2010/01/31

Jogもろもろ

少し前、どこからのリンクだったか忘れてしまったけれど、ウォールストリートジャーナルの「運動の薦め」という記事を読んだ。運動の効用は単に体重減少にとどまらず、ウイルスや細胞を撃退する体内の免疫システムを向上させる作用もあるそうだ。

持病の関係で免疫系が弱い自覚があるので、ほほう、と思ったわけだが、この冬を振り返ってみると、確かに今のところ風邪をひいていない。風邪をひきそうだと思った回数も、昨年に比べると、はるかに少なかった。(それに伴って常備薬たる「パブロンゴールドA微粒」の減りも少なかった。)毎年、冬は通勤の車内では必ずマスクをしていたが、この冬、マスクは常時携帯していたものの、殆どしなかったけれど、だいじょうぶだった。

記事によると、週5回30~45分の歩行程度の軽い運動は、多くの病気の根底にある、細胞、組織、臓器に対する継続的な損傷に対抗するのに役立ち、2型糖尿病発症率低下、血圧低下、悪玉コレステロール減少、細胞の不活性化が抑制されることによるがん発症率低下、エストロゲン(女性ホルモン)レベルの減少による乳がん発症率低下にも効果的と考えられているそうである。(原文はこちら

自分の場合、お酒を飲むと定期的に測定している値に多大なる悪影響が生じることが判明したので、もともとさして飲まないものの、完全禁酒までしているから、少々は健康的な生活をしていると思っていたが、運動不足は喫煙と同程度の健康被害がある、などと書かれると、今までの運動不足な日々ってずいぶん不健康だったのだなあと、あらためて。
確かに2日走らないと、その某数値が悪化トレンドに入ることをかかりつけのお医者さんからも指摘されている。つまり、最低1日おきに運動せよということ。(しかし平日は特に、これが、なかなか。)逆に、昨日今日のように、連日10km超走ると、ぐっと良くなる。

今日は新しい12.5kmのジョギングコースを作って走ってみた。12.5kmで約1時間半。途中信号でたくさん停まったけれども、1kmほぼ7分。おそすぎ(笑)。
さすがに今日は、走っている途中から早くも、おしりのあたり、筋肉痛を感じはじめるし、シューズを脱いでみると左足の皮がむけそうになってもいて、つまり靴下に検討の余地ありということで、いろいろありますが。明日あさっては雨だから、その間に治るでしょう、きっと。ともあれ今月の走行距離は76km。昨日今日と月末に距離かせぎましたが、まあ、いいことにしましょ。

そろそろ花粉の季節ですが、ここをどう乗り切って運動を続けるかが来月以降4月頃までの課題。
ジョギング中のマスクって耐えられるんだろうか(考えただけで、息が苦しそう。)花粉が飛ばない雨の日にカッパ着て走るべきか。などなど。

2010/01/30

golden slumbers

水曜は夕方から明治大学に行く。この5回シリーズの講義は、もぎけん先生の幅広い活動の中で自分が関心を持っているコアな部分でもあり、明治が職場から近かったことも幸運だったけれど、生聴講できて本当に良かった。同じ時代に生きていられて良かったな、と思う人はそう多くないけれども、自分にとって、そういう先生のひとりである。

今日は昼から歯医者に行く。先生と話をしていて、自分の口癖に初めて気がつく。これこれだとダメですよね、というような文脈で、「ダメ」という言葉を多用するのである。それに対して先生は「ダメってことはないですよ」と応じる。「そうですか、ダメってことはないですか」と答えつつ、そのあと気をつけて聞いていると、先生は「ダメ」という言葉遣いはしない。かわりに、「うーん、でも、やっぱり、難しいのかなあ」なぞと、やんわり、おっしゃるのである。結局、難しいのだけれども、できる限り試みる、というところに着地して、話が終わる。
いつも答が「良い」か「ダメ」しかないと、諦めが早すぎる、ということにもなる。気をつけないと、と思ったりする。

歯科から帰って、久しぶりに遠征。10km以上jogすることを遠征と勝手に名づけている。陽が照っているから気温も高め。途中からウインドブレーカーを脱いで半袖+アームウォーマーという姿になる。道行く奥さまがすれ違いざまに「寒いのにねえ」とおっしゃるのが聞こえてくる。いえ、今日はあたたかいですよ、と思いながら遠ざかる。

夕方から、「ゴールデンスランバー」を観に豊島園に出かける。突拍子もない展開のストーリーではあっけれど、堺さんは相変わらず、がんばってましたね。
自分にとってもhomewardから連想する、そう多くはないいくつかの顔がある。いずれも今は疎遠になってしまったけれど、いつか、どこかで、また会えるといいね。きみたちのためなら、こころ一杯のことをしたいと今でも思っているよ。少し涙ぐむ。
帰りがけ、ビートルズが無性に聞きたくなって、CD5枚レンタルで1050円のセールでビートルズばかり借りてきた。いまかけている。泣けますね、golden slumbers。

2010/01/23

そこに音楽が流れているか

少し昔のエッセイに、「男好き」は実践派、「いい男好き」は遠くから眺めて楽しむ鑑賞派、という分類が載っていたけれど、その分類でいけば自分は間違いなく後者になる。
トークショーや講演を好むのも、やはり、いいオトコを眺めていい話を聞いているのが好きだからかもしれない。その証拠に、あまり女性の講演をすすんで聴きに行った記憶がない。いや、でも内田光子のリサイタルとリサ・ランドールには行ったか。こじつけだったかもしれない。
ともあれ金曜は中沢新一先生のお話を伺いに池袋ジュンク堂に行く。しばらく遠ざかっていて、いまどういった動向かなどはとんと分からず、でもしばらく「店長」でいらっしゃるので、とりあえず書棚を見てこようか、と。
わたしとは違って、熱心なファンが一言一句、といった様子でノートテーキングしている姿を見かけたので、そういうのはほかに譲るとして。。
店長トークはシリーズの2回目だそうで、前回のお題は「本との出会い」だったらしい。今回は「思想との出会い」。
中沢さんは、お父上の承諾を得て揃え始めた世界の名著の第一冊目でニーチェに、がつんとやられてしまったそうだ。一言でいえば、そこから音楽が聞こえた、と。
魚が水の中にいるような身体性を伴った、それでいて、少し溶けかけて今にも割れそうな氷の中にずぶずぶと足を踏み入れてしまったときのような、内臓の奥底、無意識との堺ににひたひたと波打つ何かに触れるような、昆虫の触覚が世界に触れるときのように、ふるふると震える「気分」を伴った、ただの知識と論理の羅列だけでない何かーその何か、が言葉に乗らない、という話を2時間えんえんとされたわけだから、ここでうまく書くことなんてできるわけもないのだけれども―そういう実にプライベートな内面のふるまいを、半死半生の思いでたたき出してきて、他人と共有できる「言葉」もしくは「論理」の中に、辛うじてなんとか痕跡を残そうとした、そういう身体性や、気分、もしくはそれを音楽といってもいいけれど、それを感じられる思想こそが思想なんじゃないか。という、とてつもなく熱いお話。

テキストにユリイカ1988年10月号に掲載の「方言論」を使われたのだが、トークが始まる前に読んでいて、ここで引かれているハンガリー語の話と深沢七郎の文体の話にひどく惹かれてしまった。
というのも、こういうことをこの年で今更思うのもなんだけれども、なんか日本語がうまく使えないんですよね、ほんとに。最近は、何を書いても、うそっぱちな気がして。まるでティーンエイジャーみたいですが。
かつての中沢さんの場合、それは日本語という言語が、自分の内面のふるまいに合わない言語構造だからなんじゃないか、むしろハンガリー語のほうが内面のふるまいに合ってるんじゃないか、と展開していくあたりが、とても素敵だとおもった。きっと、わたしの中にもハンガリー人がいるに違いない。

しかし。そこへもってくると、音楽はすごい。感情、気分といったものを言葉より的確に表現するという点で、音楽は謎だというようなことをレヴィストロースは言ったんだそうですが、いや鳥のさえずりには負けるかもしれないけれど、音楽は深い、人間の心のどこを巻き込んでいるものなのかと。まさしくそうですね、ふしぎ、と何度もこくこくと肯いてしまう。
こういう話がまとまるはずもないんだけれど、はい、そうなんです、えらく心動かされるお話でした、ということを残しておきたかった。

4ヶ月毎に定期健診に通っている行きつけの歯科では、どうも思うように効果が上がらないので、年末から職場近くの大学病院の歯科に行くことにした。お会計も極めて明朗で、予約すれば待ち時間も短い。気に入っている。この病院には取引先の機器が置いてある。関係ないといえばないけれど、どことなく嬉しい。今日で3回目のこの先生も、厚めの眼鏡の奥の目がぱっちりして、睫毛の長いキュートな青年である。説明の仕方に、少しオタク風な特徴があって、新宿のハンズのデンタルグッズはなかなか品揃えが豊富なのですと教えてくれる。あ、と思い出したように、いえ、もちろん病院の売店にもありますが、と付け加えて、にこにこする。最近いい男にたくさん出会う。しあわせなり。

帰りにハンズでいろいろ仕入れて、ツァラトゥストラと中上健治を読みながら、帰る。

2010/01/21

僥倖

オフィスに集荷に来てくれるのが、ひょろりと青白い顔をした「うらなり君」といった風情の20代前半ぐらいの男の子である。
昨日は夕方近くになってから一つ仕上げて、さて、あとはインボイスをコピーして封をするだけ、となったところで集荷依頼の電話をした。決まり文句で「準備はお済みですか」と聞かれるので、本当は済んでいないのだけれども、どうせすぐに集荷に来るはずもないから、「はい済みました」と答えて、電話を切るのが習慣になっていた。
たまたま昨日は、そこで電話が鳴った。ちょっと長めの話を終えて、我にかえったところで、背中に視線を感じる。目は口ほどにものを言う、というのは本当で、くだんのうらなり君が、「話が長いんだよオマエは」「準備が終わってないのに集荷電話するんじゃねーよ」といった風情で睨んでいる。その目を見て思い出す。こうして待たせるのは2回目である。ばたばたと準備を済ませて手渡したものの、さすがに悪いことをしたなと思っていた。
今日も、うらなり君がやって来た。「きのうは、ごめんねー」と、社内でもらったお菓子をいくつか渡したら、いえいえと遠慮しながら、いままで一度も見たことのない、にこやかな顔で笑った。空腹時に笑顔の不意打ちをくらったせいか、なかなかに刺激的。めまいがする。いや、単に、立ち眩みか。ともあれ、こんないい顔を見られるなら、またいつか、お菓子を用意しておこうかしらん。

2010/01/19

できることから

ここのところ、平日が過ぎるのが、とても早い。
先週は月曜が休みだったからか、と思っていたが、今週も、もう火曜が終わってしまった。
土日は映像系の展覧会を2件回った。
竹橋のウィリアム・ケントリッジ、清澄白河で、レベッカ・ホルン。
どちらも良かったが、レベッカ・ホルンは2番目の展示室でかかっていた、短編が好み。
(長編は、途中から集中力が尽きた。短編の部屋から回ったのは到着時間の関係だったが、結果的には正解だった)ケントリッジは、イヤホンで音楽を聴きながらアニメーションを見る。気に入って、CDを買って帰る。音楽は、フィリップ・ミラー。ケントリッジ作品には、猫と、水がよく出てくる。
William Kentridge - Sobriety, Obesity & Growing Old (1991)

めずらしく、夕飯前にジョギング5km。

プロフェッショナルを見ていた。移植外科医師の回。
この1年ほど、なにか自分に出来ることで、病院でできる仕事はないかと思っているが、なかなか、それらしきものが見つからない。
今は遠くを見るときではないのかもしれない。手元で、できることから、こつこつと。

2010/01/16

繋がっているために。

どうでもいいことほど、意外に気にかかるものである。
最近、南アジアの某国に書類を送って、なにごとか記載して送り返してもらうことが2回あった。このご時世にメール添付で送れないのだから、それなりの書類なはずだったのだけれども、1回目は3枚の書類にホチキスの穴が貫通して(針は抜かれていたけれども)返ってきた。その穴の位置というのも、A4縦長の書類なのに右側の下から3分の1あたりの奇妙な位置にある。

数日後、2通目。こんどは書類自体にこそ穴はあいていなかったけれど、書類を入れたクリアファイルに穴があいて返ってきた。(また針は抜かれていたけれども、跡が、くっきりと。)
おかしいなあ、送る前からあの穴はあったかしら(いや、絶対ない)と思いながら、深く考えずに仕事を続けていて、帰りの電車の中でようやく、気がついた(遅い…)。

ポストイットのかわりにホチキスでメモを止めているのだね。今にして思えば、クリアファイルにはセロテープの剥がし跡もあった。つまり、最初の人はメモをクリアファイルにホチキス止めして、次の人は、メモをテープで止めたわけだ。(逆かもしれない。)
いま日本のオフィスで働いている人間で、依頼用のメモを留めるのにホチキス使う人とか、クリアファイルにメモのホチキス止めを試みる人っていないだろうな。たぶん。事務スタイルにも想定外のことがいろいろあるものだ、とか、やっぱり、ポストイットって偉大な発明だったな、と思ったりする。
こんな些細なことでも、ひとつ謎が解けると、嬉しい。

茂木先生の朝カル。京劇が専門で中国事情に精通した加藤先生という方との対談。
暴露系の話で受けてしまったが、漢文における模範的な文章とは何か、という話がひっかかる。
日本人で(たぶん英語でもそうなんじゃないかと思うけれど、)いわゆる格調高い文章といえば、形容詞のバリエーションが豊富というようなことを思う。
一方、漢文では、「左国史漢」(「春秋左氏伝」と「国語」と「史記」と「漢書」)が文章上達のための必読書なのだそうだが、すべて歴史書であり、一言でいえば、簡潔を旨とする、という。「美人あり、名は虞」、みたいな。

中国という、ヨーロッパに相当する広い地域が一つの国であると住民に認識されていたのは、漢文という、口語とは別次元の士大夫層が使用する言語が長年共通だったからではないか、というお話もあった。

反面、中国というのは、もちろん孔子とか有名な人たちはいるけれども、割合処世術的なところが主だし、いわゆる哲学的な思索というところは弱くて、インドで出た仏教が中国全土で広まったのも、それが漢文にない要素だったからじゃないか、というような話も出たりした。

おそらく、メッセージが簡潔であること、というのは、広い組織を束ねるのに重要なんだな、という気がしている。
情緒的なものを伝えようとすると、だらだらと(こういう)長文になるのだが、そんなものを切り捨ててしまえば、それだけメッセージは強くなる。
おそらくそれは、非常に実際的なメッセージになる。だからきっと、中国の人というのは、そういう面のスキルが、概して、高いんじゃないだろうか。

明けて本日。こうして書き出してみて、あらためて。本音のところ、実際のところ、口語的な様々は非常に異なるものたちが、何かの理由で繋がっているためには、ほんとうに「実」のところ、重要なところ、昨日の話でいえば「漢文」にあたるところ以外は捨ててしまう。簡潔な共通項にのみ注目し、合意する。それはきっと、今なら、ビジネス上の実利と置き換えてもいいかもしれない。様々に異なる「本音」を見せないことは「罪」ではなくて、むしろ、繋がっているための「功」である、という、きっぱり潔い考え方も、悪くない、とは思う。

一方で、やたら冗漫な文章をたらたらとものしてもいるわけで。(なかなか白黒はっきりしない性質でして。。)

2010/01/12

長谷寺

駅に着くまですっかり忘れていたけれど、1月11日は成人の日だった。そのせいで余計に人出が多いのか、JR鎌倉駅から鶴岡八幡宮にかけての道は通勤ラッシュのような混雑ぶり。近代美術館にたどり着いて、内藤礼の展示「すべて動物は、世界の中にちょうど水の中に水があるように存在している」を見る。(この題名はバタイユ「宗教の理論」からなのだそう。美しいフレーズ。)トークセッションに間に合う時間を目指して来場した人が多かったらしく、入口には長い列。水とか空気といった、通常は目を凝らして見ようとしないものを感じさせてくれる作品。きっと、話を聞けば、自分の気づかなかった何かを得るところはあるのだろうけれど、と思いつつ、場内をぐるっと回って、結局、話は聞かずに出る。手帳には「おいで」の紙を記念に貼ってある。(これは、展示を見た人でないと分からないですね。ふふ。)

駅前で手土産を買い、少し迷ったものの、江ノ電には乗らずに長谷寺まで歩くことにした。道中、喫茶店に入って、コーヒーとスコーンをいただく。家具の白木も、真新しく、まだ越してきたばかりの夫婦が二人で切り盛りしているという。土日しか開店しないという古着屋さんにも寄って、品定めなどする。車道に出る少し手前で、栗鼠が3匹、軒先と階段を行き来しているのを見かけて、思わず知らず長居してしまう。栗鼠と鼠は似ているけれど、やはり、しっぽで鼠は負けている。
長谷寺で思い出すのは、北村薫「六の宮の姫君」である。推理小説がとても好きだった頃(今でも、それなりに好きだけれども)、北村薫に惚れ込んでしまって読み込んだ本だから、詳細まで覚えている。鎌倉が出てくるのは最後のあたり、「私」が老先生の家を訪ねる場面。お気に入りだから、前にも引用した気に違いない。でも好きな文章というのは、読むたび新しいのだから、どうぞ、お構いくださるな、である。なぜか長年、心に残っているその光景を、はじめて、展望台から目にした。

「その先に光がきらめいていた。海の見える展望台だった。
歩くにつけ、光は強さを増した。手摺りのところに立つと、まぶしくて、眼を普通に開けてはいられない。私は手を額にかざし眼を細めた。
そして突然、これから歩む人生のことを思った。いや、その思いに襲われた、という方が正しい。
私のような弱い人間に、時代に拠らない不変の正義を見つめることが出来るだろうか。それは誰にも、おそろしく難しいことに違いない。ただ、そのような意志を、人生の総ての時に忘れるようにはなるまい。また素晴らしい人達と出会い自らを成長させたい。内なるもの、自分が自分であったことを、何らかの形で残したい。
思いを、そう表に出せば、くすぐったく羞ずかしい。嘘にさえなりそうだ。だからそれは、実は、言葉に出来ないものなのだ。
それは一瞬に私を捉えた、大きな感情の波なのだ。
遥か下方、家々の向こうに由比ガ浜が見える。その先に広がる海は紗幕をかけたようだ。沖に行くほど、きらめきは増す。眼が慣れてようやく、大きな鏡のあちらこちらに、遠くくだける波頭が見えた。」 (北村薫著「六の宮の姫君」より引用)

2010/01/10

薄墨の円

池袋で某検定試験を受験。試験を受けること自体、とても久しぶり。気持ちとしては、ほとんど捨てていて、セミナーは寝ずに聞いたはずだけれど(なにしろザル頭なので殆ど残っていないし)、その後テキストをひととおり読んだきりで、まったく勉強しなかった。試験は4科目。今朝になって、1科目終了後、次の科目との間にかなり長い休憩があるのに気がついて、手持ち無沙汰だしと、テキストの一部をちぎって持参(全部持つと、重いからね)。
費用を会社持ちで申し込んでいるひとたちが連番で席についていて、試験開始まで、ぼそぼそと会話が聞こえる。英語の検定のように、個人で受ける人が多い静寂な会場の空気とは、ちょっと違う。
マークシートを塗りつぶすのが好きだというひとは、わりと多いんじゃないかと思うけれど、わたしもその一人。
この試験のマーク欄は円型で、楕円ではない。楕円の場合は、輪郭をとったあと、まず真ん中に長い線を引き、若干短めの線をその上下に付せば足りるが、円の場合、輪郭をとってから、内側に向かってくるくると螺旋状に余白を埋めていくことになる。書く線の長さが、たぶん楕円より長いんじゃないかと思う。だからどう、ということでもない。試験時間に対する問題数はそれほど多くない。半分程度は勘なので、それほど迷わない。せっかくだから、はみ出さず、均質な黒で、塗りたい。きれいな薄墨の円をシート上に連ねていくことにだけ精神を傾ける。
本郷のスコスで買った芯の太さ0.7mmの、お気に入りシャープペンをたくさん使えて、しあわせ。(ふつうよく売ってるのは0.5mmだから、少し太め。グラフィック用で、書き味がよろしいのです)

ごはんを食べながら、キアロスタミの「風の吹くまま」をかけていたのだが、あまりに光景と会話がナチュラルすぎて、気がついたら途中からブログを打っていたりする。キアロスタミをかけていると、こういうことがありがちである。(もう一度見ないと。。。)昨日は試験前日だというのに、ギルバート・アデア「閉じた本」、カズオ・イシグロ「日の名残り」(翻訳)を一気読み。DVDも2本見た。なにしろ試験の前というのは、無関係なことへの時間消費意欲が旺盛になるものです。

ウィリアム・ケントリッジ、内藤礼の展覧会が気になっている。今週こそ、行こう。あれ、明日、鎌倉で内藤氏のトークがあるんだね。

2010/01/09

It's impossible, so let's start working.

Man on wireのDVDを漸く見る。
ツインタワーのビルの間にワイヤーを引いて、綱渡りしてしまった、Philippe Petitと仲間たち。
はじめてツインタワーの屋上に上ったときのことを振り返って、「不可能だ。でも、やってみよう」と思ったと語っていました。
ドキュメンタリー映画なので好き嫌い分かれそうですが、また、実際に渡っているところは写真しかないんですけれども、DVDは1時間11分あたりから、チラ見するだけでも、凡庸な日常に刺激が走りますね。。

2010/01/04

細部において多様

これまた年末に押入れから発掘してきた松岡正剛氏の『多読術』を再読。
読書とはごく個人的なものだし、環境、そのとき置かれている状況、身体のコンディション、前に読んだ本の文脈、言葉遣い、そこで共有されていた世界(「味蕾」と表現されていた)などなどに影響されるのであって、たとえば洋服を着替えるように、いろいろな読み方があっていい。平均的な読み方なんてものはない。だからこそ、一読で終わらせず、再読すると新たな発見がある。
自分の「好み」は大切にしたほうがいい。一言で好みといっても、実は細部においては多様なもので、それを発見していくのが面白い。
読書とはコミュニケーションであり、相互作用(相互編集)である。
はっきりしているところよりも、曖昧なところ、きわどいところ、フラジャイルなところに、創発の芽がある。「フラジャイル」をぱらぱら眺める。そうか、ソンタグのいうところの「ラディカル・ウィル」というのも、おそらくはそういう意味あいなのだろう。なんか、すてきだ。

Kazuo Ishiguro 'Nocturnes', 短編集、2話目まで読了。これはいい。なにより、難しい言葉が使われていないので殆ど辞書を引かなくても読めるし(これ大事)、それなりに味もある。「犬の臭い」をどうやって人工的に作るかというあたり、あのレシピは嘘なのかもしれないけれど、一瞬、試してみたくなった。
勢いで、以前に挫折したThe remains of the dayに再挑戦。やっぱりこちらは作品の性質上、文章は若干固め。長編だし。また挫折するかも。

新書「英文法を知ってますか」。英語というと、世界言語として昔から文法もきっちり整っていたかのような錯覚をしていたけれど、なんだ、最初はラテン語に引け目を感じながら育っていった言語だったんだ、と知ると、少し親近感。最後のページにでてくるジョージワシントンの演説の冒頭。そうそう、こういう長い文章がやっぱり苦手で、3回読んでもうまく和訳できそうにない。当時の人たちはこれ聞いて、たぶん理解できたんだろうから、すごい、えらいなあ。

ジョギング。年始に決意新たにした人が多いせいか、気温が少し高めだからか、駅伝の余韻なのか、はたまた食べすぎが気になるからか、12月に比べて、同じ時間帯なのにジョガーにたくさん出会った。やっぱり、仲間がいるとうれしい。5km, 0:31:05。走るようになって初めて、そういう目で駅伝を見ての収穫は、自分は明らかに足が上がっていないこと、もっと姿勢よく走れるはずだということ。それから、もっと最後まで気をしっかり持って走れるということ。たったそれだけ意識しただけで1分早くなった。
とりあえずは、30分を切りたい。

2010/01/03

花の咲かない寒い日は

箱根駅伝復路も終わり、実家で弁当箱に詰めてもらった「おせち」の残りもなくなって、新年明けて早くも3日目。自炊を再開して、気分も通常モードに戻る。

年末に押入れから掘り出してきたTOEIC攻略本、英文ライティングと文法の本をつらつら眺めたりする。次の転職のためにTOEICの点数は取れるところまで取っておいたほうがよいとは思うので、次回約3年ぶりに受験するか少し悩む。この程度の試験でも受けてみないと自分の進歩が実感できないというのも悲しいが、ほかに良い方法が思いあたらない。

文法と構文の取りかたに、ときどき不安があるので、これも掘り出してきた英文読解系の本をひととおり読む。英文に対訳と解説がついているので少しは勉強になるが、自分がかつて選んだ本とはいえ、他人が選んだ文章を「精読」せざるをえないシチュエーションに疲弊。試験問題のつまらなさに匹敵する。点数という結果でもついてこない限り、モチベーションの上がりようもない。さっさと読了後、次回のブックオフ行き紙袋へ直行。

その昔、国語の試験問題には、ごく稀にでも、小林秀雄や北杜夫など、いわゆる名文、迷文との邂逅、というような楽しみがあったけれど、TOEICの試験問題に出てくる英文で、そんな出会いを経験したことがない。試験勉強する気にならないのは、きっとそのせい。
(まあ、もともとTOEICはビジネス向けの試験だから、しかたないか。)

audibleの朗読を聴くのと並行して読んでいるJulian Barnesのペーパーバックを少し開く。相変わらず、こちらはウィットがききすぎていて、精読しても作者の意図を理解できているか不安なまま、カメの歩み。
まあ、それでも、歩かないよりは、マシ。

どこかの大学の監督(かランナー)が好きな言葉、とアナウンサーが話していた。
「花の咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ」。
(「なにも咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」とも。)

2010/01/02

The first run of the new year

2days staying at my parents'. Watched Hakone Ekiden live on TV this morning.
Back to my flat in late afternoon, the first run of the new year, 10km;1:05:38.
During running, remembered the comment of a runner of Toyo univ. "Just to overcome myself last year", true to his words, he broke his own record of 09' Hakone Ekiden 5th leg, the hardest section of the course.
The great deal of watching the live was, to realize people run so fast, so smoothly and so strongly, with maintaining their inner strength to the last moment of the run.
Nothing compared to the Ekiden runners, my record was also improved a bit today-by 1min. 28 sec.. Good start of 2010.