2018/09/28

1%

たまにきれいにしてやらないとよごれっちまう魂の洗濯に朝カルに行く。
茂木先生はある意味、もう突きぬけてしまっているので、その存在、その言葉に接するだけで自分の身の回りのことどもなど、たいしたこっちゃないと無理なく認識できる。
大人になってからの学びは、1%のキモを教わったらあとの99%は自分で考えろ、試行錯誤しろ、と言っていた(たぶんもっと丁寧な言葉で)のは確かFさんのメルマガだったと思うけれど、その1%を自分に与えてくれる人はそう多くない。やっぱり先生は突拍子もないようでいて、キモのところはしっかりおさえてくれる。
面白かったのはappraisal theory of emotionといって、感情が働く前に実は認知が先に働いて評価しているという話だった。評価の後に感情がくる、と聞いてしっくりする。やっぱり、人間なんの理由もなく好きになったりしないのだ。
配布されたプリントは、脳がどのように美を評価するかという話だそうだ。今回はがんばって最後まで読めるかなあ。
教室で、前の画面を見ながら、背中が痛い。腰トレのおかげで腰回りは改善の兆しだが背中は相変わらず固い。今日午後休して出たレッスンでウエーブのしすぎだろか。ちょっと気になる。
薄着してきてしまったので、讃岐うどんであったまって帰路につく。





2018/09/23

記憶

カズオ・イシグロの文学白熱教室の録画をひっぱり出してきて観る、というか、聴く。職場の机の引き出しにしまってあった、ほぼ未読の「忘れられた巨人」の文庫本の表紙を見て、それを買うきっかけになったその講義を思い出したというわけだ。

イシグロ氏にとって記憶は、一枚の切り取られた静止画像のようなもので、そのディテールや背景はあいまいで、そこから前後に記憶が広がっていくのだという。動画にしてしまうとはっきりしすぎてしまうような、人間のあいまいな記憶を通じて語るという手法で小説を書くという手法にとりつかれている、と語る。
人間は重要な話をするとき、実は信頼できない。自分をどのように評価するか、過去にしでかした過ちや不愉快なことをどう避けるか。そんなとき、人間には嘘をつく才能がある。個人においても、社会においても、何を忘れ、何を覚えておくか、何をいつ思い出すのか、永遠の課題だと。

「日の名残り」についての会場からの質問に対して語ったことが興味深かった。
読者にまず気づいてほしかったのは、語り手として登場する主人公の語る言葉がその言葉どおりには受け止められない、主人公の言葉はどこか信頼できないということだった。作品の中で、主人公の視点は一箇所にとどまらない。まるで日記の延長のようでもあるけれど、どこまで現実を受け入れるかという彼の精神的な立ち位置によって、時期によって彼の立ち位置が変わっていき、伴って彼の口調が変わっていく。主人公は自分に正直になっていく、現実に向き合う勇気を持つようになっていく。信頼できなかった語り手は次第に信頼がおけるように変わっていく、それが重要だった。
小説は事実ではない、ただ嘘という言葉は使わない、それは意図的に人を惑わすものが嘘であって、事実ではない、作られたものではあるがそこになんらかの真実が含まれている、そういうものだと。人間として感じる心情、それを伝えたい、わたしはこういうことを感じた、君は理解してくれるか、それを伝えたいんだと。

また備忘録になってしまった。
自分は小説を書いたりはできないけれど、ああほんとうに、そんな気持ちでこの拙文をしたためている。この空間に登場することどもは、ありふれた日常であって、とりたてて記録しておくべき価値あるものは何もない。ただそこで感じた心情、真実などというべき大げさなものではないが、そのかけらのような何かは自分にとってかけがえのないものであって、それを時ともに流さずに、とどめておきたくて。

2018/09/17

PLAY

パリオペラ座の「PLAY」(アレクサンダー・エクマン振付)の録画を3回見る。今朝起きて2回、帰宅して1回。
気に入ったものは何度見ても飽きない。しつこいのかどんくさいのか、その両方なのか。ダンスも同じ振付を何度踊ってもこれで飽きたということがない。だいたい言われたことなんて1度で全部咀嚼できないし、1回できても次のを試みたら前のを忘れてしまっていたりするから、なかなかこれで完璧、とならない。時間がきて最後の1回が終わると、あら残念、と思うのが常である。
「PLAY」の話に戻る。
大人たるものバレエ鑑賞ぐらいできなくてどうする、と思って、機会があれば録画するのだが、10分もすると眠くなって、結局全部見ずに終わるような種類の人間だ、という前提で、そんなわたしが3回見たのだ。すばらしく面白い作品だった。
だいいち、目に楽しい。
ダンサーたちは、よくできたオブジェのよう。
よく思うのだけれど、美しいひとたちは、ただそこで躍動しているだけで美しい。作品の振り付けとは関係ないけれど、極端なことをいえば、とびはねながらただランジしてるだけで、うつくしいのである。もう意味も物語もなにもいらない。われら凡人はただ賛美するだけである。
斬新、などという言葉を使えばすでに陳腐。
アイデアにあふれた眼もあやな仕掛け、そこで美しい身体が躍動している、それがこんなに楽しいなんて知らなかった。

2018/09/16

ささみ

ジャズシューズなるものを買ってみた。
やわらかそうでいいなあと思っただけの話だが、これを履いてみたら、何度やってもできなかった足の甲側を床につけながらターンするという芸当(笑)が(はだしでやっても、靴下はいてやっても、むろんふつうのシューズでもできなかったわけで)が、いきなりできちゃったのである。シューズの力、偉大なり。おまけに軽い。かさばらない。持ち運びに便利なり。はげしく飛んだり跳ねたりするクラス以外はこれでいこう。

遠出の甲斐あって、ストレッチのクラスでもいろいろ教わってきた。
複数の整体師さんたちの証言によると、自分はなにしろ尋常でない腰の硬さらしいので、そう簡単に改善しないと思っていたのに、言われたとおりのポーズをとっているだけで、よくなってきた。勝手にお師匠さまと決めて、しばらくついていくことにさせてもらった。
先生がもも周りのマッサージの話をしながら、スーパーにささみが置いてあるでしょ、あれと同じぐらいの柔らかさになるといいですね、とおっしゃった。今のじぶんの太ももの感触は、なんだか妙にごりっと筋張った、ハム、まではいかないけど、たぶんささみではない。
昨日焼きそばが食べたくなって、ああ、もう秋になったんだな、と思った。夏場はそうめんいっぽんやりだったもんね。で、茄子を買って、それから豚肉コーナーに寄る。豚肉の隣に鶏肉コーナーがあって、あ、ささみ、と思いだした。
触ってみる。つんつん。
こんな足になるのかしら。ぷにぷに。
ささみになあれ、と思いながら、フォームローラーでころころする。
あ、そうそう、スーパーでそのまま帰りかけて、先生が、あ、ささみ、さわったらお買い上げくださいね、とおっしゃったのも思いだして、ちゃんとカゴに入れた。
ささみは冷蔵庫に鎮座している。まだ何に使うかは決めていない。


2018/09/11

ほぼ日記

なにかと支障が生じるので、仕事のはなしは一切ここにはでてこない。
したがって自分の興味が向くもののことをつらつらしたためることになる。
あいつまた同じこと言ってるわとお思いの方もあるだろう。
ほぼ日記なので。
あなたが勝手に読んでいるのです。
というわけで、好きにさせていただく。
好きなことにフォーカスしていると、その対象物に関するものごとが、自然と向こうから近付いてくる。誰かがなにげなくつむぐ言葉も、わたしには、行け行け、進めというメッセージにかわる。
背中を押してくれる言葉や、ふわりと笑顔をくれる、遠くや近くのひとたちに感謝しつつ。

2018/09/09

wild hearts

クラッシック以外に自発的に音楽を聴こうという気になるのは振付に使われた曲ぐらいなのだが、ここ数回のジャズのクラスで使われた曲がとてもすてきだった。
先生が最後に、ところで歌詞の意味しってる?とおっしゃったので、次のクラスの待ち時間に調べてみたら不覚にもなきそうになった。
いい曲です。
wild hearts can't be broken 

2018/09/05

秋風

こういった方法で思いをかたちにしていると、面倒なこともあるが、いいこともある。
少し遠いひとたちから何らかの形で思いがけずフィードバックをいただくこともあるし、言葉にすることで、自分の背中を押すことにもなる。

9月に入った。
すずめやリツとも今月でお別れ。
毎日15分の心のともしび。今期はずいぶん元気をいただいた。
何があっても、すべてあのときのときめきから始まっていることを忘れるものか。
秋風羽織の名セリフをつぶやきつつ、あしたもがんばろう。

2018/09/01

遠足

夏休み(午後休)2日目。
インフルと入院で病休をずいぶん使ってしまったので、有休はちびちび使わねば。
いつも土曜の夜に出ているクラスの金曜昼版に出る。9月から3か月目で、踊りこみに入る。超初心者だったわたしに基礎から踊りこみなるものの楽しみまで教えてくれた(今もだけど)のはこちらの先生である。自分の場合、ざんねんながら踊りこんだってたいしてうまくなっちゃいないのだけれど、自分の内部世界と曲がシンクロする感覚は一度味わってしまうとくせになる。
夜のクラスに移動。ちょっとした遠足みたいな距離。大人の遠足なのでグリーン車に乗る。仕事帰りのおねえさんがチューハイを飲みながら、いい感じでぼんやりしている。おたがい一週間おつかれさまでしたよね。心の中で声をかける。
大宮からひと駅過ぎたところで気配を感じて目をあけると、suica拝見しますと言う。見上げると赤ランプになっている。あれ、おかしいな。さっきは緑だったんですけど。行き先はどこですか。あ、そこなら大宮で乗り換えないと。
アプリを見直すと、確かに大宮で路線が変わっている。乗る前は一本前の電車で検索して、それは直通だったが、一本後の今のってる電車は乗り換えねばならなかった。やれやれ。
いろいろあったが無事目的地に着く。
ストレッチとジャズのクラスに出る。今までに未経験のストレッチがおもしろい。ひたすら言われたとおりの形をつくる。これで腰痛でなくなりますよとおっしゃる。主にデスクワーク時の姿勢のせいで、肩から腰にかけての背面がつらくて毎週整体に通ってる身としては、ほんまかいな(すいません、疑い深い性格で)と思いつつ、今日起きてみると確かに腰が軽い。これは、しばらく通って習得しなければ。
あ、そうそう、びっくりしたのは、日曜の昼に自分の地元のクラスでお見かけするおにいさんがいらっしゃったこと。お互いさまだが、まあずいぶん遠くまで(自分の地元とこの現地とどちらが遠いのかは知るよしもないが)。HIPHOP系がお得意とお見受けするステップの軽やかなかたである。
遠足のしめはサイゼリヤでごはん。幸い、何を食べてもおいしい人種である。
帰りの電車は空いている。習った曲をかけつつ、うとうとする。
日々の出会いはそれだけで奇跡である。
しあわせな一日でした。