走ればよいかの予定を立てるのに必要である。
気温は、もともと、特に数字が記憶に残らない、いわゆるザル頭なのだけれども、気温がかくん、かくんと階段を下りるように下がっていくのは、走りに出るときの躊躇度が次第に増加するのと反比例関係にあるようにも思えて、天気のついでにチェックするようになった。
関川夏央「坂の上の雲と日本人」ジョージ・ソロス「グローバル資本主義の危機」それから、The brain club archiveにfull text リンクがある論文を読みかける。1日1個論文を読むのはなかなか大変だけれど、週に2つぐらいはがんばりたい。そういえばMDIC試験が来年の1月上旬にあったのを忘れていた。いったいこれが何の役に立つのか不明だけれど、はずみで受験料を払ってしまったので、そろそろ取り掛からないと。

2009/12/10

ジャンル

ずいぶん前に、Amazon.co.jpでレベッカ・ブラウンのペーパーバックを2冊買ったことがある。その頃はちょうど柴田元幸に入れ込んでいたせいで、たまたま彼女が来日するというので柴田氏が聞き手をつとめる朗読会に行って、まあ悪い人じゃなかろうと思ったのと、短編が多くて読みやすいかも、と、途中まで読んだ。彼女がレズビアンだと知ったのは、よく覚えてないけれど、確か後日だった気がする。
とにかく、あの本2冊を買って以来、Amazonから、Gay& Lesbian>Lesbian本の発売予定メールばかりが送られてくるようになった。
それ以外のジャンルの本も、沢山たくさん、買っているはずなのに、どうして。。。なにしろ、毎日のようにそのメールばかり来るので、いや、自分て本当に本当は、そっち系だったんだっけ、、と一抹の錯覚をおぼえさえする。いったい、どういう仕組みであの刊行予定メールのジャンル選択がなされているだろうか、素朴な疑問。

今日は昼休みに丸善に行って、もぎけん先生のアインシュタイン本と、松岡正剛氏新刊「日本流」を買った。
なんだか相変わらず仕事は忙しくて、スカッシュでもしているみたいに(やったことないけど)メールがぽんぽん来るのを、ぽんぽんと打ち返しているうちに一日が終わる。その昔、コールセンターで、ひっきりなしに電話を取っていた頃を思い出す。問い合わせの相手と内容こそ変わったけれど、問い合わせ対応をしていること自体に何ら変わりはない。確固たる自我がない分、必要としている誰かに、何かお役に立てれば、ちょっぴり嬉しい人間なのかもしれない。
さて、明日は講習会に出たあと、早退して明大でのもぎけん先生講義を聞きに行く予定。そのために仕事は今週前倒しでとっとと片付けてきましたし。仕事さえしていれば、たまに早退するぐらい、文句言われる筋合いじゃないのが、派遣のいいところ。時給制ばんざい。フリーエージェント制ばんざい。精神的脱藩ばんざい。

2009/12/08

眼鏡

起床して、顔を洗おうと眼鏡を洗面台の棚に置いたら、突如、ネジがぽん、と飛んで、柄が取れてしまった。ひとつ前に使っていたのを押入れから探し出そうとするのだが、なにぶん頭も朦朧としているし、目の前も靄がかっているから、さっぱり要領を得ない。時計を気にしながら、やっとのことで発見。プラスチックのフレームが茶とも紫とも見える色をしていて、当時は気に入っていたはずだが、乱視の度が弱くて、表面も傷ついてきたから、今のに変えた。それはわかっていたのだけれど、かけてみると、どうも視界が狭い。少し上目遣いをすると、おばあちゃんの鼻眼鏡状態になって、気がつくと顎をしゃくるようにして顔を上向けている。もともと鼻が低いのも禍いしている。コンタクトにすべしと、人生で何度言われたか分からないが、あんな小さなものを管理する根性がないのに加えて、来たるべき花粉症の季節をコンタクトのままで乗り越えられないので、いつもどこかで頓挫する。
鏡に映すと、なんだか、昨日とずいぶん違う顔をしているようにも見えて、違和感がある。
化粧の実験で、化粧した自分の顔を「他人の顔」と認識したのは、FMRIに入るときには被験者が素顔だったからだ、(よく知らないけれど、当初、FMRIには化粧して入れなかったらしい。MRIに支障ないような化粧を開発して、その化粧をして化粧した自分の顔を見せたら、自分の顔と認識したんだそうな)という話を聞いた。
では、昔の眼鏡を久しぶりにかけてみた自分の顔が、鏡に映すと他人の顔みたいに見えるのはどうしてか。化粧品売り場でメークしてもらうと(殆どしてもらったことないけど)出来上がりの顔が他人みたいに見えることがあるような気もするし。そういう話とは違うんだろうなあ。よく分からなくなってきた。こんどちゃんと読んでみないと。
ともあれ、新しい眼鏡を買おうかなあ。

2009/12/06

小さなヘレン・ケラー

今日はセイゴオさんの日だった。
朝、目覚めてテレビをつけたら、松岡正剛氏が根津美術館について語っていた。
それが松岡さんのコメントだったかどうかは忘れてしまったけれど、根津氏について、「私の中に公がある」と言ったのが、どことなく頭にこびりついていた。
それは例えば、白洲次郎や坂本龍馬などを連想するときの、人物の「器」というようなものにも、私の中では重なる言葉である。

そんなことを考えはじめたのは、ずいぶん他愛のないことだけれども、会社で社外にメールするときの「署名」がきっかけだった。
メールの文末には、会社名と自分の名前を連ねて書くのが普通だけれど、やりとりが頻回になってくると、会社名を省いて名前だけになることもある。いったん名前だけになってしまったやりとりに、あとから社名を付け加えはじめるのも、なんだか妙な感じもして、はばかられる。
個人事業主として仕事をしていれば、社の方針や都合と、自分のそれは合致している場合が多いから、そんなことは考えるべくもないのだろうけれど、一企業の社員として働いている場合、メールで伝える内容が、はたして自分個人の意見やポリシーなりと一致しているのか、意に反するけれども会社の見解や都合であるのか、会社としての正式回答なのか個人の意見を含むのかを、文末の名前の書き方によって暗示したいと考える向きもあるかもしれない。
システムの中での個とはなんなのか、なんて言葉にはなりはしなかったけれど、漠然と、先週は、そんなことを考えながら、仕事をしていたせいもあるのだろうと思う。

掃除洗濯を済ませ、布団を干し、昼ごはんを食べながら、ふと思いついて千夜千冊の最新ページを読みはじめた。ソロスの話だった。咀嚼しきれなくて何度も読んでいたのだが、やがて「リフレキシビティ」という言葉に、何かが反応した。
「システムにはそこに関与した者のバイアスがかかる、また関与した者の思考にはシステムからの影響が免れない。システムとその帰属者は両者ともに織りこまれた関係であり、ただつながっているだけではなく、「ゆらぎ」「誤謬」「負」をかかえたまま、全体と部分が、領域と参加者が、制度と実態が、互いで互いをハウリングしあっている。しかもそこにはフィードバック・ループがある。いったんシステムの内から外に出た情報が、どこかでシステムの中に再帰し、その再帰した情報が外の観測者に影響を与えているわけなのだ。それが複雑に繰り返されている。」(千夜千冊から大意を引用)

仕事の中で使う言葉というのは、現状を伝えるだけでなく、将来的に予測される事態の保険なり担保として機能する場合も多い。ただ単にご丁寧で長たらしい文章であるということに意味は殆どないと思っているので、なるべく簡潔にしたいのだが、そういう将来的な意味合いを含むときには、言葉選びは回りくどく、慎重にならざるを得ない。

しかし。投資家にとっての関心事が将来の株価なりであるのと同様、将来を織り込む言説を述べる場合においては、どんな言い回しをしようとも、その前に行なわれた推測が、将来の推測にバイアスを加え、そこにシステムが加われば、更にいくつものフィードバックバイアスがかかるのは極めてフツーのことなのだ。
(これは実にあたりまえのことではあるけれども、目からウロコだった。しかし、ということはつまり、推測しないですむ場合においては推測しない(すなわち客観的事実を限りなく推測を排除して伝達する)ことが最も安全策であることも理解される)

松岡氏は冒頭において、ソロスについて持っていた印象が間違っていたことを告白している。「1、きっと思想は思想、ビジネスはビジネスというふうに切り分けていたのだろう、2、ビジネスの成功には思想は必要だったろうが、その交じり具合はせいぜい20~30パーセントくらいだろう、3、金融資本と市場の変化と世界情勢の転換のたびに、ソロス・ビジネスの展開にそった思想をつくってきたのだろう。」
この3つはいずれもペケだった、ソロスは「思想=ビジネス」だった、と述べている。

「参考情報」の項は小文字ではあるけれど、注目すべき箇所である。
ソロスの信条を示す友人の言葉として、下記を引く。「ソロスは自分の努力を抽象化すること、それを定義することに集中した男だった」。また、ソロス自身の言葉として「私は自己の存在というものを意識したときから、自己を理解することに激しい情熱を燃やし続けてきた。そして、自分自身を理解することこそ最大の課題で、最大の利益目標であると確信するようになった」。

ここまで読むに至って、私は、ソロスという人物が好きになってしまった。頭の中の「ソロス」の項に、フラグが立つ。

仮説形成(アブダクション)のリンクから、気がついたらパースに飛んでいた。その頃には、もう陽も傾いて、干した布団も冷たくなっていた。慌てて取り込む。
パースにいたっては、松岡氏はほとんど絶賛ともいえる賛辞を呈している。氏の編集工学にぴたりとマッチした言説である。それはこの言葉をもっても知れるにちがいない。
「もっと端的に結論づけてもいい。パースにとっては【意識とは推論そのものなのである】と。」
「こんな文章がある。「感情(フィーリング)、他者についての感覚、そしてこれらに媒介すること。この三つのほかに意識の形式はない」(7・551)。いったいこのメッセージに何を加える必要があるだろう。これで十分なのだ。「知覚者によって知覚されていないことがある。それは知覚者が何を知覚しているかということである」(5・115)。まさに、この通りだ。この問題以外に、脳科学者や認知科学が考えることがあるのだろうか。「思惟と論理は不可分の関係にある。なぜなら人間の思惟は類似を通して前に進んでいるからだ」(5・108)。」

ヘレン・ケラーがwaterという語を理解した時の逸話を引いてから、こう述べている。
「われわれの【知覚と推論はいつだってヘレン・ケラーの断片の再現なのである】。新しい世界や未知の現象や知らない言葉に出会うたび、われわれは小さなヘレン・ケラーを通過させているはずなのだ。このことは、パースのアブダクション理論には、知識というものの本来の謎を解こうとする計画があったということを示唆している。パースは知識がどのように連環的な総体に向かっていくのかということを研究したかった哲学者であったであろうことを示唆する。パースはいつからか、ヘレン・ケラーのようにひとつずつの記号と知識がアブダクティブに統合されていくならば、どんな断片的知識もやがてそれらが連合して確固たる世界観を形成するはずだという計画を思いついていたのだ。これはぼくにいわせれば【編集的世界観をどのように形成されうるか】というプログラムの確立にあたっている。」

いや、ほんと、もう感動。「小さなヘレン・ケラー」なんて、表現が素敵すぎるし。
パースってすごい。っていうか、やっぱり、松岡正剛だなあ。
休日のしめくくりに、ナイスな文章に出会えて嬉しい。
なんだか、ヘレン・ケラーがたくさん来てくれたようで、元気が出ましたです。はい。

2009/12/05

雨の六本木

夕方、雨のなか、森美術館に出かける。医学と芸術展。
人間という生きものは、気になるものを解体し、分析し、再構成するのが好きらしい。
そして、その過程を観察して記録することも。
それが人体という対象に向かうと医学になり、芸術にもなるというわけだ。
やはり人間にとって、自分自身がいちばん気になる生きものなんじゃないだろうか。
自分自身を解体すると死んでしまうから、似たようなもので妥協しているだけであって、ほんとうは自分を解体して分析したいんじゃないだろうか。
あらためて見ると、人体解剖図というのはずいぶんとたくさん描かれていて、ダヴィンチみたいに精緻なものは少ないけれど、どれも人体という興味深い対象物への、単なる好奇心を越えた執着、執念みたいなもの、また死にゆくことへの不安をも反映しているように思える。

興味を惹いたのは、昔の義手義足や車椅子の横に、最新の脳波で動く車椅子、とか、おしゃれな義足があったりすること。暗闇で緑に発光するウサギやネズミを作ってしまった映像も流されていて、こういうのを見ると、医療とアート、またはその対象物を生命とみるか作品と見るか、というような境界は曖昧になってくる。
木で作られた人工呼吸器やレントゲンには、ただ嘆息するばかり。最近、日曜ドラマのJINで、坂本龍馬の時代の頃、どうやってペニシリンを作っていたかという話があって、薬というものを手づくりしていたというあたりまえの事実を再認識するのは、ドラマとはいえ、なかなか感動だった。それに似た感慨がある。

この展示とはあまり関わりがないのだろうけれども、順路の最後にあった映像コーナーで、不平合唱団というのが流れていた。東京を含む世界のいくつかの都市で、不平不満を歌にして合唱する、という試み。人の不平を聞いてもねえ、と思いながら、少し疲れた足を休めようと座ったのだが、これが意外に面白かった。
ワルシャワ、シカゴ、シンガポール、東京と聞いた。もっとお国柄が出るものかと思っていたら、不平不満なんてものは、殆ど万国共通に理解できるものなのだね。
給料が安すぎる、とか、いい男はみんな結婚してる、とか。高速道路これ以上いりません、地下鉄どうにかしろ、道が汚い、蚊が多い、天気悪い、効率よく仕事するほど仕事が増える、芸能人だけ儲けてる、家賃高い、などなど。
そんな中で、いかにもお国柄で笑ったのはシンガポール。シンガポールの合唱団は英語の歌詞で歌っていたのだけれど、「マンダリンで喋ろうと思ったけれど、この力強いシングリッシュのどこが悪い」とか、「許可されてない広告は全部禁止」とか。
せっかくの週末なのに生理、と歌っていたどこかの国の女の子の歌を聴きながら、観客の男の子がぷっと笑っていたのも微妙に面白かったりした。
個人的には、シカゴとシンガポールが好みだったかな。
不平合唱団(東京ver. 一部)

これは各国でワークショップがなされた成果なのだそうだけど、もとからこの不平の万国共通性を表現するために、狙ってやったのかなあ。だとしたら、読みの深い作品でしたね。

Never know where I am going

久しぶりの、もぎけん先生朝カルに行く。
最近は、3回シリーズのうち1回は対談になっていて、残りの2回が講義形式。講義といっても、当然先生の脳内フローのまま、いろんな内容が、かつ結び、かつ散じつつ、混じってくる。昨日もワグナーのオペラとか、小津の映画を挟みながら、でも必ず、脳科学関連の英語の論文を解説していただけるのを楽しみにしている。
大学に行くとか行かないとか、大学の時に勉強したかどうかなんて、もうどうでもいいじゃん、今は全部ネット上にあるんだから。(やりたければ、自分で勝手にやんなさい、)と先生は常々おっしゃっていて、大学院なんて行けそうもない、しがない派遣社員としては、その言葉だけが励みなわけだ。

ところが、先生が選んだ論文や、たまにブログに載っている、brain clubの人たちの論文は面白いのだけれど、自分で適当に探して読んでも、労力の割に実がないので、最近は自分で探すのを投げてしまっていた。しかし。投げてはいかんなあ、と思う。
だって、おもしろいんだもの。

クオリア日記にも載っていたair puffの論文から、コントロール実験を考え付くことの難しさと、それこそが科学的思考なのだ、とコメントされる。
そうなのだ。科学実験は、比較試験を、まず理解するのが難しいと思う。まして思いつくのは、僥倖にも似た、たいへんなことだろう。
前に血管内ステントの臨床試験の事務にいた頃、治験概要書とかをワケが分からないなりに文字面を追っていて、当然何版も改訂されるから、何度も校正をやるうちに、少しずつ概要がつかめるようにもなったりするのだけれども(とはいえ、いわゆるケミカルの作用とかが理解できないのは当然として)、治験の比較試験などというのは、プラシボを使う、とか、実に設定が明解なのに比べて、科学実験の対照試験は、想像力とか発想力の領域、レベルが違うように感じる。
論文を読みながら、いつも仕事などでは絶対に使わない思考回路が働いている感じがする。
そこが「いまの自分」から脱出、脱藩する快感なのかもしれない。
もっと脱藩してもいいな。

先生は、オスカー・ワイルドの獄中記を引用された。
A man whose desire is to be something separate fromhimself, to be a member of Parliament, or a successful grocer, or aprominent solicitor, or a judge, or something equally tedious, invariablysucceeds in being what he wants to be. That is his punishment. Thosewho want a mask have to wear it.But with the dynamic forces of life, and those in whom those dynamicforces become incarnate, it is different. People whose desire is solely for self-realisation never know where they are going.

自己自身になろうとする人間は、どこへ行くか分からない。
いいですね、この言葉。

相変わらず、先生は、とっちらかっていらっしゃるのだが、もう既に、それでいい、というよりも、そこがいい、としか言いようがない。
たぶん、あの教室にいた人はみな、そう思っているんじゃないかな。

2009/12/03

二次無効

職場近くの病院に行く。
いつも3時間待ちなど普通、という混雑ぶりで、仕方がないから、採血を終えたら病院を出て、明大の方向に下っていって、三省堂で立読みをするのが習慣となっていた。
土曜に通院していたのだけれど、最近、同じ先生の診察日が平日にもあると分かったので、平日に変えてもらって、これが2回目。
職場から徒歩5分圏内なので、昼休みに検査して、会社に戻って、しばらく働いてから早退する。それで、待ち時間は、ぐっと減る。
前回は、空いていた。今日は空いてますね、と言うと、先生は「そう、奇跡的に。」と言った。妙に実感がこもっていて、記憶に残っている。でも昨日は、やたらと混んでいた。おまけに、先生の患者さんの待ち人数だけが、ほかの先生の倍ほども多い。
初診専門の女性の先生が、私が「前にかかっていたお医者さんと合わなくて」と言ったのを受けて、「たぶん、この先生は、まあ、ほかの先生より少しは、ましだと思うから」と言っていたっけ。やっぱり、良い先生には、たくさん患者さんが回ってしまうんだなあ。先生、たいへんですね、などと思いつつ、待合室で、ぼんやりとテレビを眺めていた。

先生は、私がジョギングしているのをほめてくれた。「いやあ、がんばってますねえ、ぼくにはとても、できないなあ」などとおっしゃる。ふつうのお医者さんは「ぼくにはとても、」なんてことは言いそうにないので、なんだか可笑しい。「一昨年あたり、試しにジムに行ってみたんだけど、続かなくて。」なんだか、診察というより、知り合いの会話みたいなのである。
ひとしきり話して、検査結果の画面を眺めながら、先生は、うーん、と言って、黙ってしまった。前回より若干、数値が悪くなっていたせいである。
やっぱり、わたしって薬がきかないひとみたいですね、と言うと、そうだねえ。そう思いたくなっちゃうよねえ、と先生は言った。薬の名前を2つ書いて、もうすぐ新薬が出るからね、それ飲めば効くかなあと思うけど。でもね、治験もやりましたけどね、確かにぐっと下がりましたけど、個人的にはどうも、好きじゃないんだよね。長い目で見たときにね。アメリカでもまだ4年ぐらいしか経ってないから、まだこれからどうなるか、分からないんだよね。
先生は、つと立ち上がって隣の部屋に行き、ガイドブックを持ってきて、ぱらぱらとめくって、また、うーん、と唸った。ナントカは正常値だなあ、とか言って、また悩んだ。

ほかの先生の部屋はもう、ちらほらと「本日の診察は終了しました」なんて看板が下がり始めているのに、先生は、のんびりなさっているのである。

仕事や時間に追われているときに、平常心を保つのは難しい。自分自身は、より以上のことを抱えていながら、他人に鷹揚に接することができる人を尊敬してしまう。良い先生にあたって、よかったなあ、と思う。

結局、4ヶ月前頃、もう少し症状が悪かったときの治療法に戻ることになった。