2010/12/31

年末年始

近頃は年末年始も開館している美術館が多いみたいですね。
とりあえず東博(2日から)には行くべしとの声も多いようで。
森(無休)と川村記念(2日から)も開いてるみたい。箱根駅伝を見終わったら行こうかなあ。
今回は、品川駅あたりで初めて、生駅伝を見てみようかしらと思いつつ。(起きられれば、ね。。)

みなさま、よいお年を。

2010/12/30

ケシポン

今年の個人的ヒット商品文具の部はケシポン(ローラー型)。
手で破る、抽選であたったシュレッダー、ギザギザ刃のはさみで切る、という長い道のりを経て、漸く、おかげさまで、一部のDMは未開封のまま捨てられるようになった。
年末の書類整理にも活躍中のケシポン君です。

2010/12/19

サイパン

土曜のN響はなかなか良かった。ラヴェルは当然。初めて聴いたショスタコーヴィチの8番は、超高音域の響きがなんともいえず。

久しぶりに小説を読了。貫井徳郎氏「夜想」。「慟哭」以来2冊目。ツイッターをフォローしているせいか、どことなく親近感。灰色の虹がいいらしいが、ハードカバーで買う気がせず。「追憶のかけら」を読もうかと。

横浜の帰路に読んだ「怒らない技術」。要は自分を怒らない環境に置く自助努力をおこたらないことと、怒らないために考え方を転換すること。どこかで読んだり聞いたりしたことのある小話満載で新しいことはほとんど書かれていなかったが、こういう話はたまに復習しておいて損はない。具体的対策も、もろもろ書かれていてお手頃。

ゴッホ展には行けなかった。まあいいか。武士の家計簿と小さな村の小さなダンサーを見ようみようと思いつつ。とりあえず本を読むか。

サイパンマラソンに行こうかと思う。ハーフ。時間制限がないのがいいよねー。3月。やたら早朝から走るみたいね。低血圧だから早朝はきついんだけど。とりあえず来年の目標(ハーフ完走)をさっさと達成してしまおうかという計画。

2010/12/15

エマール

ピエール=ロラン・エマールPierre-Laurent Aimardのピアノリサイタルに行った。
音を表現するための言葉って、ほんとうに、なかなか浮かばない。
んだけれども、要するに、7曲のアンコールを聴いてもなお会場から去り難く、今週土曜のN響とのコンサートに横浜まで行くことにしてしまった&アマゾンで買えるCDは全部買ってしまったぐらい(すでに3枚持ってるけど)、なんか揺れてしまったわけですね、これが。
やはり音感のなさなのか、現代音楽って、なかなかメロディーが頭に定着しないのだけれども、そのかわり、彼の手から紡ぎ出される音そのもののふくよかさや強さ、それが時間の流れとともに積もっては溶け、それでも残る音の肌理、とでもいうものが、ただ記憶の中でゆらゆらと、ほのかに残響するのである。こんなのを聴いてしまった後には、余のことすべて些事と化す。当然ながら仕事なんて手につかない。ほとんど恋である。

youtubeにけっこう動画あります。
Debussy - Two Etudes とかバッハとか。はじめてCDを聴いたのがメシアンだったせいか、メシアンも好き。お、この動画、エマール、若っ。

2010/12/04

それじゃあ、また。

記憶というのは面白い。
海底に埋まっていたものが、ふとしたはずみで海面に浮かびあがってくるような。

近所に住んでいる外人さんに幾許かの謝礼をお支払いして英会話してもらっている。
たまに話しておかないと、いざ仕事で必要が生じたときに言葉が出てこないレベルなので、内容はともかく、沈黙せずにしゃべっていることが主たるトレーニング内容である。

で、彼いわく、エージェントから転勤を命じられたんだそうな。
今まで教えていた専門学校は通勤時間1時間程度だったのだけれど、今度のところは2時間弱とのことで、これから面接には行くのだが乗り気でないとのこと。

彼は妻子持ちで永住権は持っているものの、外国人としては、なにかと立場が弱い。
エージェントに稼ぎの3割を取られちまう悲しみもよく分かる。
以前は都内の公立中学でも教えていたというし、なかなか教え方も上手なので、何か力になれないかしら、と聞きながら思っていたら、ああそういえば、知り合いに英語の先生をやってた人がいたんだったと思い出した。
大学の同期である。最後に挨拶をかわしたのは、もう数年前にもなるだろうか、と記憶の糸をたぐりよせはじめたら、イモヅル式にいくつかの顔が思い出された。
なんだかやたらと偉くなっちまった御仁もあれば、まったく消息が見当のつかない顔もある。

数年などというものは、本当にすぐに過ぎてしまうもので。
いやあ、みなさんにお会いしない間に、あれからいろいろありました。

お元気ですかあ。

いろいろあったとは言うものの、ご存じの通り、当方、根が暢気なもんですから、相変わらずといえば相変わらずです。

こないだPCを壊したときに、古いアドレスは全部失ってしまって、こちらからは連絡するすべもないのですが、まあなんといいますか、気が向いたら連絡くださいましね。

それじゃあ、また。

2010/11/28

初参加

土曜am。会社主催の無料ランニング教室にて元ソウル五輪女子代表ランナーさんのお役立ち指導を受ける&5kmラン。実にほぼ4週間ぶりの5kmランで、アミノ酸飲料を大量に飲んだものの日曜朝時点ですでに筋肉痛。

日曜。5時起きして某マラソン大会に初参加。ハーフに申し込んだものの、13km1時間45分の関門を1-2分差で超えられず、13kmで脱落。スタート時、最後尾につくために5分ほど待っていたのが命取り。
はじめてのコース、景色も良し、車道中央部を堂々走れるのも気分良かったので、時間のことなんてすっかり忘れていたのである。
沿道の声援なるものを浴びるのも初めての経験である。最後尾を走っているので、子供も含めてみなさんがきわめて慈悲深くお声がけくださる。ビリの役得である。
完全にマイペースを守り切ったので、何人か抜いて(!)、13km時点では後から30位程度にまでは格上げとなっている。めでたしめでたし。
帰路、実家に寄り、無沙汰を土産とマラソン話でごまかす。

年初の目標であるマラソン大会に初エントリーして走る、はこれにて達成。
来年はハーフを完走する、あたりを目標にしましょうかねえ、と思案中。
ああ疲れた。足も痛いし。お風呂に入ってもう寝ます。 おやすみ。

2010/11/15

ドラッカー再読

ここしばらくの間、なにかと不安要素が多かったせいか書けることもなかったんだけれども、まあひとまず短~中期的生活の安定が得られそうな運びとなって、この土日はぼんやりしていた。
呆けすぎるとそれにも飽きてきて、さてそろそろ何か学ばないとというような、まっとうな気持ちにもなる。
日曜の夕方にやっとそういう気になって、先週買って丈つめをしたスーツのパンツを取りに新宿に出向いたついでに紀伊国屋に寄って立ち読み。3階に行くのは久しぶり。

ビジネス書というか自己啓発本というか、そういった類の本からはしばらく遠ざかっていた。

よく覚えていないけれど、たぶん少なくともここ2,3年は。
どれを読んでも大して変ったことが書いてないように思えたからかもしれないし、あまり組織的な縛りの強い会社にいなかったから、悩みもなく余裕しゃくしゃくで趣味に重きを置いていたせいなのかもしれない。

それでも、10年前ぐらいから一応手元に置いていたのはドラッカーと、トムピーターズ、あとはふつうに松下さんとか鍵山さんとかで、ここらへんは思いだしたときにふと手に取ったりしていて、先週も、『凡事徹底』をめくって付箋をぺたぺた貼っては「そうだ、掃除だ!」とか意気込んでいたりした。

今回久しぶりに読んだドラッカー本は、上田惇生監修・佐藤等編著の『実践するドラッカー』といって、思考編と行動編の2冊からなっていた。思考編を昨日アマゾンで取り寄せ、なかなかよかったのでもう1冊の行動編を今日紀伊国屋で仕入れて、風呂につかりながら読んでいた。

いろいろと思うところはあったのだけれど、長風呂のせいでもう2時を回ってしまったから一つだけ。

成果は組織の外(顧客)からもたらされる、というくだり。

「知識労働者を管理できるのは、自分自身以外にいません。その際、貢献の焦点を自分だけに合わせていると、成果を上げることはできません。自らの貢献が、外の世界につながってはじめて、成果に結びつきます。そのときようやく、給料を吸い上げる人、コストとしてのヒトから、成果をあげる人になるのです。」(『実践するドラッカー 思考編』より引用)

ドラッカーの言葉としては、『経営者の条件』から以下引用されています。
「組織が成長するほど、特に成功するほど、組織に働く者の関心、努力、能力は組織の中のことで占領され、外の世界における本来の任務と成果を忘れていく」
「貢献に焦点を合わせることによって、自らの狭い専門やスキルや部門ではなく、組織全体の成果に注意を向けるようになる。成果が存在する唯一の場所である外の世界に注意を向ける。」
(『実践するドラッカー 思考編』より孫引き)



これってさー、考えはじめるとなかなか深いですよねー、と生産性皆無なコメントしかできずに睡魔に負けるわたし。

あ、そうそう、アマゾンレビューの星5つにつられて買った中で、もう一つの収穫は『QC数学のはなし 品質管理を支える統計の初歩』。文系にもやさしい語り口。QC検定とやらを受けてみようか思案中。

2010/10/12

朝型シフト

朝、5時に目覚めたので、イタイよう、と言いながらストレッチして、
日の出を待ってから、家を出た。
雲が厚いな、と思ったら、小雨が降っていた。
こんな日にかぎって、ぼうしをかぶってこなかった。
ちぇっ。
とか思いつつ、
糸井さんと池谷さんのほぼ日の対談を読んだ後だったので、
ときどき、おはしを横にくわえたみたいな顔をつくって、
にやにや笑いながら、
走った。

脈絡はないけれど、ときどき瀬古さんが思い浮かぶ。
いかんいかんと思いつつ、猫背ぎみなのだ。
瀬古さんイメージが浮かんだその瞬間だけ、しゃきんと背筋が伸びる。
しゃきん、にやにや。しゃきん、にやにや。
ああ、へんなひとっ。

朝型シフト、いっぽいっぽ。

2010/10/10

Marie

ほぼ週1で行く倉庫は大黒埠頭にあるのだが、無料送迎バスが横浜に着く。
帰路バスに揺られながら、ああそうだ、ドガがかかっているんだったと思い出して
金曜は閉館時間が遅くなる横浜美術館に行く。
ダンサーを描くなんて、いやつまり、もとから美しいものを美しく描くのなんて
短絡的じゃないかという思いが、現物を見るまで捨てきれなかったのだけれど、
やっぱりエトワールの光と空気感は良かったし、
病で視力を失いつつあったのを契機に使い始めたというパステル画が
どれも良かったのが個人的には意外な収穫。

14歳の小さな踊り子(彫刻)、とてもいいと思ったけれど、当時は相当非難されたらしい。
最近見つかったというスケッチには、同じポーズの少女が大きな丸い目で遠くをぼんやりと眺めているのだが、作品は目を閉じかげんにしている。
このほうが確かに、ずっといい。
没後に見つかった大量の彫刻。未発表だったということは、作家自身は、それは自分の本来の表現ではないと自覚していたということなのだろうか、それとも、自分のために作った、より愛着の深いものだったのだろうか。

最近どこかで読んだけれど、ドラッカーは「何によって人に記憶されたいか」を機会あるごとに自らに問うていたのだそうな。
大学受験のとき、小論文の、確か模試の問題に、同じような提題があった。
今ならなんと答えるだろう。

ドガは彫刻では人に記憶されたいと思わなかったんだろうね。
ただ、人に記憶されるための、ということではなく、
自分のための表現というのも、あっていいとは思うけど。

土曜、歯科。走るはずだったのだけれど、雨のせいにして家でだらだら。
日曜。ひきつづき、のらりくらり。夜、10km走る。
今申し込んでいる川越の大会は、時間制限がある。現時点では、かなりきびしい。
時間制限のない、茨城の大会を発見。1週間早い。同じコースを3周するらしい。
同じコースを、2回ならともかく3周するのは精神的に厳しい。
思いこみが激しい上に疲弊しているだろうから、2周目終了時点にして、3周したと勘違いすることさえ有り得ないともいえない。
時間制限を取るか、3周を取るか。微妙。
こうしてよたよたと走ることは、完全に、他人に記憶されたくない自分の一側面であるけれども、
ここにこうして記しているのは自己矛盾。

もともとこれが、日々生じては流れ、消えていく自分の記憶に対するひそかな抵抗であり、
他人にというよりは自分に向けた覚書だからだろう。
ただ、他人の目に断片的にとらえられる自分が、あの14歳の少女のように
夢想的にも意志的にも見えるふしぎな面差しであればいいなと、ふと思ったりもする。
あ、そうそう、モデルになったあの子の名前はMarieっていうんだって。

2010/10/03

56日

土曜夜、Jog5km,日曜、ブランク後はじめての10km完走。ウォームアップしている時に近所のおばさまが庭いじりをしていて、ずいぶん涼しくなりましたねえなどと話していたのだが、走り始めると日差しが夏並み。落合方面コースは走り慣れてはいるものの、アップダウンが激しくて、なかなかきつい。時計を見るのを忘れたが、1時間15分ぐらい。関門ぎりぎり。やばい。あと56日。豊島園方面は信号が多くて、長距離コースとしては、いまいち好きになれない。人どおりも多く道も狭いので、平日夜の短距離むき。
はじめてAmazonプライムを無料お試し。朝カルの話題にのぼったMilton FriedmanのFree to choose、あとこないだ丸善でpopを見たけど買わなかった小説2冊。If you follow me, The last child。昼前に頼んで夜7時ごろ届いた。その日に届くなら使ってもいいかなと思う。

どうでもいいけど、昨夜から部屋の中に蚊がいて、夜中にすきなだけ刺された。Jogから帰宅してやっと仕留める。ささやかな復讐心の発露。蚊の死骸を眺めつつ、久しぶりに憎しみに似た感情に出会う。のどかな時には忘れているが、縁があれば何でも出てくるブラックボックスが人間の内面である。
好ましい縁、自分を成長させる縁を選びたい。
またFriedmanによれば、それが経済の発展に繋がるのだそうだから、世のため人のため。
さて、ゴッホ展はいつ行こうかなあ。。

2010/09/26

新しいものよ、早く目覚めよ

落合方面walk and jog 6km.
今頃気がついたのだけれど、マラソンというのは朝走るなり。
いつも夜走ってるのは、朝はだるくて走れないからなり。
どうしよう。。。
あと62日で朝型にならないと。

電車に掲示してあった塾の吊皮広告の幾何の問題が解けた(中学入試問題なんだから当たり前だが)のに気を良くして、「幾何学入門」を買ってみる。
生涯何十回目かの数学トライ。今度は長続きするといいね。(苦笑)
ウィルソン「バイオフィリア」「生命の多様性」、ベルグソン「創造的進化」をぱらぱら。

多田富雄「寡黙な巨人」、これはすごい。多田さんは、ある意味脳梗塞で倒れた後の自分を別人と見ている。その視点が白眉であり、静かな中に決然としていて、鮮烈である。


「私の手足の麻痺が、脳の神経細胞の死によるもので決して元に戻ることがないくらいのことは良く理解していた。麻痺とともに何かが消え去るのだ。普通の意味で回復なんてあり得ない。神経細胞の再生医学は今進んでいる先端医療の一つであるが、まだ臨床医学に応用されるまでは進んでいない。神経細胞が死んだら再生することなんかあり得ない。
もし機能が回復するとしたら、元通りに神経が再生したからではない。それは新たに創り出されるものだ。
もし私が声を取り戻して、私の声帯を使って言葉を発したとして、それは私の声だろうか。そうではあるまい。私が一歩を踏み出すとしたら、それは失われた私の足を借りて、何者かが歩き始めるのだ。もし万が一、私の右手が動いて何かを掴んだとしたら、それは私ではない何者かが掴むのだ。

私はかすかに動いた右足の親指を眺めながら、これを動かしている人間はどんなやつだろうとひそかに思った。得体のしれない何かが生まれている。もしそうだとすれば、そいつに会ってやろう。私は新しく生まれるものに期待と希望を持った。
新しいものよ、早く目覚めよ。今は弱弱しく鈍重だが、彼は無限の可能性を秘めて私の中に胎動しているように感じた。私には、彼が縛られたまま沈黙している巨人のように思われた」
(多田富雄『寡黙なる巨人』より引用)

2010/09/24

プラシボ

会社が品川になったせいで、6:30に新宿の朝カルに到着するのは若干厳しくなった。
でもいいのだ。論文の話は後半だし。
今日はScientific Americanのプラシボの話でしたよ。
ホメオパシーの話なんかもちょうど気になってたところだったし、面白かった。
Placebo Effect: A Cure in the Mind

単にその薬を信じているから偽薬が効く、っていうだけでなく、
白衣のドクターに治療してもらったら回復したというような過去の経験などから、
無意識が作用するところがプラシボの深いところなんだなあ。
(素人が書くとろくなことがないので、このへんでやめておきますが。)

先生が話せば論文も面白い、ってのも、たぶんプラシボ効果ですねえ。

2010/09/22

本日の

コースは高田馬場方面10km...
になる予定。

しかし、ねむい。。

2010/09/20

開拓

3時ごろから新コース開拓に出る。練馬・豊島園方面。
はじめてのコースは昼間に1度は走っておかないと心配。
グーグルマップで3回ほど道なりに地図を確認して出た。ほんとうは10kmコースだったはずなのに、道に迷って5km過ぎから歩く。手先の感覚が変なのが気になったのも手伝って、結局8kmほどになってしまった。なんとか帰宅。おなかがすき過ぎて、シャワーから出るなり冷蔵庫に残っていたカレーを温めブロッコリとかぼちゃにかけて食す。いい具合に満腹になるが、ここで眠ると夜中に目覚めて明日の日中がつらい。実家に電話するも覚醒せず。しかたがないので、あくび連発しつつ新宿に出かけてセールで新ウエア購入。1代目のリストウォレットのジッパーが錆びて開かなくなったので、2代目も購入。いざというときのために、小銭などを入れておくから、必需品。
ねむ。おやすみなさい。

朝ごはん

豆腐(小3パックで100円ぐらいの)1パックを手でつぶして皿に盛る。その上にみょうがみじん切り、もずく1パック、きゅうりのスライス、ゆずポン少々、そしてお茶漬けのり1食分をかけて食べる。
かんたんおいしい。しらすなんかを振ってもいいね。
お茶漬けのりは、梅とかワサビ野沢菜風味なんかがいいかもね。
主食はロールパン1個とバナナ。それにカフェオレ。
本日の朝食でした。

2010/09/18

sweetness of doing nothing

としまえんで映画を見る。ジュリアロバーツが自分探しする話なんて趣味じゃないんだけれども、イタリアとインドとバリを旅する話だったから、旅行に行くかわりに見るか、、という安易なチョイスだった。が、まあそれなりに悪くなかった。「コレラの時代の愛」の狂いっぷりが印象深いハビエル・バルデムが普通のバツイチ男役で出てたしね。sweetness of doing nothing 、こういう言葉に共感できるようになったのって、やっぱり歳とったからかな。がんばらないほうが、なにかと上手くいくことが多い今日このごろ。
でも、連休中走りこみだけはすることにした。Jog5km。ハーフマラソンデビューまであと69日。

2010/09/12

一村

昼ごはんを食べながら某氏のつぶやきを見ていたら、
田中一村展がいいぞと書いてあった。
26日まで。今日行かないとチャンスはなかろうと思って、
食後、そそくさと身支度して千葉市美術館に出かける。

千葉って、結構遠いんだ。
錦糸町で総武線の快速に乗り換える。
ブコウスキーも持参したが、目から何か入力しようという気にならない。
イヤホンをして、このところのお題であるMichel SandelのJusticeの
著者本人の朗読を聞きながら、揺られていく。

駅から歩いて10分あまり。
鮮やかな緑で南国の植物が描かれたポスターが入口で迎えるように掲示してある。
植物だけでなく、鳥も描かれるが、動物より植物のほうが、より動的に見える。
花びら、葉の1枚1枚が異なる表情を持つ。
紅がかった菊を見ていたら、次第にそれが短髪の女性の顔に見えてきたりする。
水墨画のような陰影もあり、シンプルな線が版画的、または漫画的でもありながら、
そこに思いがけず鮮烈な色が添えられる。
余白と配置の妙。
そして、画面の中から、何かの、または誰かの声が、
いやオースターいうところのVoiceとでもいうものが聞こえてくるようである。

このところ、休日になると文房具屋を見て回るという
かつての習慣が復活していて、
昨日もいくつか回ったのたが、
性格的に、さりげなく買いものを楽しむというような見かたができず、
気にいったものを見つけると、
つい手にとっては、じいいっと凝視してしまう。
1回では足りなくて、これを数回やる。
あんまり長いことためつすがめつしているせいか、
しばらく時間が経過すると店員さんが寄ってきて、
お探しですかなどと話しかけられる。
いえただ見ているだけでとも言えずに適当な作り話をするわけだが、
そこへ行くと美術館はいい。
お気に入りの作品の前をどれだけ行ったり来たり眺めていたって
誰も邪魔したりしない。

そう、展覧会の話だった。
説明書きはほとんど読まなかった。
そんなものはいらない。ただ、いいものはいい。

最後には「アダンの海辺」「不喰芋と蘇鉄」が待っている。
立ち去りがたい。
画集は色が悪くて求める気になれず、
せめてもの土産に特大のポスターを入手して帰る。

2010/09/06

町でいちばんの美女

ブコウスキーを読もう読もうと思っていたのだが、先週の土曜に病院に行った帰り、丸善で立ち読みをしていた本に「町でいちばんの美女」が云々、と出てきたのが直接のきっかけになって、新潮文庫を買った。

題名からして、それに冒頭から濃厚になまめかしい。この暑いのに。ついつい目が流れ流れて、行間を読むどころか行を飛ばして読む格好になった。
駅に着いたので、いったん本を閉じて電車を降り、バスに乗ってから、気が進まないながらも、再度開いた。
しおりなぞは使わないし、殆ど字面を追っていただけだったから、どこまで読んだかなんて忘れている。
適当なところまでさかのぼってみて、ふと目に入ったのが「帽子用のピンで小鼻を刺す」くだりだった。
あまりの展開の急なのと、その思いがけなさと、そして痛みとで、きゅ、と身がすくむようで、そのあとは脇目もせずに読んだ。掌編だから、そう時間がかかるわけでもない。この急展開と痛みとが最後にまたやってくる。強烈な話である。

今思うと、電車に乗っていたときは、この「鼻」のくだりを飛ばして読んだのだ。
我ながら、ひどい話である。

大切なことをたくさん取り逃がしているにちがいない今日この頃。しばし反省。

日曜。久々に、5km完走。もう呼吸はつらくなくなった。
つくばはやめて、川越にしようかと思う。

2010/08/29

Take it easy

夕方、やっと外出する気になって、高円寺に向かったところが、
いつになくバスが混んでいる。ゆかた姿の女性が多い。
花火か、と思いきや、到着してみると阿波踊りだった。
どん、どん、と腹に響く太鼓の音。きらきら光る金の団扇。
ちゃんかちゃんか、とステップを踏みながら進む、はっぴ姿の連の人たち。
駅前広場から、まっすぐどこまでも伸びていく沿道の人の群れ。
近くに住んでいながら、いままで一度も見に行ったことがなかった。
高円寺も、なかなかやるじゃん。
駅も普段お目にかかったことのない混みようだった。
上からのほうが少しは遠くまで見えるので、しばらくホームから雰囲気を楽しむ。
とはいえ、混む、並ぶ、待つが嫌いな性質なので長居もできず、中野に避難。
こちらは、日曜の夜にしては、いつになく空いていた。
みんな高円寺に行ってしまったんだろう。
ユニクロと雑貨屋さんをうろうろして、帰宅。

せめて週1ぐらいでジョギングしないと、またなまってしまうから、
ごろりとする前にウエアに着替える。
3ヵ月余のブランクがたたって、続けてはまだ3km程度しか走れないが、
最低5kmはノルマだぞと記憶するために、残りの2kmも歩く。
案の定、てろてろ歩くのも時間がかかるから、途中で走りたくなる。
次回は5km行けるかな。
5km走れれば、その次の次ぐらいには10kmも行ける、と去年の経験から思えるところが、
積み重ねのチカラ。
物事は繰り返すほどに容易になる。

先週、前職でお世話になった方からメールをいただいて、Take it easyでね、と結んであった。
その時は、そう言われても、、と思ったのだが、
Take it easyとはつまり、何事も、回数こなしているうちに、
楽になるよということなんじゃないかと勝手な解釈をすることにした。
(小心者なので、そうとでも思わないと、仕方がない)

走りながら、朝カルで見せてもらった、というか、
たぶんブログでずいぶん以前にコメントされていた時点で
ライブを見たTEDの裸踊りと、今見てきた阿波踊りが、
エクセルの「ウインドウを並べて比較」状態になって、同時に頭の中で動いていた。
どちらも、踊るのは阿呆。素敵な阿呆たち。

2010/08/22

やっぱりハーフかな

手帳の記録で確認できる限りでは、3ヵ月半ぶりのジョギング。
転職や、なんやかんやで、すっかりサボっていた。
昨日は3km走れなかった。
呼吸が苦しくて、すぐ顔が真っ赤になるわ、足が前へ出ないわで。
悔しい。なにが悔しいって、すぐ筋肉が衰えてしまうのが悔しいし、
すぐ呼吸のしかたを忘れるのが悔しい。
今日は筋肉痛の中、walkingしながら、なんとか5km。
ホノルルなんぞと言ってたけれど、フルマラソンへの道のりは遠いなあ。
ハーフにしようか。

西洋美術館の常設にドニを見に行く。
踊る女たちを見る。
この緑と、このすべて縦長、面長で平面な感じがなんともいえない。
水浴は、どこかで見た色遣い。でも嫌いじゃない。
雌鶏と少女、は、うーん。ジャポニスムなのかな。微妙。
たくさん所蔵してるんだから、もう少し展示してくれるといいんだけどね。

2010/08/18

てっちゃんの時代

とても久しぶりに「てっちゃん」と呼ばれて、
脊髄反射的に「はいっ」と気合いの入った返事をしてしまう。
そう呼ばれるのは高校卒業以来なんじゃないだろうか。
妙に新鮮なり。
しかしこの歳になって「てっちゃん」とはね。
ま、いっか。

2010/08/15

呼吸とか

今年はホノルルマラソンにでも行きたいなあ、とは思ったものの、おそらく休めないだろうし、予算の目途もたたないから、とりあえず近場で、つくばマラソンにしようかなどと考えつつ、夕方から新宿で紀伊国屋に寄り、そこから恵比寿まで足をのばして写真美術館で地球交響曲7番を見る。お目当てはアンドルー・ワイル博士。人間の自発的治癒力を重視し、ケミカルだけではなく、合理的であれば伝統的治療法も取り入れる統合医療とよばれる手法でアリゾナ大学を拠点があるそうだ。笑顔とヒゲがすてきなおじさんである。
といっても、今朝はじめて知ったので、まだよく知らない。とりあえずアマゾンで著書を3冊ほど注文。
以前の「交響曲」に出演していたアーヴィン・ラズロと、これは何故買うことにしたか忘れてしまったけれども谷川さんが加藤さんという人と対談している呼吸の本というのも買った。
息切れとかではないのだが、どうも昔から、胸が苦しいのである。気がつくと息を止めていたりする。そういえば、ワイル博士も患者に呼吸法を指導していた。
これから加藤メソッドを試してみるなり。

2010/08/01

ひねもすのらりくらりかな

冷房をかけた室内で、TVをかけっぱなしにして、書類整理なぞをしながら過ごす。CMが煩いので、ときどきユーチューブに切りかえて、最近発見したフロスト警部ものを見たりする。フロスト警部は10代の頃愛好していたはずだが、文庫本表紙の似顔が強烈すぎて、たとえどんな俳優さんが演じても違和感があるに違いないと思う。

ラフマニノフのピアノ協奏曲2番。こちらも10代の頃はとても好きだったはずだけれど、久しぶりにかけてみると、冒頭の重低音を聞いたとたん胃のあたりが重たくなる。あわてて同じラフマニノフでも交響曲2番の3楽章にCDを交換。こちらは身体に異変はもたらされず、安心。こちらも1楽章の最初は重いけれど、先ほどのピアノ協奏曲ほどでもなく、すぐに救われる。
そのうち、モーツァルトしか聞けない身体になったりするんだろうか。それもつまらない。

先日あんめるさんのブログに書かれていたエリュアール「自由」を探してみる。日本語ももちろん良いが、気に入ってしまって、ジェラール・フィリップという人がフランス語で朗読している動画まで探しあててしまう。明日あたり、職場のパーテーションに、ひっそりこの詩を貼って、ときどき眺めたりするかもしれない(笑)
まあいくらなんでも、これだけ繰り返されていると「ぼくは君の名を書く」というフランス語ぐらいは分かるようになる。こんな詩から教えてもらっていたら、フランス語のことをもう少し好きになっていたかもしれないなあ。

ともあれ、なんにしろ、あんめるさんの感性に出会えた学生さんたちは幸せだと思う。

自由  ポール・エリュアール

Gérard Philipe - Liberté (Paul Eluard)

2010/07/26

海がある

新職場は予想よりも外勤が多かった。
割と近く(片道1時間強)に倉庫があるせいで、先週なんか2回も倉庫に行った。
薬品もあるから冷房もきいていて、倉庫の中にいる分には、さして苦にならず。
(来るべき冬は、寒いらしい。)
埠頭は道だけがだだっ広くて、人影もない。
バスを降りた後、トラックなぞにはねられた日には、しばらく誰にも気づいてもらえなさそう。
でも、オフィスでじっとしているよりは、動いてるほうが好き。

空だって街なかよりも大きいし、夕焼けもきれい。
なにより、潮の香りと、海がある。

2010/07/25

いい猫

写真家の岩合さんのサイトは実においしい。
会員登録すると、いい猫たちにたくさん会えるなり。
なごむー。会社で壁紙ダウンロードしよっと。

(有名どころですが、ダカフェ日記も好き。ほら、みて、このりりしい犬。素敵っ。)

こんな日は

こんな日は手紙を書きたいな。

メールでなく、たまには手書きで。
むかし文房具に凝っていた頃に買った、
柄にもない、ずしりと重たいペンを持って、
便箋だって、ちゃんとある。

でも思いはうまく言葉にならず
回転木馬さながら巡りめぐる。

頬づえのまま、しばし時間が流れ。
無理に言葉にしなくてもいいさ、と
落ちつくころには、もう陽も傾いている。

なんて文章だけ見ると
まるで中学生か高校生のような青さ。
気だけは若い、なんて、よく言うけれど、
ほんとだね。

2010/07/19

Dance, Dance, Dance

ガストでモーニングを食べながら、K先生ご推奨のJulian Barnes 'The Pedant in the Kitchen', 某作家さんご推奨の西東三鬼「神戸/続神戸/俳愚伝」を読む。どちらもおいしい。いや、おもしろい。
バーンズは、ペーパーバックにした。(邦訳の約半額と、単に安かった。)分からない英単語を全部辞書で引いて、スパイスのきいた文章を堪能。普段、趣味で読む洋書は、多少分からなくても読み飛ばして、6割理解できればいいや、という雑駁な読み方しかしないので、これはささやかな贅沢。
昼から買い出し。本郷は、テキトーな服を着てうろついていても何ら違和感のないフレンドリーな土地柄及びオフィスだったが、新職場では、この建物にこの服で入っちゃあいかんだろう、という無言のプレッシャーがかかり、結果的にお金もかかる。まあこれも自己投資。

3連休で、充電済み。明日からまた、戦うなり。いや、戦うっていうより、踊るのか。
Dance, Dance, Dance.(村上作品は未読。)

The Beach Boys - Dance, Dance, Dance

Mr.Children「DANCE DANCE DANCE」(live)

The Dells - Dance Dance Dance

2010/07/18

Miracle apples

木村さんの「奇跡のりんご」英訳
Akinori Kimura’s MIRACLE APPLES – Chapter 1/24

おいしい珈琲のいれかた

twitterで紹介されてました。茶筅の登場に爆笑。でも、思えば自分も抹茶ミルク作るとき、茶筅でたててました。珈琲でやっても、おいしそうかも。

藤岡弘の珈琲

2010/07/17

1週間

新職場に行って一週間。
長かった。
今週から入社したはずなのに、部内ミーティングと歓迎会の席で、7/1から入りました、と2回も間違えて自己紹介した。相変わらず、妙なところでボケている。
いい加減、転職には慣れているはずなのだが、新しい場所と人と仕事の中で、それなりにいっぱいいっぱいだった。
3連休が救い。


うれしかったのは、原美術館が裏手にあるところ。
好きな場所だったけれど、ここしばらく足が遠のいていた。
仕事帰りに立ち寄れそう。

2010/07/10

イカロスの墜落

つい、TVでかかっているブリジットジョーンズの日記を見てしまう。
どうがんばっても天然にあほなところ、当たって砕けてしまうところが他人事とは思えない。

実家を出て以来、つまり20年ぶりぐらいで井上ひさしを読む。「一週間」。うちの父上は東北の出身で、若かりし頃に戯曲を書いたりもしていたから、かの作家さんが好きで、小説は実家に山ほど転がっていた。最近亡くなったと聞いたら、なんだか懐かしくなった。
生きている人の言葉より、もうこの世にいない人の言葉のほうが、より確からしく聞こえるのはどうしてだろう。最近の文芸春秋に掲載された「絶筆ノート」の中で、井上さんが自分の書いてきた言葉に責任を取りたい、と語っていたのを思い出した。

シャガールを見に行く。ここにもカンディンスキーの風景画が数点展示されている。ドキュメンタリー映像は全部は見なかったが、アンドレ・マルローはシャガールをして「腹に響く」と言ったらしい。あの赤であり、青であり、黄色であり、あの曲線が、たしかに身体の内側に響いてくる。展示の最後にあったイカロスの墜落の前でしばし佇む。たとえ墜落したとしても、高く飛べて、イカロスは幸せだったんじゃないだろうか、と、あのシャガール特有の、抑揚のない表情を眺めながら思う。
世の敗者および永遠の未熟者に幸あれ。

2010/07/07

いっつあすもーるわーるど

スモールワールドネットワークという語を聞いたのは、もうずいぶん昔の話だが、ああ、ほんとうに、と思ったのは、夕方、海外社外宛に、のばしのばしにしていた一斉挨拶メールを送ったら、気さくな外人さんたちから予想外のレスポンスがあって、やっとこさ軽くなりつつあったメールボックスがみるみる未読の赤に染まり、最終日というのに6時を過ぎても帰れなくなったころのことだった。
客先からも反応があった。次の会社はどこですかとA社のXさんとB社のYさんから尋ねられて、C社の予定ですと答えたら、ああ、そこにはぼくの知り合いがいてZさんです、とお二方が同じ名前を挙げられた。A社は関東にあり、B社は関西にある。XさんとYさんの年代も微妙に違うから、二人が知り合いの可能性は低そうだ。
離れた2点が3点目を介在して面になり、4点目を加えると立体になる。
仕事がらみというのも、意外におもしろいんだよなあと、お別れのどこかさみしげな気分が、ぽん、と弾んでほくほくする。ずっしりとしたピンクの花束をいただいて、おいとまする。

2010/07/06

携帯の

電池のもちが悪くなってきた。普段なら気付かなかったのだろうけれども、転職活動の最中、夕方になると充電が切れてしまうというのはいただけない。だいぶ長く使ったような気もするし、ポイントも溜まっているはずだし、で、そろそろ、とショップに買い替えに行く。

基本的に電話とメール、たまに写真が撮れれば満足なので、シンプルで軽く小さいのにした。
データフォルダの中身を新携帯に移してもらって、確認してください、といわれるので、見てみると、ずいぶん昔に撮った実家の猫(すでに故猫)の写真が出てきて、しばしほろりとしたりする。

使用済携帯のリサイクルに同意すると、ショップのおねえさんは「5年も使っていただいたのに、傷も少なく綺麗に使っていただいて、携帯もよろこんでいると思います」と言ったあと、近くの機械でガガガと携帯の中央部に穴をあけた。

モノに魂がないなんてのは、嘘じゃないだろうか。身近なものが、仕事を終えて、自分のもとを去っていくときには、なにかしら、空気が震えるような気がするのである。

現職をやめると決めたあとが、結果的にいままでで最も残業をした時期になった。2年3カ月の間に溜まりにたまったまま未整理だったメールを保存してから消去するために、一通一通、いちおう見てみないと気が済まない。勢いで消してしまったものもあるが、夜も更けて、ひとりフロアに残ってdeleteボタンをクリックし続けるときには、どこかしら、あの使用済携帯の真ん中に穴があいたのを見たときと似たような感慨をおぼえるのである。

ともあれ、明日が最終日。

2010/07/04

ドラマ

の中で警察モノが占める割合の高さってなんなんだろう。最後は権力が勝つって大衆を洗脳したいんだろうか。

2010/06/30

ジャージャー麺

有給最終日。昼前から出かけて「告白」を見に行く。人生なんて、吐くほど慟哭した後に「なんてね」と立ち上がり、何事もなかったかのようにすたすた歩いていくようなことの繰り返し。そこだけ共感。
本屋に寄ると、「こんな映画に1800円出せるか!」と書かれたポップが立っている。よく見なかったがきっと映画の原作本コーナーか何かだろう。反射的に、「こんな本を読むのに2時間以上かけていられるか」という逆バージョンもある、と思う。

縮毛矯正をかけに美容室に行く。いつものおにいさんと、もろもろ話し込む。おにいさんは、ぽっちゃり色白、料理が御趣味、マッサージもお上手という、一家に一人、ぜひ婿にお迎えしたい好人物である。
たまに他の美容室に勉強のため偵察に行くそうで、ご職業は?と聞かれたら美容師ですとは言えないから、職業詐称するんですという。で、なんて言うの?と聞くと、IT技術者ですとか、クレープ屋ですとか。クレープ屋はありだけれども、こんなに罪のない笑顔のIT技術者なんて世の中にいそうにないと思って、なんでそうなのか聞いてみる。自分のお客さんにIT技術者がいて、その人の話から類推していろいろと作り話をするらしい。困った話になったら話題を変えるとか。IT技術者にはどうしても見えないから、会社員にしたいなら営業とかにすれば、と、つい余計なコメントをする。今にして思えば、看護師さんとか、介護士さんとかのほうがそれらしい、と思う。
3時間強の施術の間におばさんがビニール袋を持って、おにいさんを訪ねてくる。袋の中身は、ジャージャー麺の味噌だれを作ったから食べるべしとの差し入れ。この前、髪をしたときに、レシピの話をしていて、こんど作ったら持ってくるとおっしゃってたんです、原稿用紙1枚分ぐらい感想文を書かなくちゃという。やっぱり好人物である。もしくは、天然のおばさんキラーである。

2010/06/28

Starry night

暑い。。。
土日、あまりの暑さに身体がついていかなくて、巣籠り化していた。
せっかくの有給にこんなことでは、と、今日は昼からやっとこ起きあがって、国立新美術館のオルセー展に行ってきた。

平日午後でも、混んでました。
(土日に行かなくて、ほんとによかった)

いわずと知れたゴッホ「星降る夜」は、どれだけ見ても飽きないけれど、今回は、ヴュイヤールの「ベッドにて」、ドニ発見、といった感じ。相変わらず、ルドンも好き。
ベッドにて、で眠ってる子は、なんだか奈良美智さん作品に出てきそうな顔をしている。

帰りがけ、渋谷に寄る。カンディンスキーの風景画、という珍しいものに出会って、しげしげ見てしまう。誰しも人知れず意外な一面がある。

2010/06/21

お世話になって...

夕方、いいかげん疲れ果てながら、仕事のチャットをしはじめたら電話がかかってきた。受話器取って社名を言って、「いつも、お世話になって」と言いながら、チャットでは「いま電話がかかってきたので、後で連絡します、すみま...」まできて、「せん」、と打ったら、「お世話になって....おりま...せん」と言ってしまった、ような気がする。もごもご話していたから、ばれなかったかしら。そのあと何事もなかったように普通に会話が続いたような気がするので、だいじょうぶだったのかしら...(汗)
いくつになっても、うっかり者で、ほんと、困ります。

昼休み、職場の近所で猫に会えた。トラ2匹。10分ほど道端で戯れる。餌をやらなくても一緒にいてくれるんだから、いい子たちである。ありがとうね。

 












2010/06/20

father's day

父の日。母の日の翌月に父の日があるのは何かの陰謀ではないかと思う。1年ごとに母の日と父の日を交換したらいいんじゃないか。母の日だけ実家に帰り、先月行ったし、と父の日に行かないと恨まれてしまう。
そんなわけで、行かねば、と思いつつ、この梅雨だるだし、行ったら行ったで嘘も下手だから、つい転職活動してまして、なんて話をしたら、根ほり葉ほりになるのも煩いし、ああでもないこうでもないと思案していたら夕方になってしまった。
7時を過ぎて実家に電話すると母が出る。父は「こないなあ」と恨みごとを言いながら、早くも寝てしまったそうである。父上、かわいそうである。ごめんと言うと、こんど9月の誕生日にフォローすべしとのこと。はいはい。
オノヨーコさんが呟いているように、この難しい時代に、父であることを選んだみなさんは、すでにその決断だけで、すばらしい。母もまた同じ。みんなえらい。父でも(あたりまえだけど)母でもない自分はそれだけで何か人間としての責務をサボってる気はしますが。ま、なんとか、がんばります。

遡って、午後。同じ派遣会社で、2年半ほど前、一緒に研修を受けた子と久しぶりに電話。彼女は理系で留学なんかもしているので、最初から希望のRAに行った。あたしも、こんどこそRAに行く、いや後々RAに転属できそうなら入口はQAでもいいので、情報よろぴく、と言って終話。こういうのは、相談にのってもらうだけでも、なにかとありがたいものである。

2010/06/19

プリズナーNo6

光回線を入れて、昔よりテレビを見るようになってしまったのだけれど、プリズナーNo6というドラマが微妙に面白い。セットもいかにも古風だし、リアリティは追及していない作りだし、おまけに吹き替えという悪条件が重なってるにもかかわらず、見続けてしまうのだから、どこかが相当面白いのだろうと思うのだけれど、それがどこなのか、まだ分からない。そのうち分かるかしら。

2010/06/13

オルガン付きとか、どこでやめるか、とか、その他もろもろ。

土曜。歯医者に行ったあと、N響のコンサートを聞きに行く。例によって会場に着くまで、チケットを購入した動機を忘れているのだが、今回の目的はサンサーンスのオルガン付き、だった。いままでのコンサートの中でいちばん奏者に近い席。袖とはいえ、最前列。コントラバスが目の前に。第2ヴァイオリンの席の後ろにヴァイオリンがたてかけてあるのも見える。そのかわり、アシュケナージさんが、ちらりちらりとしか見えないことに始まってから気がつく。
フォーレの「ペレアスとメリザンド」も、オルガン付きも、良かった。これも始まってから気づいたのだけれど、オルガンは頭上に配置されているから、ガーン、とばかりに脳天から降ってくるし、コントラバスのぼん、ぼんという響きはお腹から迫ってくるしで迫力満点。もともと好きな曲だったし、満足。

日曜。「新しい高校化学の教科書」「大学生物学の教科書」と、桜井章一「負けない技術」を読みながら、テレビを見る。桜井さんの本には、しごくまっとうなことが書いてある。動物の末裔として、人間にも、生きていくために必要な程度に「負けない」本能は備わっている。無理に勝ちに行こうとせず、負けないようにするには、本能が必要程度に働くように、身体と精神を整えておけばいいのかな、と思う。
これは高校時代に申し訳程度に入っていた部活の卓球に通じるものがある。ピンポン玉がフォア側にきてもバック側にきても対応できるように、相手が打ち込んでくる前に、身体は卓球台の真中に戻ってきているのが理想的。それさえできていれば、あとは自分の反射神経と技術の問題になってくる。


最近、どこでやめるか、ということを考えていた。
転職の話ではなくて、いや仕事の話とも関係はないわけではない。
仕事そのものであったり、その中で細部について分からないこと、というのは、追っても追っても出てくるものであって、それをどこまで追いかけるか、あるいは、ある程度分からないまま、どう適度に溜めておくか、ということを考えていたりもした。

北村薫さんの作品だったと思うけれども、料理屋さんのショーケースに飾る、確かお寿司か何かの本物と見まがうほどのレプリカを作る職人さんに、「何にいちばん苦労しますか」と聞いたら、「どこでやめるかですね」という答えだった、という話を、ときどき思い出す。

前にギルティーフリー商品、という言葉を聞いた。考え方を否定するものでは全くないけれども、結局のところ、「完璧で、キレイで、環境に配慮した製品を使用しているのだからわたしに罪はありません」というような、形式的で浅薄な潔癖主義みたいなものを、職業的にはやむを得ずそうするしかないけれども、個人的には好まない。

過日The COVEも最後まで見た。あそこで問題視すべきは、あれを見て「あら、そんなイルカの大量殺戮なんて知らなかった」などと、社会的あるいは人間的な罪に無関係を装う精神のありようのようにも思う。実際にイルカを殺していなくたって、牛を食べてるかもしれないし、肉を食べていなくたって樹木や野菜を伐採して、そういう意味では殺しているわけだから。

そういうことを全部ひきうけて、それでも地球は回っていて、それでも、人間は生きている、という、ある意味、人智を超えた、べつに宗教的な意味で言うわけではないけれども、いわゆるhigher planとでもいうべき世界存在と人間存在の不可知性に天を仰ぎつつ、地を見て、そして近くにいる誰かと手を携えて歩み続けるしか、ないんじゃないかと。

2010/06/08

まるくてふかふかな

突然世の中から猫が消えてしまったんじゃないかと思うぐらい、このところさっぱり猫に会えない。
あのまるくてふかふかな頭をなでなでしたいのだけれども。
おかしいな。どこいっちゃったんだろ。

母をうまく買収して、実家でもう一度飼ってもらうしかない。

明日は英語で面接なり。まじめにやばい。。。
頭が真っ白になったときのために、メモでも持っていこ。

2010/06/07

曇りときどき雨

先週のテンカツの成果物として、5時を過ぎたあたりから、派遣会社からやたらとメールがきて、せっせと返信してアポを取る。
生まれてはじめて英語で職歴書を書く。EnglishCVといわれたけれど、どうせresumeと同じだろうと思っていたら、微妙に書くべき項目が違うらしい。英国系の派遣会社だからEnglishCVときたわけか、なるほど。いろいろ勉強。ネットで見つけたフォーム通り、ほとんどテキトー。とりあえず完成。まあ何事も100点を狙ってはいけない。最初はコケたっていいのだ。
問題は面接。全部英語でやられたら、たまらない。しゃべれないもん。最初に、あたしのは、ほら、曇りときどき雨、というか、さばいばるいんぐりっしゅ、ときどき沈黙、ですから、とかって笑いを取ってから始めようか。いや、笑えない。。

2010/06/06

たまに

会いたくなるのだけれど、そんなときに限って、なかなか会えないものである。
携帯も持ってくれないから、声も聞けないし。
どこに住んでいるかも、よく知らない。
やはり一緒に住んでいないと、会いたいときに会えないのかも、とは思うけれど
行動範囲に比して家が狭すぎるから、いつも拘束するのも悪いと思う。

夜道をとぼとぼ歩いても、会いたいときには、さっぱり縁がない。

猫の話である。

2010/06/04

少しずつでも成長しないと

日本の派遣会社はみな言うこともスキルチェックテストも同じなので、次第に飽きてきた。
しかし。こういうものは数撃たないと当たらないので、好ましいレスポンスが相応件数溜まるまで、続けるしかない。
はじめて、英語で募集広告が書いてある派遣会社に登録してみる。なんか楽しいことあるかしら。ついでに正社員募集にも応募してみた。
年とともに、少しずつでも成長しないと。(正社員になることが成長、とは思っていないけど。)

2010/06/02

るるん

週間予報によると天気もよろしいようなので、有給消化に入る。5連休なり。平日休みっって、それだけでなんだか快感。次の仕事もそろそろ決めるけど、1日ぐらいは山登りにいこうっと。また高尾山かしらん。かの地はお手軽さがいいよね。でも、たまには千葉方面にいこうかなあ。たしか低めの山があった、ような。。

2010/05/31

Pale Blue Dot

とうふを半丁食べると、けっこうお腹がいっぱいになるものだなあ。
めんたいこ、きゅうり、もずくにポン酢、マヨネーズ、ゆず胡椒少々を加えて、ぴちゃぴちゃっとつぶして食べると、これだけで夕飯に充分なり。きょうはこれに、みょうがのみじん切りをパラパラとふりかけた。
しばらくこれでダイエットしよう。

Audibleで、カール・セーガン「コンタクト」のナレーションをジョディ・フォスターがしているのを発見して、やっぱりこれは聴かなければいけないでしょう、と早速今月のクレジットで入手。
サンプルはあらかじめ耳にしていたものの、いざ、通勤電車で流し聴きはじめて、いまさらながら。
なんなんでしょうか、この気合いのこもった朗読は。
ねぼけた朝だったから、余計刺激が強かったんでしょうか。
もう、「気合い」としか言いようがない。気合いが入りすぎて、早口で聞き取れないという難点はあるが(苦笑)

Contact
べつに、回し者とかではありませんが。サンプル聴けます。

カール・セーガンつながり。
Carl Sagan - Pale Blue Dot

2010/05/30

Find a voice

新PCに買い換えたとき、何か操作を誤ったとみえて旧PC使用時ipod に入れてあったデータが全部聞けなくなってしまった。旧PCはディスプレイがいかれてしまっているせいで、データを新PCに移すのも面倒。。と思いつつ、放置していた。今ipodに入っているのはシベリウスとハチャトリアンのヴァイオリン協奏曲、Kazuo Ishiguroのオーディオブック2冊。いいかげん飽きてきたので、itunesからpodcastの登録をしなおしていた。
卒業式祝辞というのはよく聞かれるものらしく、中に名前を知っている人がいたので聞いてみた。ジョン・グリシャム。卒業生の中に奥さんがいるらしく、その縁で祝辞を述べているのかもしれない。
John Grisham Commencement Address
前半はテレビを見ながら流していて、中盤でも、週に1度は家に電話しなさいね、月に1冊は本を読みなさいねと割に月並みなことを言うものだと思っていたのだけれど、14分を過ぎたあたりから、興味をひくことを言いはじめた。というか、以前に作家/翻訳家の柴田さんがvoiceということについて、どこかで言っていたか書いていたかしたことを思い出したのもある。

グリシャムさんの祝辞(きわめて大意、まちがってたらごめんなさい、カッコ内は当方コメント)
作家がもっとも苦心するのは小説の筋でもキャラクターの作り方でも、他のもろもろでもなく、「Voice」を見つけることである。これさえ見つかってしまえば、言葉は流れはじめ作品はできあがり、その結果として、読者からの評価もついてくる。
(Voiceというのは実際に話される言葉そのもの、ノイズ、sound,音そのものでもなく、通奏低音みたいなものを言いたいのだろうと思う)
Voiceに必要な3つの要素があると思うが、1つには明確であること、スタインベックの小説は、筋は悲劇的であったりキャラクターは複雑であったりするけれど、Voiceは明瞭であって(わたしは読んだことないのでよく分からないが、、)グリシャム氏は今もそれをうらやましく思っているそうである。2つにはディテールに信憑性があること、経験に裏付けられていること、3つにはそれが真実であること。たとえ詳細に描写されていたとしても、そこにvoiceのないものは読まれない。
人生で言えば、voiceを見つけるとは、真実をもって語り、書くこと、といえるだろう。一人ひとりがそれぞれオリジナルな、独特のvoiceを持っている。
それを見つければ、物語は語られ、聴衆の多寡にかかわらず、聴かれるに違いない。

2010/05/28

フライング

派遣会社と話をつけて、やっと待望の1month noticeをする予定だったのだけれど、思わぬ方角からフライングされてしまって、出鼻をくじかれた。いや、しかし。こんなことで挫折してはいかんでしょう。
いまは貴重なハイモチベーションの時期ですからね。。ここで辞めないと、またずるずると。
メディカル系の派遣会社にエントリーを送りまくる。財政上の問題で、空白期間は置きたくないしね。。。がんばれ。

2010/05/27

うまくゆかないものにしか原因はない

内田先生の『街場のアメリカ論』を買って、カフェで昼ごはんを食べながらつらつらと読んでいて、ジャック・ラカンの至言というくだりに行きあたった。

「原因とは、うまくゆかないものにしかない」。

内田先生は続けて、「「原因」というのは、「原因がわからないとき」にだけ人間の脳裏に浮かぶ概念なんです。」「ですから、「この出来事の原因はこれこれである」という説明が教科書では当たり前のようにさらりと書かれていますけれど、「原因」ということばが使ってあるときは注意が必要ですよ。「原因」ということばを人が使うのは、「原因」がよくわからないときだけなんですから」。(引用)

これは歴史の話をしている流れで出てきた文章ですから、必ずしも科学系の話にフィットしないのかもしれないですが、でもそれなりに当たってるとも思うんですよね。

おりしも、昼ごはんを食べる前、つまり午前中最後の軽めのジョブは報告書の和訳で、思えばこの2年間、ずいぶんたくさんの報告書を訳してきたわけです。

極めて定型の、簡単な報告書で、その事象(ま、あまりよくない事象ですな)が発生した考えられる原因と再発防止策なんかが書いてあるわけですが、訳していて思うのは、それなりに理解できる内容の時は、いつも、当たりまえすぎたり単純すぎたりして物足りず、かといって、どれだけ読んでも意味不明なものは最後まで意味不明なわけです。

これってなんなんだろう、と、この2年、ずっと思ってきたわけですが、かの至言を読んで、なるほどと思ったわけです。

人間というのは、結局、事象として「うまくいかないこと」が現出し続ける限り、どれだけ、昔分からなかったことが分かっても、理を尽くして説明を受けたとしても、感情面で、おさまらないというか、おちつかない生きものなんじゃないだろうか。

だからこそ、「うまくいかない」事態が引き続き起こってしまう場合には、無理やりにでも、原因はこれです、と、ある程度つじつまのあうように、さらりと結論してあげる、落としどころを見つけてあげることが必要になってくるわけですね。でもって、その落としどころっていうのは、構造上、ありきたりで面白みのないものにならざるを得ない。

極論すると、逆に、いつも、うまくいっていれば、その原因なんて、誰も(とは言わないけれど、一部の人しか)気にしないわけで。

つまるところ、こういう類の報告書が読みものとしてつまらないのは、「なぜ、この出来事は起きたのに、他の出来事は起きなかったのか?」とか、「あり得べき、ほかの結果は何だったのか?」というような問いを自発的に発してないからなんだな、きっと。
つまらない読みものほど、その背景に思いを馳せる想像力、というか創造力が試されるというわけだ。ま、仕事中に、そんな思いを馳せてる時間的余裕もないけど。。

2010/05/25

カウントダウン

ひと段落ついた。山積みの仕事を放り出すのは主義に反するので、必要とおぼしきことに着手だけはした。あとは放っておいても誰かが思い出して、やってくれるだろうと思う。思い出されなければ、それは必要なかったということだから、それはそれでいいし。
急ぎすぎていろいろミスったし、不本意な結果に終わったこともあったけど、まあいいでしょう。
年はとるもんですね。昔だったら1ヶ月ぐらい立ち直れなかっただろうことも、3日も経てば特段の憂さ晴らしなんぞしなくたって、うまく消化できるようになった。
100点満点を望んじゃいけない。今の職場でも、もっといろいろできるとは思うけど(自己採点では、65点ぐらいかな)、もう次のステップに行ってもいいと思う。薬事品質系なら、もう少し種類扱いたい。いいかげん、手袋にはもう飽きましてん。症例報告とか論文とかを仕事中にのんびり読んでいられる治験系とか、市販後調査とかも面白そうだけど、理系の頭がないから無理か。なんで薬剤師とかにならなかったんだろう。道をあやまったよね、ほんと。とはいえ高校時代、化学は最大の不得意科目だったから、あの頃には望むべくもなかった方角だったけど。とにかく。あと35日。と記録して、決意をかためるなり。

2010/05/23

marking behavior

ブログとかtwitterが繁盛しているのって、人間の動物的本能としてのマーキング行為が根っこにあるからなのかな。「いまここにいます」系のつぶやきとか。犬や猫のマーキングというのは、縄張り宣言でもあるし、なるべく(電柱とかの)高いところにマークしようとするのは自分を大きく見せたいからなんだそうな。なんか、通じるような。所詮人間も動物だから、似ててあたりまえ、といえばあたりまえなのかな。

5年ぶりの再会

ツイッターをはじめてから、英語のブログを前よりたくさん読めるようになった。ブロガーさんたちは、自分の記事だけではなくて関連記事をいろいろと紹介してくれる。
Richard Dawkins紹介の動画が、なんか朝からいい感じにほろりときたので。
5歳まで育てて、その後森に帰したゴリラとの5年ぶりの再会。
どうだろう、自分だったら、5年ぶりに親とか友人の声を遠くから聞いて、分かるかな。好きなひとの声なら分かるかしらん。ま、なんにしろ、愛、ですね。
Damian Aspinall's extraordinary Gorilla encounter 

2010/05/22

長期計画で

2週連続で先生の講義を聞けるのはうれしい。前週から引き続き、Trolley問題に関連して、名物授業Justiceをご紹介いただく。(概要は今朝のクオリア日記に。)先生の説明ではじめて、断片的に聞きとった内容が繋がった程度だったが、こういう話を聞かせてもらえるから、なんとかかんとか生きながらえていて、まんざらでもなかったな、と思う。3年以内にぜったいレジュメなしでも1回で全部聞きとれるようになるぞ。(まあなにごとも、長期計画で。結局のところ、語彙を増やしさえすれば問題は解決するように思う。)
トロッコ問題に関して先週から感じている違和感は、自分で手を下すかどうかという手法の話より、1人殺せば5人助かるという設定。これが1:2、1:3、1:4、と数を増やしていって、どこで1人殺すことを正義と思うか、とか、999:1000から998:1000と次第に減らしていくという手はどうだろう。きっと答えは出ないはずだし、出ないのが現実に近い気がする。とはいえ、現実的になりたいならビジネススクールに行きなさい、とか言われそうではあるが。
さて本日のテキストはこちら。左側頭葉に電流流して一時的に抽象化やシンボリックな脳活動を止めたら、その分、自閉症にみられるような天才的な細部の記憶能力、イメージ写生能力、絶対音感等々の加工されていない情報の入出力が活性化するんじゃないかしら、という、マッドな実験の話。

2010/05/20

Kind gestureだってさ

外国からきたひとを送り出した後、Appreciated your kind gestureとメールがくる。なんかふくざつ。。いやみかなこれ。そーだよ、どーせ、どーせ英語しゃべれませんよ。どっとつかれ。ほんとにつかれる。

2010/05/16

おお

なんか新しいことはじめたくて、ついったーはじめました。ブログに表示できるんだね。金魚もつけちゃった(笑)。この勢いで、新しいことがんがんやります(ほんまかいな。)手始めに、いよいよ転職するぞ。

2010/05/15

Trolley problem

昨日、道徳的判断とその理由づけに乖離があるというテキストを読んだのですが、その中にトロッコ問題(Trolley problem)というのがでてきました。割に有名な命題みたいですが、そのまま放置しておくと、とろっこに轢かれて5人死んでしまうが、自分が行動することによって1人を犠牲にすれば5人助かるという状況に置かれた場合に行動することを選択するか、というような、雑駁にいうとそういう話。(派生して、設定に数種類バージョンがある)
で、そもそも、この設定にいろいろと無理があるので、いろいろと余計なことを考えてしまうのだけれども,日本語のWikipediaをつらつら読んでいたら、最後のほうに、道徳的判断をするときの脳をFMRIで見たという論文がリンクしてあったので、それを読んでみた。
An FMRI investigation of Emotional engagement in Moral Judgement

要は、道徳的判断を要する質問を含んだ質問を60用意して、5人の命のために1人人命を犠牲にしますか的質問のときに活動する脳部位とか、回答までの時間のかかりぐあいを調べるという、で、題名にある通り、感情関連の部位が働きますねという内容。実際に、自分がこういう実験できるかどうかは別として、何をしたら何が実証できるか、実験のしかたを考えるのっておもしろいですよね。

2010/05/12

ティンパニおじさん

コンサートに行く。シベリウスにつられただけで、その他の演目は会場でプログラムを見て知ったのだが、エルガーの南国も、ドヴュッシーの新世界も良かった。新世界をまじめに聞いたのは3回目ぐらい。生で見ると、音色の重なり具合という意味の全体像が奏者の動きからつかめて面白い。
新世界の2楽章までは普通に聞いていたのだけれど、3楽章の途中で突如某ブログに貼ってあった「めだちすぎ」動画の中のドラマーさんがフラッシュバックして、いったん目がティンパニさんに行ったら、釘付けになってしまった。何をかくそう、このティンパニおじさんも、かなりノリノリで、実際に音を出す前に微妙に空振りしたり、リズムに合わせて、指揮者ほどまではいかないけれど、恰好よく姿勢を決めたりする。おじぎをしたときには拍手が盛り上がったから、見かけだけじゃなく、きっと演奏も良かったんだろうな、たぶん。
アンコールに3曲もサービスしてくれた。ドヴュッシーのスラブ舞曲。8番2番も好き。

2010/05/11

ゆらり

珍しく、ひと晩中、眠れなかった。ひとつには、すでに客先に提出してしまったドキュメントに誤訳があったかと思い始めたら止まらなくなって、どきどきしていた。でも肝心部分について、どうしてそう訳したかの詳細が思い出せない。じつに気持ちが悪い。寝返りしきり。ふたつには、ネットで読んだ文章(こっちは日本語)が、妙にあとをひいたせい。そんな夜は、ひとが夜中にどうしているか、ちょっと気になったりする。
朝。出勤して、問題部分を再読してみたら、間違いはなかったので一安心。ただ日中、仕事もはかどらず、終日頭が重い。眠くはない。ただ重い。夕方になると、目は覚めているのに文字通り後ろ髪をひかれるよう。バスを降りると、酔ってもいないのにふらりふらりと道の左右に千鳥足。やはり普段よく寝る人間がたまに眠れないと、ダメージが大きいのかもしれない。世界が、ゆらり、揺れている。もう限界。おやすみ。

2010/05/09

Driving Miss Daisy

最近光回線を入れた関係で、海外ドラマやら映画ばかり見ている。それでDriving Miss Daisy を20年ぶりぐらいで見たわけだが、人間がこんなふうに長い時間をかけて、ゆっくりと静かに理解しあうことができたら、それは素敵なことに違いないと思う。一対一の人間同士の和解なり理解なりが、やがて、それぞれの属するコミュニティや持つ思想同士の融合につながるにちがいないと思わせてくれる。番組で語られているが、確かに、この2人のキャラクターの歩み寄りのスローさが逆にリアルである。しかし、このような佳作に近頃はなかなかお目にかかれない。探しかたが悪いのかな。
このときジェシカ・タンディ80歳、じつにお美しい。

2010/05/08

平和ボケ

最近あまり書くほどのことがないと思うのは、地道で平和な証拠なのかもしれないし、見方を変えれば、動きが足りないのかもしれない。仰臥漫録は子規だから本になるのであって、ふつうのひとのふつうの生活を書いていたって、しかたがないといえばしかたがない。
とにかく今週はUp in the airとDistrict9の2本映画を見て、本は『古書の来歴』とMessage in a bottleを途中まで読んだ。しばらくしか続かないとは思うけれど、今は小説モード。紀伊国屋でポップが立っていたピンチョンとルーセルに入った。西東三鬼も気になっているがまだ入手していない。
たまたまM.Kamioさんがコンクールで優勝したときのシベリウスのヴァイオリン協奏曲を見つけて聞き始めたら、これがとても良くて、こちらもたまたま見つけた数日後のNHKホールのコンサートに行くことにした。やっぱり平和すぎ。

2010/05/03

自炊ざんまい

お医者さんに予言したとおり、ジョギングモードと一緒に、自炊モードも戻ってきた。
やはり人間には(ていうか、自分には)季節性のモードがあるのだ、ということをこの年にしてやっと自覚する。去年のこの時期から自己管理日記をつけはじめてやっとわかったこと。

というわけで、連休も料理と運動にはげむ。

とはいえ、そんなに難しい料理はできない。
無性に食べたくなったので、きんぴらをつくってみた。たぶん人生ではじめて(!)ではないだろうか。
大きめの1パックで200円から300円弱で売っているけれど、野菜だけのおかずにしては、高いんじゃないかしら、と思っていた。おまけにどの店のを食べても味が濃すぎて、薄味な家に育った人間としては、どうもいただけない。

そこで作ってみると、意外に手間がかかる。
ごぼうとにんじんのささがきは想定内の手間だったので、一片の断面積が若干大きくなるのを我慢することにしてピーラーで済ませたものの、灰汁抜きに水にさらしておかなければならない。
いつまでさらしても水が黒くなる。
待っているのが一番我慢ならないので、いい加減で妥協して炒める。みりん、しょうゆ大さじ2、甘味料中1、最後にごま油をたらし、ごまを振っておしまい。
失敗したのは、最後のごまを黒ゴマにしたこと。レシピには白ゴマ、と書いてあったけれど、黒すりゴマしかなかったので、それで済ませた。すると、まるで焦げているような外観。これはまずそう。まあ食べてみると、おいしいかったのだが。見た目がね。

原材料たるごぼう1本とにんじん2/3は、きんぴらとなって小ぶりのタッパーのなかにおさまってしまって、野菜を大量に食べる人間にとっては、少し多めの、たった1食分である。
手間と材料費に比して出来上がり量が少ない。
これなら、多少お味に納得がいかなくても、売っているのを買ったほうがいいかもしれない。

お次は、そら豆と豆腐とめんたいこの和えもの。
これはかんたん。
絹ごし豆腐の水をよく切って(レンジでチンするとか、上から重石をしておくとかするといいのかもしれないけれど、わたしはしない)、手でほぐして、しばらく置いておく。その間にそら豆をゆでる。ゆであがったら皮をむいて、豆腐の水を再度切ってから、そら豆を投入。その上にレモン半個をしぼる。そのうえに明太子、マヨネーズとゆず胡椒などをお好きなだけ入れ、混ぜておしまい。

去年のこの季節は、そらまめとクリームチーズをあえてゆず胡椒を加える、というおつまみ風の品に凝って、よく作りましたが、これけっこうカロリー高いので、今年は豆腐&明太子になりそうです。

これも原材料費が意外とかかってますね。そら豆って意外と高いし。でも、ゆでてまぜるだけですから。とってもかんたん。

チルドのしゅうまい4個とロールパン1個、バナナ1本をいただきまして、ソイラテで、しめ。

ごちそうさまでした。

2010/04/26

抜け出してみて

とりあえず歩くことにしてジーンズのまま外に出て、5分も歩いたら自然と走り出していた。シューズだけは履いていたから、不便はない。しばらくの停滞からおよそ1ヶ月。すっかり足がなまっていて、いかにもメタボ解消に走ってますという露骨にアマチュアな仕草で、よちよちと。それでも走っているのだから、よしとする。
まず夕食後2時間経過したら外に出る、というオートマチックな動作が(いや実際は3時間ぐらい経っていたわけだが)できたところが進歩。
そこから抜け出してみてはじめて、停滞していたことが明らかになる、ということがある。これも理解とか論理とかが後付けで来る例なのかもしれない。最近、そんなことばかりだ。わけがわからない。
とにかく、自分にとって走ることは、すでに走ることだけではなくなっていた。

2010/04/25

希望の物語

土曜の話。お茶の水の丸善で例のBook3を買って、予約時間ぎりぎりで歯科に駆け込む。珍しく混雑していて40分待ち。おかげで本が進む。村上さんに助けられたと思うのは、ああ自分って、速読とまではいかないけれど、わりとスピード感をもって本が読める人間だったんだと思い出せたこと。今月に入ってアンナ・カレーニナを読みかけたあたりから本のページをめくるのがどんどん遅くなっていって、しまいには本を手に取らなくなってしまった。このあいだ内科の先生に「そんなにやる気ないってことは、それはつまり、鬱っぽいのですか?」と聞かれて「いやもともと性格がこんなふうに、まったりしてますから、鬱っぽいというより、春だし、単にやる気がないだけだと思うんですが」と答えたものの、本さえ読む気にならないようでは人生つまらなすぎると思っていたところでもある。歯科の後、ヒルズでのボストン美術館展と写真美術館での森村泰昌「なにものかへのレクイエム」展へ行き、そこから下北沢に移動して昔の職場のみなさんががんばっているお芝居を見て、一緒にお芝居を見たex同僚さんとご飯を食べてから帰宅の道すがら読み続けつつ、電車の窓から月を眺めては一つしかないことをときどき確認してはいたものの、自室に戻ってさて仕切りなおし、と支度を整え(つまりコーヒーを飲んでから寝転んで)夜中の3時までかけて読み切ったわけである。
こんなスピードで読んでいたら読んだことにならんでしょう、だいたいbook1と2の内容を覚えているかと尋ねられれば確かに詳細忘れていたのだけれど、さっさと読めるということは、無意識に自分に重要なメッセージだけ選別して受け取っているということでもあり、書評をものすでもない一般読者としては、まあそれでよしと思うのである。
自分にとって重要なこととは、確信だけが先に来て、確信に基づいて行動しているうちに、論理は後付けで来るということ(いや、または論理なんて、来なくたっていいのかもしれないし)。どうでもいいけどこれってやる気の出る仕組みと似てますね。何かはじめないとやる気は出ませんよっていう、メビウスの輪みたいな、あれです。あれ?似てないか。まあいいや。えーとそれから、絶望と希望は、実は影と光のように離れずにあるということ。そして、ひとりではあるが孤独ではない、そういう希望のありようというものを青豆さんから教わりました。

2010/04/21

モチベーションのはなし

朝、いつものようにイヤホンをしたまま、頭はぼうっと、とはいえ遅刻寸前でもあるので、足だけはすたすた歩いていると、見覚えのある男性が向こうから歩いてきた。あら、先生である。患者たるもの診察室以外の空間でお医者さんに出会うと、うろたえてしまう。おはようございます、とあいさつして、そのまま歩くスピードを落とさずに通り過ぎてしまったものの、よく考えてみるとずいぶん患者として素気ないそぶりであったような気もする。ともあれ今日は診察日でありました。「今朝会いましたねえ」「ぼうっとしてまして、すいません」「ぼくもぼうっとしてました」「先生よく私って分かりましたねえ」「いやふつう1年以上会ってるとわかるでしょう(笑)」という前ふりがあって、本題に入る。自己管理のモチベーションが落ちてまして、と先月もした言い訳を繰り返す。去年も花粉の季節が終わったあたりからモチベーション上がってきましたので、と更なる言い訳をする。やる気のあるときとないときと、ちょっと極端なんですね、と、まことに的を射たコメントをいただく。じゃあモチベーション上がるまで、薬ふやしときますか、という結論に落ちつく。薬を待つ間に、最近すっかり空白が続いているほぼ日手帳のページをめくっていると、池谷裕二さんの「やりはじめないとやる気って出ないんですよね。脳の側坐核が活動しないとやる気出ないんですけど、そこって何かしないと活動しないので(大意)」って言葉が載っていて、あまりのタイムリーさに思わず、ぷははは、、と情けない笑い声を洩らしてしまう。
がんばれそうにないときは、がんばろうとしない。ハードルを下げることは悪いことではない。身体からのシグナルに、きちんと耳を傾けること。じぶんにやさしく、何かはじめること。

2010/04/20

Sunflower

サントリーホールにユンディ・リのショパンを聴きに行く。なんでそういう気になったのかよく覚えていないが、チケットを買った数ヶ月前、彼のラ・カンパネラをユーチューブで繰り返し聴いていたせいだろう。C席だったが予想よりステージ近くの席が取れていた。ピアノが近い。おなかに響く。彼の手は高音がとてもいい。天国とか極楽とかというものがあるとしたら、そこにはこんな音が流れているはずだと思うくらい、まろやかな高音。「葬送」は、あの有名すぎるモチーフ以外の部分をちゃんと聞いたのは初めて。前半のノクターンとポロネーズop22が絶品だった。アンコールはSunflower。かわいい曲。ラ・カンパネラもだけれど、こういう、きらきらっとした曲が、とても美しく弾けるひと。

2010/04/15

傘寿

母上の誕生日。御年80歳。自分が年をとるのよりも、母が80歳になったほうが、なんだか驚きなのは何故だろう。

2010/04/14

かれの心理における科学

3月の終わりに養老先生の『身体の文学史』を読んで、「現実感、実在感」という話がひっかかっていたわけです。特に鷗外のくだりで。でも、どこがどうひっかっているか分からない、といういつものパターンだったので、そのまま文章を打ち込んで、「下書き」にしておいて、時々眺めていました。

最近見た映画はちょうど、どちらが現実でどちらが非現実ですか、という謎解きを中盤から最後まで延々とさせられる映画で、(ネタばれになるので題名は伏せますが、なかなか出来の良い映画でした)そんなことも重なって、思い出して、くだんの本を取り出してきて読んだのです。
本は再読せよと言いますが、ああこれがひっかかりどころか、と思ったのは、こういうことです。

「デカルトにおいては、思考する自己あるいは自己の思考に実在感が付着していた。かれの哲学は、したがって、そこに「現実」を有する。一般に哲学や数学は、そうした「脳内活動」に対して現実感を付与し、そのゆえに、「抽象的」であらざるを得ない必然性を持つのである」

「肝要な問題は、その現実「感」である。それを実在感と言い換えてもいい。これは、われわれの脳が社会的に機能するとき、もっとも重要な機能として表われる。神なり、国家なり、ありとあらゆる制度なりが、われわれに与える現実感、あるいは実在感は、決定的に人を動かす」

「本来こうした実在感は、ヒトが置かれた周囲の環境に対して付着すべく存在したと思われるが、ヒトはその環境を人工的に創造する。そのために、なにが現実かを「社会が決める」状況に立ち至るのである。なぜなら、ヒトは社会という環境の中に育つからである。この国の近世社会は、そこから身体をおそらく意図的に排除した。(中略)戦後の社会においては、それは医療制度の中にのみ、封じ込められるのである」

「もしだれかが、自己の現実感の欠如に気づいたとしたら、鷗外のような行動が生じて不思議はないであろう。第一に、そうした重大な感覚の欠如は、探索行動への強い動機を生む。第二にその結果、かれの領域は大きく広がる。現実感がどこに付着するか、それが発見されるまで、いたるところに、それを追うしかないからである。第三に、それは事実に対するこだわりを生じてよい。なぜなら、すでに与えられてある理性は、現実感・実在感の対象たるべき存在が、「事実であること」を強力に要請するはずだからである。こうしてわれわれは、むしろ自然科学の心理的起源に到達する」

「その後の鷗外は、それがいかに「文学」に見えようと、かれの心理における「科学」を推進する」
(養老孟司『身体の文学史』より引用)

自分は森鷗外のような天才か秀才か、そういう人と同列に論じられるような人間では当然ながら、というか、残念ながら、ないのですが、問題はこうです。つまり、自分の漠然とした考えの推移というのが、程度の問題はさておき、まさしくこういう流れをたどりつつある、ということなんです。実情、自分の今の志向は、昔とは全然趣が異なってきていて、確かに仕事は医療制度絡みでもあるし、興味の方向性も自然科学領域になってきている。仕事上の要求もあるにせよ、最近、やたら細かいことまで事実でないと気が済まない。この傾向が、都市の脳化社会で、すっかり実在感を失ってしまった仕事や生活の中で、「現実感、実在感における身体や自然の不在」に喘いでいる姿なんじゃないですか、と指摘されたようにも思えて、それが、ぶすりと釘のように刺さって抜けない、まあそういったわけです。

ともあれ、鷗外を「かれの心理における「科学」」と読むその読み方が、すてきだな、と。
この後、養老先生のお話は、きだみのる、深沢七郎、と続くのですが、後半は、まだ読みきれてないので、また機会があれば。

2010/04/10

徒然すぎて

自己管理に対するモチベーションが極度に落ちてしまった。つまり自炊と運動の頻度が極端に低下している。ざるそばを食した後に、「ごま油仕立てのばかうけ」及び「ドルチェブリュレカスタード」なぞというものを平気で口にするようになってしまったのが証拠である。体脂肪率29%。朝食後とはいえ、ひどすぎる。まあ3晩連続ポテチ1袋とカマンベールチーズ1箱(掌くらいの大きさの、丸いやつね)、やきとり4本を食べたのだから仕方ないかもしれない。

今日は先週さぼった歯科の日で、帰りにお茶の水を歩いていたら、通りすがりの男性が「愛してるよーう」と連れに話しかけている。そのトーンが自発的な告白調のものではなく、「よーう」にかけて下る、極めて緩慢なトーンであって、おそらく、そのやりとりは、日常会話的に繰り返されているのだろうと思われた。思わず振り返るとくだんのお連れさんは背丈からして子供だった。逆方向に歩いていったし、それほど大仰に振り返りもしなかったから、顔は見えない。どうも男の子の声に聞こえたが女の子だったかもしれない。その自然さが外国もののドラマみたい。日本の親子の愛情表現のありようも、変遷を遂げつつあるのか、さまざまなものだなあ、と思う。

今週は徒然にBBCの「Hustle」を見ていた。詐欺師5人チームのお話。さすがbbcで、1シーズン6回、という潔さが良いが、シーズン6まであって、もう5まできたのだから、今週いかに「徒然」していたんでしょうかあなたは、という話でもある。
Toeicの結果がきた。850/990。当日朝ごはんを食べながら模擬テストを見直す以外に勉強しなかったとはいえ、2年前から30点しか上がってないって、どういうこと、と自分に腹が立つが、やはりテストの点を稼ぐには、テストに対応した勉強をしなければいかん、ということでありましょう、凡人は特に。900点を超えてたらもう受験するのはやめて参考書は全部ブックオフに持っていこうと思っていたが、微妙に心残りな点数。しかし、実務においては、試験問題みたいな、あえて文意があっちこっち散乱してる文章とか、意図的なひっかかりどころのある文章なんてめったに出てこないのだ。(だって、みんな相手をひっかけようなんて思って書いてないし、、何言いたいか辞書ひいても分からなかったら、メールかチャットして確かめればいいんだから。)なんてのは結局、負け犬の遠吠えか。あーあ。
シャッターアイランドって公開されたんでしたっけ。デカプリオさまの聞きとりやすい英語でも聞きに行こうかなあ。

2010/04/03

昨日今日あたりのこと

金曜夜。社内飲み会をパスして高橋悠治のコンサートに行く。欠席理由に「はあ、コンサートに行くので」と言うと、「どこで、だれの、」と細かいことまで尋ねるおじさんがいる。すいません、定時を過ぎたら、コンサートのほうが大事なので。高橋さんには、初めはトークから入った。次に書いたもの、そしてやっとCDまでたどり着いてはいたが、生演奏を聴くのははじめて。クラシックやジャズなんかとは違って、現代音楽系の音楽家には、こういうルートからの入り方が多い。曲や作曲家について、語ってから弾く、というスタイル。アンコールはサティ。
土曜。遅めの昼にパンケーキにメープルシロップをたんまりかけて食し、元気を出す。こないだも行ったのに、またカラオケを歌って、元気を出す。今日は渡辺美里のMy Revolutionがメイン。池袋に行って、服を買って元気を出す。夜、ジュンク堂。はじめて、生の北村薫先生トーク。覆面作家といわれていたのはずいぶん昔のような気もするし、体調も万全ではなさそうなのも理由の一つなのか、インフル用か花粉用のごついマスクをして登場される。覆面ならぬマスクを外した先生は、穏やかに話し、まあるく笑う。作品から連想するのと重なるお人柄でいらして、よかった、と思う。1時間半はあっという間にすぎてしまった。新書本にサインをいただく。猫のイラストが付いている。先生の笑顔に似て猫も笑っている。こういう瞬間が、しあわせである。
この年にして、文学部のくせに、いわゆる名作と言われているもので未読にしているものが多すぎる。われながらひどいと思う。今にして思えば高い授業料は捨てたも同然である。学生時代はちっともひどいと思わなかったのだから恩知らず娘である。反省も遅かりしではあるが、しないよりましかもしれない。「忘れられない箇所がたくさんある」とおっしゃっていた『アンナ・カレーニナ』を、せっかくの機会だからと読むことにして、買って帰る。イギリス現代小説は、まあ若干興味がないこともないが、やけに面白そうに見えた新刊の棚にあった『ベイツ教授の受難』もついでに買う。トルストイへの無意識の拒否感からだろうか。「迷える中高年必読、英国コミックノヴェルの至宝」というオビに引っ張られてしまうなんて、ひどいんじゃないかしら。まだ38歳なんだけど。帰り道、店の看板に「ひざまくらと耳かき」というメニューが出ていうのを見る。女性の膝枕を望む男性諸氏の気持ちはわからんでもないが、耳かきを他人にされたいという人間の気持ちがわからない。たとえ綿棒であったとしても、他人にあれを耳に突っ込まれるかと思うと恐怖である。看板の写真には、ちゃんと「さじ」のついた、いわゆる耳かきが映っていた。うわあ、こわい、こわい。。
おっと、いよいよ小沼先生ご登場の坂本龍一の音楽番組がはじまるぞ。ふふ、見逃せませんね。

2010/04/01

新PC

あれこれ考えているうちに、新PCが届いてしまった。
深く考えずに買ってしまったが、意外に横幅が広くて、今まで使っていたPC台をはみ出してしまった。さてどうしようかなあ。新しいモノ、新しい環境、新しいもろもろ、というのは、何かと新鮮でもあるが、その正体は違和感なのかもしれない。でもそのうち慣れちゃうんですよね、きっと。昨日の椅子取りゲーム宣言が、なかなかに強烈で、待てば海路の日和あり、ともいうし、時間が解決することがあるとは知りつつも、縺れた糸は、つい自分から切りたくなってしまう。条件反射的に、つい身辺整理をはじめてしまう。仕事のクロージングとしても、気持ちの整理にも、整理整頓、ファイリングなどという淡々とした作業は効果的である。

2010/03/30

transparency

前の派遣先ではじめて、本や雑誌の原稿以外にも文書校正という業務が存在するのを知った。お役所や取引先に提出する大部な資料に間違いがないかどうか、チェックするのである。医薬どころか医療機器メーカーに勤めるのも初めてで、右も左も分からない人間ができることというと、コピー、ファイリングに文書校正ぐらいのものであって、こんなことでお金をもらっていいのかしらというような作業内容なのだが、ヒマな上にお時給も、まあまあよろしくいただけたので、1年ほどいた。そこでは100ページほどの報告書ができると、4人のチームで校正をしていた。わたし以外は業務経験のある人たちで、彼女たちには、誤記や訂正すべき箇所が「まるで蛍光ペンでラインを引いたように」浮き上がって見えると嬉々として言うのだから、素人には到底うかがい知れない世界である。
チーム作業の場合は、レビュー結果を上司が当人のもとに持っていくからまだいいのだが、たまに個人で仕事を頼まれるときがある。これがまた嫌なもので、こんなところを指摘したら相手が気を悪くするに違いない、などと1箇所につき10分や20分程は逡巡したあげく、仕事だから仕方ない、と重い腰を上げ、「いやわたくしの勘違いかもしれません、不勉強ですのでよく分かりませんが」などと、長たらしく低姿勢な前置きをしてから、資料作成をしたご本人様に丁重に間違いと思われる箇所を指摘するのである。形だけでも感謝してくれる人は、ごく稀にいたが、少ない。当然、人間関係もよろしくなくなる。やはり、楽に給料はもらえないのである。
そんな経験があるせいか、自分も人間である以上、どんなにがんばったって、間違いは犯すものだ、と思うのである。その前提があればこそ、苦手な人にも頭を下げて目を通してもらう。不出来を教えてもらったら、瞬時に本心はついてこなくとも、形だけでも礼を言おうと思う。たとえ、それがどんなにつらくても、謝罪して済むことならば、隠さずに改めたいと思う。書くのは簡単だが実行できるひとは少ない。最後は自分の心との戦いである。
外資にいると特に、自分の過ちを認めない人間と多く付き合わなければならない。簡単にsorry とかapologize などと使うと軽く見られるから使うな、ともいう。しかし、たとえどんな慣習の人たちと付き合おうとも、どんな言葉遣いをしようとも、どんなに歳をとったとしても、まずは現実を見て、過ちであればそれを認めることのできる、自分自身に対して透明な人間でありたいと思うのである。

2010/03/29

生きている

帰宅。PC画面は、ほぼ通常の半分程度の明度ながらも、まだ生きている。(なかなか、しぶといね、キミ。えらい。がんばれ。)新PCが届くのは木曜日。出戻ってる旧ブログにケータイエントリーしようと試みるも、片手で長い文章を入力しつづけるのって、むずむずしてしまう。慣れれば平気なのかしら。とにかく、ええと、昨日は走りました。なにしろ、最近出会った素敵なおじさまがマラソンをなさるというので、「わたくしも少し走りまして、今年はハーフマラソンに出るのが目標でございます」と、えらく性に合わないお嬢ぶったコメントをしてしまったので、やはり他人に宣言したからには、やらねばならぬと思うのである。(ほんまかいな。いや、ことによっては、というか、言った相手によっては、そうでもないこともあるか、いけないね、そんなことじゃ。うん。)花粉などモノの数ではない。で、昨日久しぶりに、おニューのXのタイツを履いて走った。マスクなんかしなかったけれど、走り終わってもクシャミひとつ出なかった。なあんだ。花粉が飛んでいないのか、アレロックが効いているのか、子供の頃からの花粉症、治っちゃったんでしょうか(確かに年々症状は軽くなってきている)。きっと花粉が飛んでないんでしょうね。なにしろ今日みぞれ降ってましたし。さむむ。

2010/03/28

一時出戻り

朝ごはんを食べながら養老先生の『身体の文学史』を読んでいたら、「現実感」の話から最近もぎけん先生の朝カルで読んだ論文とか、深沢七郎の話から中沢先生のお話を思い出したり、日常よく使用する製品て規格外だったときにはじめて現実感が生じたりするんだよな、とか、気づきもり沢山だったので、すわブログしようと思ったら、PCの画面左右下の隅が暗い。これは前にも起こった現象で、そのうち良くなるかなあ、なんて放置しておいたら、最後は真っ暗になって、何かを取り替えなければならないのである。肝心のその何かがなんだったか思い出せない。1年前かと思って調べてみたら、ちょうど2年前。(こういうときに、ブログ日記をつけてると便利。)前回はギリギリ保証期間内だったので無償だったけど、今回はもう買い替えたほうが早いかもですね。たぶん。
そういうわけで、携帯でエントリー登録していた前のブログに一時避難して、たぶん、そちらを更新します。このブログでも携帯エントリーできるのかもしれないけど、PCの余命いくばくもなさそうなので、取り急ぎ。
こんな出戻りブログを読み続けてくれているみなさまって、とても奇特なかたですね。ありがとうございます。もし万が一、お気に召したら末永くおつきあいください。ブログなんだからあたりまえだけど、現実においても、去るもの追わない主義ですので、この機に忘れていただいても構いません(涙)。前のブログにお越しくださってもうれしいですが、PC買い換えたら、またこちらに戻ってくると思いますので、URL変えるのが面倒なかたは、このまま待っててくださいまし。スイマセン。ではまた。

2010/03/27

too much history

日がな一日ホームズとERを延々と見ていた。どちらも目新しい展開はほとんどないから、手元はゲームなぞしつつ、もっぱら耳慣らし。ときどき字幕を見る。実務翻訳は背景知識と日本語力だと言うけれど、映画やドラマの字幕翻訳の場合は、字数制限もあるからかなり意訳されている。たとえば、看護師のアビーが元カレと別れて、さてカーター君と付き合おうかしら、という場面で、カーターに may be too much history と言われてしまうのだが、これが「(元カレを)ひきずってる」とか、settled hung up for somebody else が「過去を清算した女がいい」となっていたりして、インターンの頃は初々しかったカーター君も、だんだん嫌味で冷めた医者に成長してしまうわけだけれども、素直に、うまく訳してあるものだなあ、と感心する。しかし、訳す前に、何を言ってるか聞き取れるようにならないといけない(苦笑)。ときどきノートテーキングの練習もしたりする。聞いてなんとなく分かった気になっていることをいざ書き取ろうとすると、けっこうたいへんなもんですよね、と学生に笑われそうなことを、ちまちまとやっている。
書き取りといえば、ホームズの中で、証拠物件の書きつけを見たワトスン先生か誰かが「これは教養のない者の字だ」なぞとのたまうのだが、見慣れた漢字ならともかく、アルファベットのどこでそういう区別ができるのか、いまいちイメージできない。ぱっと見、それなりに整った字だったように見えたけど。(少なくとも、自分の書く字よりは。ええ、まあ、教養ないですけど、ね。)

2010/03/26

仕事のメールなんて、たいていが苦情か依頼か指示か催促である。催促以外は自助努力で防ぎようもないし、なくなったら、すなわちメシの種がなくなってしまうのだから、まあ、仕方がない。そんな中で、ごく稀に、いいな、と思うメールがある。過剰でもなく粗略でもなく、嫌味でも定型でもなく。硬すぎず柔らかすぎず、意図が過不足なく伝わる。それでいて短い。うまいなあ、と思う。
なにしろ、どうも最近日本語がヘンなのである。若い子が、とかの話ではなく、自分のが。いや昔からヘンだったよと言われれば、それまでですけど(笑)。自覚したのは、昨年末のこと。外国の人たちから、やたらとグリーティングがきて、返事を打ち終わった後の日本の人宛てのメールに、深い考えもなく「すてきなホリデーシーズンをお過ごしください」と打ち込んでポチリと送信した後、「よいお年を」と返事が来て、あれ、と思ったのが最初である。以来、英語の残像がカタカナで残っている、おかしな文章を書いている自分に気づくことが、ときどきある。すっと入ってくる自然体の日本語を送ってくれる人は、不安定で怪しげな軌跡を辿りつつある自分、もしくは自分の文章を照らしてくれる鏡のようなものであって、ありがたい。

2010/03/24

おげんきですか

通院日。いつもより40分ほど早く家を出て、病院に寄る。採血を済ませてから出勤。さすがに8時台は採血室も空いている。午後は講習会を途中で抜けて会社に戻り、テキストを置いたらすぐに病院に向かう。徒歩5分圏内にあるのが嬉しいが、3時半の予約でも、結局5時まで待つ。先生は、ご機嫌である。開口一番、「元気ですか?」と尋ねられる。検査値が悪い自覚はあるので「精神的には元気だと思います」と答える。直近1年を振り返ったって、元気かなんて尋ねてくれたのは、この先生と母ぐらいのものである。ありがたい。「仕事、変わるんじゃなかったっけ」そんなこと言ったかな、と思いつつ、仕事の話をする。近所にある医療機器売ってる会社に勤めていて、先生は内科だから使わないでしょうね、などと話したのは、約2年も通って今日がはじめてである。そうなんだ、ぼくは確かにあんまり使わないけど、そうそう採血のときにほら、紫のやつ、使ってますね、ええあれが競合メーカーのやつで、へえ、うちはもう、価格オンリーで決めてるでしょうね、などと話しつつ、いつのまにか自分の話になっている。夜に走るのが、少し心配そうである。暗いでしょ、というから、暴漢に襲われるのを心配してくれたのかと思いきや、人通りが少ないと、倒れてても気づいてもらえないから、と。爆笑。

2010/03/23

あの青い空の波の音が聞えるあたりに

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい

と言ったのは谷川俊太郎さんである。おとし物があるかは別として、何かざわざわと落ちつかないときは、海に行きたくなる。といっても、実行できるようになったのは仕事で車を使えた20代後半の頃。富山にいた頃は氷見のあたりか、七尾あたりまで行ったりとか、福井にいた頃は三国やら、遠出して敦賀とか。山奥で車を止めて、ミニカのフロントガラス越しにシートを倒して星空を眺めているのも良かったが、波を見ているとふしぎと気持ちが落ち着いた。
なんだかまた海に行きたくなってしまったなあ。(って、こないだ鎌倉に行ったばかりだけれど。)

2010/03/22

サクラサク

春眠暁をおぼえずとはこのことで、2回ぐらい目覚めたものの、結局昼までうつらうつらしていた。花粉症のクスリがよく効いているのかもしれない。去年の花粉症前半戦までは例年通りのクスリを使っていたのだが、後半戦にさしかかって効かなくなって、アレロックにしたら治まった。今年は最初からアレロック。昼間はそれほど眠気は感じないが(あたりまえだ、こんなによく寝てるんだから、)夜は眠り薬のようにコトリと眠りにつける。

浅草に出かける。相変わらず野村誠さんは、いい。何がいいかって言われても相変わらず上手く言葉にならないのだけれども、ずいぶん前に書店でたまたまトークを聞いて以来、とにかくファンなのである。今回は北斎の1枚の画(居間のようなところで琴と木琴、尺八に胡弓の四重奏が演じられている)にモチーフを得た曲とステージだった。野村さんは10曲中9曲は演奏せず、曲の合間に語り、最後の「後の祭り」だけ鍵ハモで登場、という形だったのだけれども、この四重奏は確かにそれだけで世界を成していて、鍵盤ハーモニカが入る余地がなかった、というのも納得だった。尾引さんと片岡さんといういつものメンバーに加え、琴と尺八奏者の方の息もぴったり。でもやっぱり、最後の曲で野村さんの鍵ハモが加わって、締まる。(今日はじめて見つけたんですが、リンクはってありますが、お湯の音楽会向けの映像、かなり、いいっす。本番見たかった。。)

Kindleか電子書籍リーダーほしい。ipad?しかし大きさが微妙。どれがいいのか分からない。。

さて、東京でも開花宣言だそうで。春、ですね。

2010/03/21

暮しのせいにはするな

早めに夕食をすませて図書館に出かける。わが区を唯一褒めてあげたいところは、たかが区民図書館にNatureを置いていることである。最近さぼり気味であったのだが、茨木のり子さんの詩に叱咤激励されて、遅かりし初心とはいえ、きえかかるのを暮しのせいにしちゃいかん、、とか思ったりして。過去3ヶ月分ぐらいをどさりと置いて、脳関係と気になる要約だけパラパラと読みとばす。5つだけコピって近くの喫茶店でナチョスを食べながら読む。相変わらず、細かいことはよく分からない(笑)。訳したりするとまた墓穴を掘るので題名だけ。
-Rapid spine stabilization and synaptic enhancement at the onset of behavioural learning
-Neural evidence for inequality-averse social preferences
-Preventing the return of fear in humans using reconsolidation update mechanisms
-Predjudice and truth about the dffect of testosterone on humans bargaining behaviour
-Foot strike patterns and collision forces in habitually bare foot versus shod runners
不公平感と報酬系の関連性の話が2つ目。前に朝カルで読んだのに似ている。流行りなのかしら。
シューズ履きより裸足で走るほうが足のためにも、走りの効率のためにも、良いかもね、というのが最後の話。でも、シューズを作っている会社の思惑もあるし、なんてレビューもついていて、また現実問題、裸足で路上は走れないし、びみょー。
養老センセーの『身体の文学史』を読みかけ。無料動画でERシーズン8も始まったし、なにかと多忙な連休2日目。

頼りない生牡蠣のような

昨日も行ったファミレスで、3段重ねのパンケーキを食べる。ホイップバターとはちみつをかければ、大概の憂いは消えてなくなる。休日でも11時までは概して空いていて居心地がよい。
昨日ジュンク堂での待ち時間に買った茨木のり子『おんなのことば』をふたたび開く。冒頭に「自分の感受性くらい」が載っていて、これだけで買う価値はある。

「ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな 
みずから水やりを怠っておいて(…)

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
(「自分の感受性くらい」)

「縛られるのは厭だが 縛るのは尚 厭だ (…)

明朝 意あらば琴を抱いてきたれ でゆきたいが
老若男女おしなべて女学生なみの友情で
へんな幻影にとりつかれている」(「友人」)

「生きてゆくぎりぎりの線を侵されたら
言葉を発射させるのだ
ラッセル姐御の二挺拳銃のように
百発百中の小気味よさで」(「おんなのことば」)

「失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性 (…)

あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと…」
(「汲む ―Y.Yに―」)

生牡蠣のような、ときたところで、はまる。この組み合わせの妙。茨木のり子というひとの、この生活に根ざした母性と厳しさ、ふと湧出する烈々たる情感が好きだ。こんな言葉遣いのできるひとになりたい。

2010/03/20

Yell

なんと「店長」トークが本日だった。予約は満員御礼だが、当日でも並べば入れてもらえそうな気がする。昼過ぎに家を出て、カラオケ屋に寄る。1年ぶりぐらい。どうもそれほど上手くなさそうなので、人前では歌わない。いつものミスチルと渡辺美里に加え、いきものがかりのYELLをレパートリーに加えた。「他の誰でもない わたしを生きていくよと約束したんだ、ひとり、ひとつ、道を選んだ」というあたり、つい、ほろりとしつつ、熱唱してしまう。
そう、サヨナラは悲しい言葉じゃない。ともすれば安住しようとする自分の肩を押すエールなんだ。としまえんでNINEを見てから、池袋へ。

今回は3回目で、いよいよ、いかに民俗学と出会ったか、というお題。ふとどきな読者としては、『アースダイバー』って面白いけど、なんでいきなり都市が縄文に繋がってしまうのか、分かるようで、よく分からんなあ、と、本心、思っていたのだが、そもそもの民俗学とはなんぞや、という基本的なところから、柳田國男を経て折口信夫まで2時間かけてお話を伺うと、なるほどと腑に落ちた。(んだけれども、ここにサマリーできるほどには理解できていない。まだまだですね、、)ちょうど、昨年読んで惹きこまれた柳田國男「清光館哀史」が、さみしさの本質を深く表していて、いいですよね、とおっしゃっていたのも、なんだか嬉しかった。なにかと混乱している頭をすっきり整理してくれる、頭のいい先生たちのお話が大好きだ。がぜん元気がでてきてしまう。これもまたひとつのSecure base。
明後日は久しぶりに野村誠さんを聴きにいこう。浅草で北斎だそうな。

2010/03/19

Secure base

ずいぶん前の彼氏と付き合いはじめの頃、相手にブログをやっている、と教えてしまったのは、今にしてみると、あれは、まずい手だった、と思う。オンナ心というのは、惚れた相手には自分を知ってほしいと思ってしまう傾向があるらしい。でも悲しいかな、いわゆる「ときめき」なるものは、いわく、もっと知りたい、という欲求が存在するから上昇するのであって、相手をだいたい掴んでしまったあたりから、下降線に入るといわれているからである。

出来の悪い恋愛小説なんかより余程、じん、ときてしまう、穂村弘の『もしもし、運命の人ですか。』によれば、ときめきを延長させるには相手に自分の情報を極力与えないこと、すなわち究極のアイデアとしては、連れ添って50年目になって、「君の名前を教えてよ」「ちか」「ちか、、いい名だ、ぼくはまさる」と手を取り合って死にゆくのがいいんじゃないか、なんて書いてあって、非現実的ではあるけれど一理はある、と思ったりもするのだ。

誰が見ているか分からないんだから、こんなところに、子供じゃないんだし、ありのままを書かなければよかろう、という向きもありましょう。そうね、そうです、確かに。ええ、たまに嘘も書きますし、創作もあります、はい。しかしねえ、プロの物書きでもないし、これって出発点としては日記なわけで(最初によそのブログで始めた当初は、てまりの日記、なんていう、やたら素朴な題名だったんだから)。こうしてくだらないあれこれを綴っておくことで、いくばくかの安らぎを得るためにものしているのであって、100%心にもないことを書く、なんぞという高度な芸当は、わたしにはできないんですよね。ここは一種の安全基地。だから、ね、どうか、やさしく見守っていてください。

2010/03/17

詳細わかりませんが

信号が青になったとはいえ、実行までに3ヶ月余りも残されていると、なかなかに気が重い。心とは裏腹に、仕事は淡々と降ってくるし、かつ雪や雨と違って、放っておけば消えてなくなるものでもない。ほかを円満におさめるには手元で細々と汗をかくしかない。溜めるのは嫌い。たとえ完成度80%(またはそれ以下)でも、拙速を旨として終わらせ、さっさと忘れたい性分である。されど長引くものもある。「ほーーーぅ」と、トイレで手を洗いながら長嘆息していると、個室から出てきたひとも、同じように「はぁーーぁ」。思わず顔を見合わせる。詳細分かりませんが、その気持ちだけは、分かります、と言って、互いに、ぷはははと笑った。

2010/03/14

Escape from the commonplaces of existence

昨日は結局試験の準備なんかする気にもならなくて、昼からとしまえんに出かけてシャーロックホームズの映画の方を見た。4時からのに間に合うように家から歩いていったのだけれど、1時間程前に到着してしまった。豊島園の駅前ってスタバとマック以外に何もない。練馬の駅前まで引き返して、朝カルでもらった論文を読んで時間をつぶした。映画ですか?そうですね、面白かったです、はい、ふつうに。

今朝になっても試験勉強する気が起こらなくて(普通、前日の夜更けぐらいにはその気になるでしょうに、ほんとに、もう、しかたないんだから。)9時すぎにやっと起き出して、受験票にこの前の免許更新に使った残りの写真を貼り、ムック本ぐらいの大きさの過去問集を持って家を出る。ガストで朝ごはんを食べながら、2年前に1回だけ、やはり試験1週間前ぐらいから使った過去問を開く。TOEICはリスニング問題が流れる前に設問を読めるかどうかと、リーディング設問の時間配分でほぼ決まってしまうのだったということを思い出す。問題を少し解く。あいかわらず、ひっかけ問題にひっかかったりして少し焦る。サラダと、ヨーグルトのとろりとかかったバナナパンケーキ、それにコーヒーを3杯飲んで漸く現実に目覚めて、試験会場に出向く。途中で腕時計を忘れたことに気づく。西武新宿の、いつも通りすがりに眺める店に寄って4000円ほどのを買う。受付時間締め切りの5分前に入室。やれやれ。
すっかり忘れていたけれど、TOEICはかなりスポーティーな試験である。相当速読力のある人でないと試験問題の再読なんてできっこないので、回答の即決力が必要だし、前半のリスニングは集中力が持続しないと簡単にキーワードを聞き飛ばしてしまう。ともあれ、はじめて終了の声と同時に全問読み終わり(いままでの2回は、時間内に全問読み終えることなんてできなかったので最後のいくつかは適当にマークしていた)、試験官さんの案内が終わる前にマークをし終えた。これもまあ、2年間の進歩でしょう、と思いたい。

大戸屋でごはんをたべてから、そのまま帰る気にもなれず、噂のモーガン夫妻を見る。公開まもないせいか最前列しか空席がなかった。字幕が大きすぎて、いちいち読んでいられない。ヒューグラントもサラジェシカパーカーも発音が聞き取りやすいので細部にこだわらなければ殆ど問題ない。問題にするとすれば、サラの顔がよく見えすぎて、つい目元あたりをチェックしてしまうこと。美形は美形なりにたいへんですね。もともと崩れてるとそういう心配もないですが。。。そう、発音が聞き取りやすい人といえばディカプリオで、春頃に1本何か公開されるらしい。

いつも何かの会場に行くと、可能な限り出口に近い通路際を選ぶようにしているが、映画の中盤で地震があった。正直なところやはり、こんな映画を見ながら、こんな大衆の混雑の中で、7階から落ちて死ぬのは嫌だな、と思った、あまりに平凡な一日。ドラマのほうのホームズ、赤髪同盟で、締め。こういう台詞はホームズだから格好いい。
My life is spent in one long effort to escape from the commonplaces of existence. These little problems help me to do so. (quotes from Conan doyle's Sherlock holmes; Red headed league )

2010/03/10

so pretty a toy

最近無料動画でシャーロックホームズ(ジェレミー・ブレット演ずるところのドラマのほうで、いやもちろん、じき公開の映画で賞を取ったとかのロバートダウニーJrだってアリーmy loveの頃から嫌いじゃないですが)を流し始めたので、もう数え切れないほど何回も見ているけれど、また寝る前についつい見てしまうわけです。でもって、いま「青い紅玉」を見ていたわけですね。いわずとしれた小ぶりのタマゴ大ぐらいの青色の宝石がお金持ちの家から盗まれてしまったという話なんですが。で、ドラマの中で、ホームズ氏が宝石ってのも因果なもので、こんなにきれいなのに殺人のタネになっちゃうんだから恐ろしいもんだねと語る、というようなあたりで、でてくるわけです。「When the commissionaire had gone, Holmes took up the stone and held it against the light. "It's a bonny thing," said he. "Just see how it glints and sparkles. Of course it is a nucleus and focus of crime. Every good stone is. They are the devil's pet baits. In the larger and older jewels every facet may stand for a bloody deed. This stone is not yet twenty years old. It was found in the banks of the Amoy River in southem China and is remarkable in having every characteristic of the carbuncle, save that it is blue in shade instead of ruby red. In spite of its youth, it has already a sinister history. There have been two murders, a vitriol-throwing, a suicide, and several robberies brought about for the sake of this forty-grain weight of crystallized charcoal. Who would think that so pretty a toy would be a purveyor to the gallows and the prison? 」というわけです。もちろんこんな長い文章が聞き取れるわけもないので、Wikisourceからコピったわけですが、宝石を指して「so pretty a toy」。いやあ、こういう使い方するわけですね。(超低レベル語で喜んでて、すいませんが、、)こないだからbeautiful、pretty あたりの言葉が気になっていたせいか、そのpretty って言葉だけ、ドラマの台詞の中で妙に際立って聞こえたわけです。何度も聞きなおして挙句に原典まであたるという入れ込みよう。まあそれなりに自覚はあるけど、いったん気になりだすと、やたらと尾をひくんですな、これが。
それにしても、ほぼオリジナルの言葉遣いに忠実にドラマ化してるってことで、さすが、コナンドイル卿って愛されてるんですねえ。

2010/03/09

三月の雪

鼻と喉に花粉症の訪れを感じながら雪を観たことがいままであったろうか、と考えてみる。うまく思い出せない。太郎の屋根にも、次郎の屋根にも雪ふりつむ。店先のトマトの頭にも雪ふりつむ。たこ焼屋さんの軒先の湯気の中に雪は溶けゆく。人事の季節。最寄コンビニの「いけだくん」にはここに越してきて以来レジでお世話になっているのだが、ふと見ると、いつの間にか名札に「店長」の二文字が加わっていた。昇進おめでとう。名ばかりで大変かもしれないが、きっと彼ならうまくやるにちがいない。どうやら声のきれいなバイトの女の子といわゆる「いい仲」らしいのだが(買いものするだけなのに、どうしてこんなことまで分かってしまうんだろう、ふしぎ。)ふたりでハッピーにお仕事できるといいね。きっと雪も祝福している。

2010/03/07

意味深

もぎけん先生のtwitter によれば、sweetness is to be found in the solitude of soul...なのだそうだ。sweet という言葉は辞書を引いてみても訳語がたくさんあって、どうも、その中のどれを取ってもこの文脈にぴたりと合う言葉が見つからない。単に甘い、だけじゃ済ませられない余韻というか意味シンさがありますよね。で、つられて思い出すのがbeautiful、って言葉で、日本で赤ちゃんを見たときの第一声は、ほぼ「かわいい」であるのが常識的かと思うんだけど、あー、たとえETみたいだと思ったって一応「カワイイ」って言うし、ふつう。でしょ。で、数少ないアメリカもののドラマ(FriendsとERで計4回ぐらい)で見る範囲内では、赤ちゃんを見たときに発する言葉というのは、どうもbeautifulであるらしい。たとえばキャロルとかレイチェルとかジン・メイが腕の中の赤子を見つめながらですよ、beautiful...って嘆息するわけですよ。たまにpretty とか、cuteとか言わないのかな、と思って期待してるわけだけど、やっぱりbeautifulなんだな、これが。で、かわいい、よりbeautifulのほうが、理由はうまく言えないけど、ぜったい、いいに決まってる。どうにでも取れる便利な言葉という意味では同じ感覚なのかもしれないけれど、異国の言葉がやけに意味深げに聞こえてしまうのは、これって典型的辺境的日本人だからなんでしょーか。なんかくやしい。
いやしかし。日本の母たちが赤子を腕に抱きながら果たして「かわいい」って言うかどうかってことが次第に虚ろになってきた。母たちはなんて言うのだろう。「かわいい」なんて言わないかもしれない。むしろ無言かも。そのほうが「かわいい」なぞと呟くよりはよほど絵になる。うーん。わからない。
なんてこと思うのは、何度か挫折して再び手に取って読んでいるB.RussellのThe problems of philosophyと、おなじみ数度目のトライとなるR.ChandlerのThe long good byeが、いまいちノリが悪いせいもある。Audibleで聴く本も、まだ決まらない。はて。通勤時に聞き流せる、よい本ありませんでしょーか、ね。

母君のこと

母君が「腰膝サポートタイツを2割引にて購いたい」とのたまうので、2年ぶりぐらいに買いものにつきあうことになる。もちろん、「あんたのも買ってあげる」という惹き文句につられて。親とはありがたきもので、子が何歳になろうと誕生日には(毎年ではないにしろ)何か与えねばならぬと信じてくださっている。今年はその何回に1回の僥倖。地下街の食堂で京風なんとか御膳を食して腹ごしらえの後、小田急ハルクに向かう。昭和5年生まれの母が何ゆえそのようなタイツを欲するのかといえば、茶道の稽古で膝を酷使した後に卓球をなさるからである。卓球友達の「そこにイチローがいるから」とのメッセージをたよりにお目当てはXのタイツであろうと目星をつける。父君用の5本指ソックスも入手する。

お次はユニクロ。「来週お台場に遊びに行くので、ジーンズが欲しい」とおっしゃる。母君のスタイルに適したユニクロのジーンズを探すのは至難であるが、当人はそのようなことは露知らず、スキニージーンズを手にお取りになり「この色がよろし、これをもて」と試着室に直行しようとなさる。「念のためWブーツカット(股上深め)をお持ちなさいませ」と後を追いかける。

姿勢矯正パンツを求めたあたりで「そろそろお腹がすきましたわね」とおっしゃる。喫茶店でサバランを注文される。運ばれてきた皿の上にデコレートされているカスタードクリームらしきものを指しウエイトレスさんに「これは何かしら」とのご質問。そんなこと聞いてどうなさるのかと冷汗が出かかるが、運良く母君の質問は彼女の耳に届かなかったらしく無視された。そんなこんなの間に裾上げ処理待ちの1時間が経過。首尾よく裾上げのジーンズを受け取り、上機嫌となった母君は急行で、わたしは鈍行で家路につく。そんな母の世話を焼くのは嫌いではない。

町田康の影響か、へんな古文調になっている。『東京瓢然』は面白かった。突如笑いの発作が起きるかもしれないので、車中で立ち読みなどなさろうと思う方は要注意。確かに、雅、とか禅、とか、客観、などと同様、飄然などという言葉は、他を指して評するならともかく、自己のあるべき姿として言葉にした時点で本質が失われる類の言葉である。ゆえに本書は、飄然たろうとして、そうなれない小市民的中年のおじさんがロック調で怒っているエッセイまたはフィクションであろう。それにしてもオビに「幻想的な東京」とあるのはどうだろう。妄想的もしくは神経症的のほうが正しいんじゃないだろうか。自分て変わってるよな、と一抹の憂慮をもって自覚している方は、いやもっと激烈にヘンなことを創作なのか真情吐露かは別として、まじめに書物にしたためるひとが世の中には存在していてくださるのだと共感をもって安堵できるに違いない良書である。

2010/03/06

Sweet voice

牛が食べものを反芻するように、頭の中でくるくると廻ることどもの連環をいちど断ち切りたいと思うとき、自分にとって最も効果的なのは走ることである。仕事まみれの平日思考から休日へモード転換するにベストな方法は、金曜の夜、できたら10kmぐらい走るのに限る。へろへろになってゴールする頃には、仕事のことなんか宇宙の彼方へ飛散している。この感覚が好きで走っているのかもしれない、と、時に思う。ただ問題は、やはり雨と、時季特有の花粉であって、やはり、マスクして走るのも、カッパ着て走るのもツライ。ツライのはいけない。そういった事象に備えて、フィットネスクラブの会員にでもなろうかと考えつつある。

町田康がいいという話をどこかで聞いて、かつて手に取ったときにはどうも文体が濃すぎて読み続けられなかったのだが、いま『東京飄然』を読みかけている。「おじさんの日帰り旅」という小市民に無理のない現実的企画と、飄然、というスタイルが、今の自分にどこかカチリとはまったらしい。情景描写が多いせいか、古文風文体も濃すぎず、かえって好もしい。

よく知っている人も知らないひとも含め、いままで出会った人の中で4人ほど、その声を聞くと特に理由もなく落ちつく、という人がいて、そんなときには、ああこのひとと長くお話していたい、いや正確には、内容はどうでもいいから、何かしゃべって、と思ったりするのだが、用事もないのに長々と話すのも苦手なので、なかなかそういうわけにもいかない。オペラ歌手ばりの朗々たる美声であればいいというわけでもないが、基本的には低い声がいい。そういえばこの前、外国人から営業の電話がかかってきて、いつものように、お得意のJanglishをもって最短で会話を終えられる受け答えをして切ろうとしたら、切り際に「きみってSweetVoiceね」と言われたことがある。ほう、さすがお世辞が上手な、と思ったものだが、確かに、ある特定の人の声には味があって、そう、それは、Sweet、とでもしか表現しようのない不思議な効能効果がある。

2010/02/28

兆し

近所の美容室に縮毛矯正をかけにいく。4年近く担当してくれていた美容師さんが産休に入ってしまって、前回から眼鏡をかけた30歳ぐらいの男の子になった。縮毛は1回につき3時間半はかかるし、その後まる1日は頭を洗ってはいけないので、その日のジョギングは終えてから来る時間設定にしてある。5km走った後でもあり、心地よい頭への刺激とアイロンの熱とで、抗いがたい睡魔に襲われ、うとうとする。前回も10km走った後で来て、やはり、半分寝ていたから、眼鏡くんも慣れたもので、「ゆっくりしてください」なぞとのたまう。基本的に良い子だが、ときどき軽くジャブが入る。「タレ目ですね」。はい、そうなんです、タレ目なんです、とお答えする。カットの前にしてくれる肩マッサージもお上手である。聞けば福島出身の3人兄弟の次男で、母上から「いざ婿に行ったときに困らないように」と掃除洗濯炊事を仕込まれたそうである。ぜひ婿にお迎えしたいと一瞬考える。

美容室を出て新宿に行く。紀伊国屋で何冊か本を仕入れる。前に立読みした時にはそのまま棚に戻した記憶のある「もしもし、運命の人ですか。」を手にとって、今回は、つい買ってしまう。こういうのが読みたくなるというのが、やはり春の兆しなのかもしれない。免許の更新も済んで、もう3月。そろそろ派遣も丸2年を経過したから本気で転職を考えなくてはいけないし。もろもろ惑いの尽きない不惑マイナス2歳まであと4日。

2010/02/26

もうすぐ春ですね

午前。ほとんど内勤なので、たまの外出は嬉しい。国会議事堂前で降りて、地図を見ながら歩く。まるで修学旅行の小学生みたいに。この年にして、東京生まれにもかかわらず。我ながら可笑しい。
待ち合わせの時間より少し早めに着いた。すでに生暖かい春風で、コートも要らない。お茶でも飲もうかと辺りを見回すけれど、ビルが目に入るばかりで、コンビニさえ見当たらない。
同行の人は2年ほど前に妙なご縁でお世話になった方である。この業界はほんとうに狭くて、目的地でも、前にいた会社で隣のセクションにいた人を見かけた。人と人との縁というのは面白いものである。

ブログというのはなかなか厄介なもので、以前の職場で少し「もめた」ことがあるから、現職に関わる人には当然ながら意図的に教えたりすることはないのだが、まあローマ字とはいえ実名でやっているから、もしかしたら思いもかけない人が見ていたりすることもあるのかもしれない。それはそれで、まあいいや、とある意味開き直っている。
昔は匿名だったのだが、ニックネームをやめて実名にしたのは、無知は無知なりに、自分の吐いた言葉に責任を持とうと思ったからである。後から恥しくなることも、ままあるけれども。
言葉が自分をつくる。
キツイこともあるけれども、言うべきところは言って、その結果として他者からのもろもろの反応をひきうけていくことは、きっと自分の糧になるはずだと信じている。

2010/02/22

いずれ鍵を

1ヶ月ほど前だったか、昼ごはんを食べたカフェに置いてあったR25の表紙に「倉本聰」という名前を見つけて手に取った。「北の国から」が好きで好きで、再放送を録画して何回も見た。真似してシナリオも書いたりした。名前を見るだけでどこか、懐かしい。
たとえ本意でない状況にあるときでも、いつも「鍵を開けるべき箱」が胸の中にあることを忘れたくないね、というような内容のインタビュー。ふと思い出した。Webにも載っていたので。
いずれ鍵を開ける箱が」

2010/02/21

須賀敦子の特集を寝転がってみていたら、同級生、として出てきたのがシスター西川だった。もうかなりお年を召されたはずだが張りのあるはっきりした声。須賀さんのことを「シンプルアンドストレートね」と評したその口調が、いかにもだった。お変わりない。そうか、そういう縁があって、彼女は一時うちの学校で教えていたんだ、たしか。
声とは不思議なものだ。もう20年も前のことで、すっかり忘れていたのに、声という見えない糸をたよりにいくつかの記憶が浮かんでは消えた。

身軽なのがいい

横浜美術館に束芋「断面の世代」を観に行く。それなりの気力があるときでないと、現代美術に向き合えないような気がして、のばしのばしにしていたのだが、束芋さんの作品はどこか、癒しとまではいかないが共感できる部分があった、という意味で後味は悪くなかった。団断は4回見た。BLOWは、内面にあるもの(物質的に、体内の器官もあり、または感情も含め)が外に現れたときに変質する、というテーマが気に入った。所蔵品コーナーで、まっすぐに目に飛び込んできた森村泰昌作品に思わず笑う。原節子。奈良作品にも久しぶりにお目にかかる。

千夜千冊で連続的に語られているリスク論は、ことの発端は金融であったに違いないが、このところますます身に迫った問題に思えてきた。有無同然と言ってしまえばそれまでだが、モノが無ければ無いで満足できずに有る状態を目指し、有る状態に至れば今度はそれを脅かす存在に対して怯えるわけである。リスクリスクと言われ始めたのは、結局のところ、一応モノの無いステージがある特定の地域においては終了したということなのだろう。
システムは成長することによってしか存在し続けることができないとすれば、その各プロセスにおいてリスクを伴うことになる。リスク分散のためにグローバル化しているつもりが、そのために逆にかかえきれない大きなリスクを背負っていた、というようなことも書かれていた。次回に注目。

なんの論拠もないけれども、これからは自分の目のしっかり届く範囲で、マインドとか仕事ぶりをよく知った人と仕事をし、得た有形無形の財産は適切な形で求める人に贈与していく、そういう心地よいサイズの仕事ができたら、と思いはじめている。もともと、大企業向きの性格でもないし。 とりあえず、修行中、というところ。
リスクとコンティンジェンシーは表裏をなすのだろうが、偶有性を楽しめるのは、システムがごく小さい場合か、あくまで個人レベルの話のような気がしている。やはり身軽なのがいい。

2010/02/20

invictus

あまり雑誌は買って読まないけれど、病院の待ち時間に見た「日経アソシエ」も映画の待ち時間に読んだThe21もノート術の話だった。読んでもやはり自分なりの使い方しかできないけれど。予想外の収穫は、齋藤孝さんの「交渉前に1分、3点考えましょう」という記事。紙に、交渉の1、利益(複数ある場合は優先順位をつける)、2、オプション(1の利益を守るためにできる提案)、3、 Best alternative negotiated agreement(バトナと略すそうな)、もし交渉決裂したらどうするかという逃げ道、だそうである。これを実際面談に入る前に考えておくと実のある話になりますよと。なるほどだった。社外だけでなく社内向けにも使えるかも。

インビクタス、モーガン・フリーマンのためにあるような映画だと思いつつ見ていたら、エンドロールを見ると彼もプロデュースに携わっているようだった。感情的にぐぐっと惹きつけられたというよりは、マンデラ氏の姿から、どれほど人を赦せるか、とか魂のありよう、みたいなことをふと考えてしまう。スポーツつながりということで、ちょうど今の時期、オリンピックをちらちら見ることもあって、(そうそう、今日のカーリングのイギリス戦は、すこぶる面白くて、珍しくじっくり見てしまった。)Fundamental principle of Olympismというのをはじめて読んだのだが、人間の尊厳保持、平和な社会、スポーツをすることは人権の一つ、などと書いてあったのを思い出した。スポーツに限らず、何にしろ、たとえば仕事も趣味でも、打ち込めば尊厳であり人権であり平和にも繋がるかもしれないが。南アのラグビーチームの主将役で出たマット・デイモンはずいぶん鍛えあげたように見えて、「グッドウィルハンティング」の昔とは印象がずいぶん変わったものだと思う。ラグビーが好きな人には嬉しい映画かもしれない。

TVでトヨタ問題を特集している。やはりメーカーのはしくれに勤めている者としては、危機対応のモデルケースとして勉強になることが多い。
リスクには想定内の(あらかじめ予測し製品に組み込める)ものと想定外のものがある。想定外の使われ方をした場合の不具合に、どう対応するか。会社やブランドへの期待値を上回る対応ができればそれが信頼回復の契機ともなる。
グローバル企業において、本当の「危機」が起こってしまった場合、本社にしか意思決定権が与えられていないと対応が後手後手になる場合が多い。地方分権化を進めるべき。
有事において、とりあえず火を消す、法的責任を取る、ところまではできても、顧客はもちろんのこと、政府やその他関係者へのコミュニケーションが不足すると事が必要以上に大きくなる。
などなど。

おまけ。映画のテーマともいえる詩(Invictus)。
ネタバレかな。一応、これから映画観る人は読まないほうがいいかも。

Out of the night that covers me,
Black as the pit from pole to pole,
I thank whatever gods may be
For my unconquerable soul.
In the fell clutch of circumstance
I have not winced nor cried aloud.
Under the bludgeonings of chance
My head is bloody, but unbowed.
Beyond this place of wrath and tears
Looms but the Horror of the shade,
And yet the menace of the years
Finds and shall find me unafraid.It matters not how strait the gate,
How charged with punishments the scroll,
I am the master of my fate:
I am the captain of my soul

2010/02/16

なごむ

今朝の体温は35.5℃で、低すぎる気もしたが平熱と思われたので出勤した。
ふと思い出して、半年ほど前に送信されてきた派遣会社の新型インフル対応指針をよく見てみると、熱が出た場合は、その後病院で検査し、陰性の場合は出勤して良い、と書いてある。
昼も近づいてきて、薬の効き目も切れたのか少々熱っぽくもある。念のため、早退して病院で検査を受けることにした。

インフル検査をしてくれるかどうかだけを電話で確認して、初めて行った病院だったが、あまり病院の経営状態もよいとは思えず、待合にいる患者はひとりだけ。がらんとしたフロアにテレビからフィギュアスケートが流れている。ほどなく呼ばれる。耳鼻科でよく使うような、長細い綿棒状のものを鼻につっこまれる。待つこと10分ほど、再度呼ばれる。めでたく陰性。
先生はいくつかの病院をかけもちしているらしい。少々年配の看護婦さんとの会話が、やたら暢気で、「新型インフルなんて、まだ流行ってるのかしら、先生」「ぼくが昨日行った病院で一人いましたよ。まだ根強く、いるみたいですねえ」「あらそうなんですか」「規定で決まっちゃってまして、熱が出たら検査して陰性でないと出勤できないんです」「あらそうなの」「診断書要る?あれ高いのよね、別にあたしたちがいただくんじゃないのにね」「そうなんですよ、ぼくらがいただくんじゃないのにね」「会社で決まった書式とか、ないの?」「とりあえず陰性って紙に書いてあればいいと思います」「じゃ、あれでいいんじゃない、ほら、診断書じゃなくても」「そうね、あれでいいよ」というような、やたらなごむ雰囲気とともに、安上がりな検査結果を頂戴することとなる。どこかしら気持ちも軽くなる。
教会の向かいにある、聖人の名前のついた病院だった。

2010/02/14

そば茶

土曜。昼から歯科。バレンタインデーも近いし、いじり甲斐のありそうな、かの若先生に義理チョコでもお持ちしてどんな反応を示すか観察しようと思っていたのだが、ぼうっとしていて、チョコレートを買うのを忘れてしまった。つまらない。帰りがけに本屋でもぎけん先生おすすめの『忘却の整理学』を立読み。金曜に読んだ論文によると、AJさんはコンセプト化とかアナロジー分野が苦手らしい。忘却できるということは逆に言えばそういう分野がそれなりに機能しているということなんだろうね、きっと。

日曜。ここのところ自炊する気力が出ず、もっぱらコンビニにお世話になっている。オフィスの自販機に入っているせいで時々買う伊藤園「韃靼そば茶」を昼ごはんと一緒に買って飲んだのだが、蕎麦の味がしない。おかしいと思って体温を測ってみると38℃の熱である。やはり花粉ではなく風邪だった。字義通り「ぼうっとしている」とはこのことで、しかし鼻づまりが酷くて眠れない。ipodに入っているゲームをしたり、リチャード・ドーキンスの新刊『進化の存在証明』の写真を眺めたり、一方PCではドラマの「ER」が延々とかけっぱなしになっていたりする。
今年の冬は暖房を使わずに過ごしたが、節約というよりは、リモコンが壊れたまま放置してあるので、少し高いところにある電源の入切が面倒なのだった。ダーリンとかハビーがいると、そういうのを直してくれて、且つ病床のわたしに優しくお給仕でもしてくれるだろうに、と体調不良のときにしか浮かばない至極自己中心的妄想がくるくると頭を回っている。きっとERでグリーン先生が結婚してしまったせいもあるだろう。

2010/02/12

ながらくのご無礼をば

花粉かと思っていたら、風邪のようでもある。花粉症の薬とパブロンをダブルで飲んでいるので眠気も二倍。眠気覚ましに、いっしょうけんめいキシリトールガムを噛みしめる。熱っぽいので、よほど会社を早退しようと思ったが、帰りに朝カルに寄るし、とガマンする。
今日のもぎけん先生ご紹介の論文は「A case of unusual autobiographical remembering」。割合読みやすい。AJことJill Priceの特筆すべき点は、彼女自身の過去や、興味のある対象の記憶を日付とリンクして詳細に覚えていることで、一般的知識教養の類の記憶には長けていないこと。また過去の個人的な記憶を反芻している時間が他人に比して異常に長いのだそうで、強迫症的な傾向がある。今のところ世界で4,5人しか見出されていないらしい。

テレビのワイドショーか何かの録画で、キャスターと彼女との対談を見せてもらう。彼女は「ふつうの人」に見える。レインマンのモデルになったKim Peak 氏などは、Savantであることや何か問われた場合の応答の早さなどからも一見してその非凡さが伺えるけれども、彼女の場合、相手の質問への反応時間はごく自然で、どこか考えながら、思い出しているようでもある。ちなみに、その記憶がニセモノでないことは、彼女はたまたま子供の頃から詳細な日記をつけ続けていて、記憶と記述が相違ないことなどからも示されるのだそうである。

面白かったのは、対談の最中、キャスターと話しながら「今も頭の中では過去の記憶が映画のように映し出されている」と言っていたこと。そのとき彼女はテレビ初出演だったらしいし、たとえ普通の状況下でも、誰かと面と向かって話をしているときに同時に頭の中で別の映像が回っている自覚があるというのは、かなり非凡である。(対話の方がうわの空になる、というなら少しは理解できるが、彼女の場合かなりマジメに応対していた。テレビ収録だし。)自動的に、または強迫症的に、過去のプライベートなエピソード記憶が「鍵」となる言葉をきっかけに、思い出されてくるそうである。「episodic retrieval mode」というらしい。

今日のお話は、そこから翻って、人間は得ると同時に何か失い、失うことによってまた得るのであって、詳細情報を忘れることによって、しみじみ味わいのある小津映画みたいな記憶が形作られるともいえませんでしょうかね、という流れではありましたが。

お茶の飲みすぎなのか、冷える。そそくさとトイレを出たところで思いがけず名前を呼ばれ、相手の顔をまじまじと見つめてしまう。社名とお名前を伺ってはじめて、3年ほど前にお目にかかった方だと漸く思い出す。聞けば2年も同じ講座を取られているとかで、言われてみれば教室でお見かけしたようでもある。最近どうですか、原材料高騰にリストラ、上層部のクビはすげ替えられるわで、まあなかなか色々あります。いやいや、decouplingという話でした、ええ、ここで仕事の話はやめましょうなどと話しつつ新宿駅へ向かう。
人の顔をおぼえるのがほんとうに苦手なのだが、しかし、我ながら、救いがたい。ながらくのご無礼をばおゆるしくださいませ。

2010/02/09

vulnerable

常々読んでいるウチダ先生のブログで、気になったのがこの文章である。
「強い身体は微弱なシグナルに反応できない。「傷つきやすい身体」だけが「傷ついた身体」からのcalling を感知できる。機械はvulnerable ではない。だから、機械は「逸脱」は検知できても、「弱さ」は検出できない。弱さというのはアウトプットそのものではなく、ある種のアウトプットを生み出す「傾向」のことだからである。ナースの中には「死臭」を嗅ぎ当て、瀕死の人のかたわらに立つと「弔鐘」の音が聞こえる人がいるそうである」ブログ「内田樹の研究室」より引用

すぐに思い浮かんだのは、20代半ばの頃、縁あって(というか仕事だが)40代後半の女性と同居させてもらっていたときのことである。同居女性は「私は、悪い風邪をひいている人と、そうでない人の区別ができる、肌で感じる」と言っていて、「へえ、そうですか」と聞きながら、内心、ほんまかいな、と思っていた。ところが最近、バスに乗っていて、これが確かに肌で感じられることに気がついた。発生源と思われる人物から1.5mほども離れているのに、主に上半身がぞわぞわする。あの話は、ほんとうだった。年のせいもあるのだろうか。くだんの同居女性は強そうに見えたけれども、傷つきやすい身体を抱えていた人だったんだろうかと、今にして思う。

ところで、引用文の中で、何がいちばん目からウロコ的だったかというと、機械は逸脱は感知できても弱さは感知できない、弱さとはアウトプットそのものではなくそれ以前の「傾向」だから、というフレーズである。
たとえば。何か良くない事象が生じた場合、顛末報告をする。報告者が強調しがちなのはプロセスにおいて「逸脱はなかった」ということである。そういった定型的文言を見るたびに、おかしい、どこか何かおかしいんだよなと思うのだが、結局、そういうことだったのである。逸脱があるかないかを問題にするだけなら、つまるところ機械と同等レベルということだ。そこに逸脱以前の、アウトプット以前の微弱な「傾向」を見出せてはじめて、人が目で見た意味があるんじゃないか。またそれは、ブログの前段で触れられているシャーロックホームズのモデルたるベル先生と凡人の違いのように、その傾向を見出せる人と見出せない人とが存在する、ということでもある。
先日のトヨタの件から飛び火した人員削減がどうしても品質劣化につながってしまうのではないかという直感の、少しなりともの論理的裏づけは、「傾向」を見出せるだけの、経験または「心ある」人の眼が失われるから、ということなのではないだろうか。
まあ、ほとんど読者のいない当ブログにこんなことを書いたところで、どうなるものでもないのは、しみじみ、よく分かってはいるのだけれども、ね。

2010/02/06

どうもぼんやりしていて

昨日展示会の帰りに品川駅の成城石井で仕入れたポルボローネ(通っていた高校ではそれをポルボロンと呼んでいて、バザーのたびに売っていた。懐かしくて、つい。)とカマンベールチーズを食べながら松岡正剛の千夜千冊1345夜を読んでいた。朝からぼんやり考えていたことに、根っこのところで通じている話だと思う。

「このとき、自分と相手や世間のあいだに、あるいはユーザーとシステムのあいだに、その問題についての価値観の類似性があるかどうか。SVSモデルでは、自分(ユーザー)が相手(システム)と似たような価値観を共有しているように感じられると、その相手に対する信頼も共有されるというふうにみなす。
 ぼくは、ハッとした。これって何かに似ている。そうだ、漱石の「可哀想だた、惚れたったことよ」なのである。いや、わかりやすくは“信頼の相似律”というものだ。なるほど、なるほど、信頼のコストは類似性の連鎖にどれだけコストを払うかということだったんですね。」(松岡正剛の千夜千冊1345夜より引用)

でもって、ふと思うわけだけれども、仮に製造業という業態の一つの会社(システム)があるとして、その会社の株を持ってる人(ユーザー1)と、その会社の作る品物を買う人(ユーザー2)の価値観というのは、共有できるものなんだろうか。ユーザー1から惚れられるシステムで生み出される製品にユーザー2からも惚れてもらえる、という状況を構築することってできるんだろうか。投資家をユーザーと見るのがいけないのかな。どうも、ぼんやりしていて、よく分からない。

落とし穴

ぼうっとテレビを眺めていたら、トヨタのリコール問題の話になって、他人事と思えずマジメに見てしまう。マスコミはあまり言及しないが現場にとって極めて明らかなのは、大規模リストラが品質に及ぼす影響である。それはきっと、オフィスに鎮座ましましている人たちには感知できないところからひたひたと波のように寄せてきている。某社で社長職を廃止したという挨拶状を出しているのを見たが、上からリストラする姿勢は悪いことではない。品質を落とさない努力というのは、いわゆるシモジモの者がやっているのであって、そういう心ある人たちを「お金の問題」によって、ざくざく切っていくと、必ず見えない技術、品質上の劣化というしっぺ返しを受ける。そういう覚悟と予測をもって人を切っているのか。それは長期的にはブランドの信用凋落、売上を失うという、いつもそればかりが問題にされている「お金の問題」となって返ってくるのである。よくよく再考すべきである。

テレビのコメンテーターが、グローバル調達によって、部品ごとの調達を価格重視でいろんなところからしていると、それを統合して製品として出来てきたときの問題点が見えにくいのではという意見を出していた。ほんとうに、その通りである。一個の完成した製品としての身体性というべきものが現場で捉えにくくなっているという事実。そういう現実に、今回のトヨタ問題から翻って自社体勢の問題として気づく人がいるのだろうか。いてほしいと祈るばかりである。

そこにもってくると今日のビジョンEの結びのコクヨの話題は良かった。コクヨのドットつき罫線ノート(ヒット商品で東大ノート、とかいうらしい)開発に携わった若手社員の話。帰宅に電車を使わず文具店を回って徒歩で帰るという。コクヨでは顧客ではなく個客と書くのだという。ユーザーひとりひとりが様々な意見を持っている。それを直接訊ねることによって引き出してくる。そういう地道な仕事ができる環境をこのご時世でもしっかり提供しつづけている会社の経営方針は見習うべきものがある。

2010/02/03

節分

仕事で芝公園の近くに行く。昼休みに散歩していると、遠くのスピーカーから、なにやら漫談めいたトークが聞こえてきて、近づいてみると、増上寺で豆まきがなされているのだった。
昔むかし、子供の頃に家内行事として豆をまいた記憶はあるが、寺の豆まきに遭遇したのは、ほとんど初めてではないだろうか。もう人生たんと生きてきた気がするが、まだいろんな「はじめて」があるものだなあと思う。
製菓会社が協賛しているとみえて豆だけでなく袋菓子も撒かれているようだが、黒山の人だかりとはこのことで、よく見えない。警備員さんが難しい顔をして両手を広げ、入場制限をしている。
運とか手相とかおみくじとか血液型とか星占いとか、そういったものを信じようと試みても、どうもうまく信じられたためしがない。豆や菓子を拾いたいともあまり思わない。
ただそこで、鬼は外、福は内、というごく単純な言葉が繰り返され、豆がまかれ、そこに人が毎年集い、という、そういった空間が、たとえ自分とは離れたところであってでも存在しつづけている、そのことが好きだ、と思う。

豆といえば、この前行った鎌倉まめやで買った豆がじつに美味しかった。麻布の豆源でもよいかと思って最寄のデパ地下で仕入れてみたが、やっぱり鎌倉まめやの味が恋しい。通販で買おうかしら。

2010/01/31

Jogもろもろ

少し前、どこからのリンクだったか忘れてしまったけれど、ウォールストリートジャーナルの「運動の薦め」という記事を読んだ。運動の効用は単に体重減少にとどまらず、ウイルスや細胞を撃退する体内の免疫システムを向上させる作用もあるそうだ。

持病の関係で免疫系が弱い自覚があるので、ほほう、と思ったわけだが、この冬を振り返ってみると、確かに今のところ風邪をひいていない。風邪をひきそうだと思った回数も、昨年に比べると、はるかに少なかった。(それに伴って常備薬たる「パブロンゴールドA微粒」の減りも少なかった。)毎年、冬は通勤の車内では必ずマスクをしていたが、この冬、マスクは常時携帯していたものの、殆どしなかったけれど、だいじょうぶだった。

記事によると、週5回30~45分の歩行程度の軽い運動は、多くの病気の根底にある、細胞、組織、臓器に対する継続的な損傷に対抗するのに役立ち、2型糖尿病発症率低下、血圧低下、悪玉コレステロール減少、細胞の不活性化が抑制されることによるがん発症率低下、エストロゲン(女性ホルモン)レベルの減少による乳がん発症率低下にも効果的と考えられているそうである。(原文はこちら

自分の場合、お酒を飲むと定期的に測定している値に多大なる悪影響が生じることが判明したので、もともとさして飲まないものの、完全禁酒までしているから、少々は健康的な生活をしていると思っていたが、運動不足は喫煙と同程度の健康被害がある、などと書かれると、今までの運動不足な日々ってずいぶん不健康だったのだなあと、あらためて。
確かに2日走らないと、その某数値が悪化トレンドに入ることをかかりつけのお医者さんからも指摘されている。つまり、最低1日おきに運動せよということ。(しかし平日は特に、これが、なかなか。)逆に、昨日今日のように、連日10km超走ると、ぐっと良くなる。

今日は新しい12.5kmのジョギングコースを作って走ってみた。12.5kmで約1時間半。途中信号でたくさん停まったけれども、1kmほぼ7分。おそすぎ(笑)。
さすがに今日は、走っている途中から早くも、おしりのあたり、筋肉痛を感じはじめるし、シューズを脱いでみると左足の皮がむけそうになってもいて、つまり靴下に検討の余地ありということで、いろいろありますが。明日あさっては雨だから、その間に治るでしょう、きっと。ともあれ今月の走行距離は76km。昨日今日と月末に距離かせぎましたが、まあ、いいことにしましょ。

そろそろ花粉の季節ですが、ここをどう乗り切って運動を続けるかが来月以降4月頃までの課題。
ジョギング中のマスクって耐えられるんだろうか(考えただけで、息が苦しそう。)花粉が飛ばない雨の日にカッパ着て走るべきか。などなど。

2010/01/30

golden slumbers

水曜は夕方から明治大学に行く。この5回シリーズの講義は、もぎけん先生の幅広い活動の中で自分が関心を持っているコアな部分でもあり、明治が職場から近かったことも幸運だったけれど、生聴講できて本当に良かった。同じ時代に生きていられて良かったな、と思う人はそう多くないけれども、自分にとって、そういう先生のひとりである。

今日は昼から歯医者に行く。先生と話をしていて、自分の口癖に初めて気がつく。これこれだとダメですよね、というような文脈で、「ダメ」という言葉を多用するのである。それに対して先生は「ダメってことはないですよ」と応じる。「そうですか、ダメってことはないですか」と答えつつ、そのあと気をつけて聞いていると、先生は「ダメ」という言葉遣いはしない。かわりに、「うーん、でも、やっぱり、難しいのかなあ」なぞと、やんわり、おっしゃるのである。結局、難しいのだけれども、できる限り試みる、というところに着地して、話が終わる。
いつも答が「良い」か「ダメ」しかないと、諦めが早すぎる、ということにもなる。気をつけないと、と思ったりする。

歯科から帰って、久しぶりに遠征。10km以上jogすることを遠征と勝手に名づけている。陽が照っているから気温も高め。途中からウインドブレーカーを脱いで半袖+アームウォーマーという姿になる。道行く奥さまがすれ違いざまに「寒いのにねえ」とおっしゃるのが聞こえてくる。いえ、今日はあたたかいですよ、と思いながら遠ざかる。

夕方から、「ゴールデンスランバー」を観に豊島園に出かける。突拍子もない展開のストーリーではあっけれど、堺さんは相変わらず、がんばってましたね。
自分にとってもhomewardから連想する、そう多くはないいくつかの顔がある。いずれも今は疎遠になってしまったけれど、いつか、どこかで、また会えるといいね。きみたちのためなら、こころ一杯のことをしたいと今でも思っているよ。少し涙ぐむ。
帰りがけ、ビートルズが無性に聞きたくなって、CD5枚レンタルで1050円のセールでビートルズばかり借りてきた。いまかけている。泣けますね、golden slumbers。

2010/01/23

そこに音楽が流れているか

少し昔のエッセイに、「男好き」は実践派、「いい男好き」は遠くから眺めて楽しむ鑑賞派、という分類が載っていたけれど、その分類でいけば自分は間違いなく後者になる。
トークショーや講演を好むのも、やはり、いいオトコを眺めていい話を聞いているのが好きだからかもしれない。その証拠に、あまり女性の講演をすすんで聴きに行った記憶がない。いや、でも内田光子のリサイタルとリサ・ランドールには行ったか。こじつけだったかもしれない。
ともあれ金曜は中沢新一先生のお話を伺いに池袋ジュンク堂に行く。しばらく遠ざかっていて、いまどういった動向かなどはとんと分からず、でもしばらく「店長」でいらっしゃるので、とりあえず書棚を見てこようか、と。
わたしとは違って、熱心なファンが一言一句、といった様子でノートテーキングしている姿を見かけたので、そういうのはほかに譲るとして。。
店長トークはシリーズの2回目だそうで、前回のお題は「本との出会い」だったらしい。今回は「思想との出会い」。
中沢さんは、お父上の承諾を得て揃え始めた世界の名著の第一冊目でニーチェに、がつんとやられてしまったそうだ。一言でいえば、そこから音楽が聞こえた、と。
魚が水の中にいるような身体性を伴った、それでいて、少し溶けかけて今にも割れそうな氷の中にずぶずぶと足を踏み入れてしまったときのような、内臓の奥底、無意識との堺ににひたひたと波打つ何かに触れるような、昆虫の触覚が世界に触れるときのように、ふるふると震える「気分」を伴った、ただの知識と論理の羅列だけでない何かーその何か、が言葉に乗らない、という話を2時間えんえんとされたわけだから、ここでうまく書くことなんてできるわけもないのだけれども―そういう実にプライベートな内面のふるまいを、半死半生の思いでたたき出してきて、他人と共有できる「言葉」もしくは「論理」の中に、辛うじてなんとか痕跡を残そうとした、そういう身体性や、気分、もしくはそれを音楽といってもいいけれど、それを感じられる思想こそが思想なんじゃないか。という、とてつもなく熱いお話。

テキストにユリイカ1988年10月号に掲載の「方言論」を使われたのだが、トークが始まる前に読んでいて、ここで引かれているハンガリー語の話と深沢七郎の文体の話にひどく惹かれてしまった。
というのも、こういうことをこの年で今更思うのもなんだけれども、なんか日本語がうまく使えないんですよね、ほんとに。最近は、何を書いても、うそっぱちな気がして。まるでティーンエイジャーみたいですが。
かつての中沢さんの場合、それは日本語という言語が、自分の内面のふるまいに合わない言語構造だからなんじゃないか、むしろハンガリー語のほうが内面のふるまいに合ってるんじゃないか、と展開していくあたりが、とても素敵だとおもった。きっと、わたしの中にもハンガリー人がいるに違いない。

しかし。そこへもってくると、音楽はすごい。感情、気分といったものを言葉より的確に表現するという点で、音楽は謎だというようなことをレヴィストロースは言ったんだそうですが、いや鳥のさえずりには負けるかもしれないけれど、音楽は深い、人間の心のどこを巻き込んでいるものなのかと。まさしくそうですね、ふしぎ、と何度もこくこくと肯いてしまう。
こういう話がまとまるはずもないんだけれど、はい、そうなんです、えらく心動かされるお話でした、ということを残しておきたかった。

4ヶ月毎に定期健診に通っている行きつけの歯科では、どうも思うように効果が上がらないので、年末から職場近くの大学病院の歯科に行くことにした。お会計も極めて明朗で、予約すれば待ち時間も短い。気に入っている。この病院には取引先の機器が置いてある。関係ないといえばないけれど、どことなく嬉しい。今日で3回目のこの先生も、厚めの眼鏡の奥の目がぱっちりして、睫毛の長いキュートな青年である。説明の仕方に、少しオタク風な特徴があって、新宿のハンズのデンタルグッズはなかなか品揃えが豊富なのですと教えてくれる。あ、と思い出したように、いえ、もちろん病院の売店にもありますが、と付け加えて、にこにこする。最近いい男にたくさん出会う。しあわせなり。

帰りにハンズでいろいろ仕入れて、ツァラトゥストラと中上健治を読みながら、帰る。

2010/01/21

僥倖

オフィスに集荷に来てくれるのが、ひょろりと青白い顔をした「うらなり君」といった風情の20代前半ぐらいの男の子である。
昨日は夕方近くになってから一つ仕上げて、さて、あとはインボイスをコピーして封をするだけ、となったところで集荷依頼の電話をした。決まり文句で「準備はお済みですか」と聞かれるので、本当は済んでいないのだけれども、どうせすぐに集荷に来るはずもないから、「はい済みました」と答えて、電話を切るのが習慣になっていた。
たまたま昨日は、そこで電話が鳴った。ちょっと長めの話を終えて、我にかえったところで、背中に視線を感じる。目は口ほどにものを言う、というのは本当で、くだんのうらなり君が、「話が長いんだよオマエは」「準備が終わってないのに集荷電話するんじゃねーよ」といった風情で睨んでいる。その目を見て思い出す。こうして待たせるのは2回目である。ばたばたと準備を済ませて手渡したものの、さすがに悪いことをしたなと思っていた。
今日も、うらなり君がやって来た。「きのうは、ごめんねー」と、社内でもらったお菓子をいくつか渡したら、いえいえと遠慮しながら、いままで一度も見たことのない、にこやかな顔で笑った。空腹時に笑顔の不意打ちをくらったせいか、なかなかに刺激的。めまいがする。いや、単に、立ち眩みか。ともあれ、こんないい顔を見られるなら、またいつか、お菓子を用意しておこうかしらん。

2010/01/19

できることから

ここのところ、平日が過ぎるのが、とても早い。
先週は月曜が休みだったからか、と思っていたが、今週も、もう火曜が終わってしまった。
土日は映像系の展覧会を2件回った。
竹橋のウィリアム・ケントリッジ、清澄白河で、レベッカ・ホルン。
どちらも良かったが、レベッカ・ホルンは2番目の展示室でかかっていた、短編が好み。
(長編は、途中から集中力が尽きた。短編の部屋から回ったのは到着時間の関係だったが、結果的には正解だった)ケントリッジは、イヤホンで音楽を聴きながらアニメーションを見る。気に入って、CDを買って帰る。音楽は、フィリップ・ミラー。ケントリッジ作品には、猫と、水がよく出てくる。
William Kentridge - Sobriety, Obesity & Growing Old (1991)

めずらしく、夕飯前にジョギング5km。

プロフェッショナルを見ていた。移植外科医師の回。
この1年ほど、なにか自分に出来ることで、病院でできる仕事はないかと思っているが、なかなか、それらしきものが見つからない。
今は遠くを見るときではないのかもしれない。手元で、できることから、こつこつと。

2010/01/16

繋がっているために。

どうでもいいことほど、意外に気にかかるものである。
最近、南アジアの某国に書類を送って、なにごとか記載して送り返してもらうことが2回あった。このご時世にメール添付で送れないのだから、それなりの書類なはずだったのだけれども、1回目は3枚の書類にホチキスの穴が貫通して(針は抜かれていたけれども)返ってきた。その穴の位置というのも、A4縦長の書類なのに右側の下から3分の1あたりの奇妙な位置にある。

数日後、2通目。こんどは書類自体にこそ穴はあいていなかったけれど、書類を入れたクリアファイルに穴があいて返ってきた。(また針は抜かれていたけれども、跡が、くっきりと。)
おかしいなあ、送る前からあの穴はあったかしら(いや、絶対ない)と思いながら、深く考えずに仕事を続けていて、帰りの電車の中でようやく、気がついた(遅い…)。

ポストイットのかわりにホチキスでメモを止めているのだね。今にして思えば、クリアファイルにはセロテープの剥がし跡もあった。つまり、最初の人はメモをクリアファイルにホチキス止めして、次の人は、メモをテープで止めたわけだ。(逆かもしれない。)
いま日本のオフィスで働いている人間で、依頼用のメモを留めるのにホチキス使う人とか、クリアファイルにメモのホチキス止めを試みる人っていないだろうな。たぶん。事務スタイルにも想定外のことがいろいろあるものだ、とか、やっぱり、ポストイットって偉大な発明だったな、と思ったりする。
こんな些細なことでも、ひとつ謎が解けると、嬉しい。

茂木先生の朝カル。京劇が専門で中国事情に精通した加藤先生という方との対談。
暴露系の話で受けてしまったが、漢文における模範的な文章とは何か、という話がひっかかる。
日本人で(たぶん英語でもそうなんじゃないかと思うけれど、)いわゆる格調高い文章といえば、形容詞のバリエーションが豊富というようなことを思う。
一方、漢文では、「左国史漢」(「春秋左氏伝」と「国語」と「史記」と「漢書」)が文章上達のための必読書なのだそうだが、すべて歴史書であり、一言でいえば、簡潔を旨とする、という。「美人あり、名は虞」、みたいな。

中国という、ヨーロッパに相当する広い地域が一つの国であると住民に認識されていたのは、漢文という、口語とは別次元の士大夫層が使用する言語が長年共通だったからではないか、というお話もあった。

反面、中国というのは、もちろん孔子とか有名な人たちはいるけれども、割合処世術的なところが主だし、いわゆる哲学的な思索というところは弱くて、インドで出た仏教が中国全土で広まったのも、それが漢文にない要素だったからじゃないか、というような話も出たりした。

おそらく、メッセージが簡潔であること、というのは、広い組織を束ねるのに重要なんだな、という気がしている。
情緒的なものを伝えようとすると、だらだらと(こういう)長文になるのだが、そんなものを切り捨ててしまえば、それだけメッセージは強くなる。
おそらくそれは、非常に実際的なメッセージになる。だからきっと、中国の人というのは、そういう面のスキルが、概して、高いんじゃないだろうか。

明けて本日。こうして書き出してみて、あらためて。本音のところ、実際のところ、口語的な様々は非常に異なるものたちが、何かの理由で繋がっているためには、ほんとうに「実」のところ、重要なところ、昨日の話でいえば「漢文」にあたるところ以外は捨ててしまう。簡潔な共通項にのみ注目し、合意する。それはきっと、今なら、ビジネス上の実利と置き換えてもいいかもしれない。様々に異なる「本音」を見せないことは「罪」ではなくて、むしろ、繋がっているための「功」である、という、きっぱり潔い考え方も、悪くない、とは思う。

一方で、やたら冗漫な文章をたらたらとものしてもいるわけで。(なかなか白黒はっきりしない性質でして。。)

2010/01/12

長谷寺

駅に着くまですっかり忘れていたけれど、1月11日は成人の日だった。そのせいで余計に人出が多いのか、JR鎌倉駅から鶴岡八幡宮にかけての道は通勤ラッシュのような混雑ぶり。近代美術館にたどり着いて、内藤礼の展示「すべて動物は、世界の中にちょうど水の中に水があるように存在している」を見る。(この題名はバタイユ「宗教の理論」からなのだそう。美しいフレーズ。)トークセッションに間に合う時間を目指して来場した人が多かったらしく、入口には長い列。水とか空気といった、通常は目を凝らして見ようとしないものを感じさせてくれる作品。きっと、話を聞けば、自分の気づかなかった何かを得るところはあるのだろうけれど、と思いつつ、場内をぐるっと回って、結局、話は聞かずに出る。手帳には「おいで」の紙を記念に貼ってある。(これは、展示を見た人でないと分からないですね。ふふ。)

駅前で手土産を買い、少し迷ったものの、江ノ電には乗らずに長谷寺まで歩くことにした。道中、喫茶店に入って、コーヒーとスコーンをいただく。家具の白木も、真新しく、まだ越してきたばかりの夫婦が二人で切り盛りしているという。土日しか開店しないという古着屋さんにも寄って、品定めなどする。車道に出る少し手前で、栗鼠が3匹、軒先と階段を行き来しているのを見かけて、思わず知らず長居してしまう。栗鼠と鼠は似ているけれど、やはり、しっぽで鼠は負けている。
長谷寺で思い出すのは、北村薫「六の宮の姫君」である。推理小説がとても好きだった頃(今でも、それなりに好きだけれども)、北村薫に惚れ込んでしまって読み込んだ本だから、詳細まで覚えている。鎌倉が出てくるのは最後のあたり、「私」が老先生の家を訪ねる場面。お気に入りだから、前にも引用した気に違いない。でも好きな文章というのは、読むたび新しいのだから、どうぞ、お構いくださるな、である。なぜか長年、心に残っているその光景を、はじめて、展望台から目にした。

「その先に光がきらめいていた。海の見える展望台だった。
歩くにつけ、光は強さを増した。手摺りのところに立つと、まぶしくて、眼を普通に開けてはいられない。私は手を額にかざし眼を細めた。
そして突然、これから歩む人生のことを思った。いや、その思いに襲われた、という方が正しい。
私のような弱い人間に、時代に拠らない不変の正義を見つめることが出来るだろうか。それは誰にも、おそろしく難しいことに違いない。ただ、そのような意志を、人生の総ての時に忘れるようにはなるまい。また素晴らしい人達と出会い自らを成長させたい。内なるもの、自分が自分であったことを、何らかの形で残したい。
思いを、そう表に出せば、くすぐったく羞ずかしい。嘘にさえなりそうだ。だからそれは、実は、言葉に出来ないものなのだ。
それは一瞬に私を捉えた、大きな感情の波なのだ。
遥か下方、家々の向こうに由比ガ浜が見える。その先に広がる海は紗幕をかけたようだ。沖に行くほど、きらめきは増す。眼が慣れてようやく、大きな鏡のあちらこちらに、遠くくだける波頭が見えた。」 (北村薫著「六の宮の姫君」より引用)

2010/01/10

薄墨の円

池袋で某検定試験を受験。試験を受けること自体、とても久しぶり。気持ちとしては、ほとんど捨てていて、セミナーは寝ずに聞いたはずだけれど(なにしろザル頭なので殆ど残っていないし)、その後テキストをひととおり読んだきりで、まったく勉強しなかった。試験は4科目。今朝になって、1科目終了後、次の科目との間にかなり長い休憩があるのに気がついて、手持ち無沙汰だしと、テキストの一部をちぎって持参(全部持つと、重いからね)。
費用を会社持ちで申し込んでいるひとたちが連番で席についていて、試験開始まで、ぼそぼそと会話が聞こえる。英語の検定のように、個人で受ける人が多い静寂な会場の空気とは、ちょっと違う。
マークシートを塗りつぶすのが好きだというひとは、わりと多いんじゃないかと思うけれど、わたしもその一人。
この試験のマーク欄は円型で、楕円ではない。楕円の場合は、輪郭をとったあと、まず真ん中に長い線を引き、若干短めの線をその上下に付せば足りるが、円の場合、輪郭をとってから、内側に向かってくるくると螺旋状に余白を埋めていくことになる。書く線の長さが、たぶん楕円より長いんじゃないかと思う。だからどう、ということでもない。試験時間に対する問題数はそれほど多くない。半分程度は勘なので、それほど迷わない。せっかくだから、はみ出さず、均質な黒で、塗りたい。きれいな薄墨の円をシート上に連ねていくことにだけ精神を傾ける。
本郷のスコスで買った芯の太さ0.7mmの、お気に入りシャープペンをたくさん使えて、しあわせ。(ふつうよく売ってるのは0.5mmだから、少し太め。グラフィック用で、書き味がよろしいのです)

ごはんを食べながら、キアロスタミの「風の吹くまま」をかけていたのだが、あまりに光景と会話がナチュラルすぎて、気がついたら途中からブログを打っていたりする。キアロスタミをかけていると、こういうことがありがちである。(もう一度見ないと。。。)昨日は試験前日だというのに、ギルバート・アデア「閉じた本」、カズオ・イシグロ「日の名残り」(翻訳)を一気読み。DVDも2本見た。なにしろ試験の前というのは、無関係なことへの時間消費意欲が旺盛になるものです。

ウィリアム・ケントリッジ、内藤礼の展覧会が気になっている。今週こそ、行こう。あれ、明日、鎌倉で内藤氏のトークがあるんだね。

2010/01/09

It's impossible, so let's start working.

Man on wireのDVDを漸く見る。
ツインタワーのビルの間にワイヤーを引いて、綱渡りしてしまった、Philippe Petitと仲間たち。
はじめてツインタワーの屋上に上ったときのことを振り返って、「不可能だ。でも、やってみよう」と思ったと語っていました。
ドキュメンタリー映画なので好き嫌い分かれそうですが、また、実際に渡っているところは写真しかないんですけれども、DVDは1時間11分あたりから、チラ見するだけでも、凡庸な日常に刺激が走りますね。。

2010/01/04

細部において多様

これまた年末に押入れから発掘してきた松岡正剛氏の『多読術』を再読。
読書とはごく個人的なものだし、環境、そのとき置かれている状況、身体のコンディション、前に読んだ本の文脈、言葉遣い、そこで共有されていた世界(「味蕾」と表現されていた)などなどに影響されるのであって、たとえば洋服を着替えるように、いろいろな読み方があっていい。平均的な読み方なんてものはない。だからこそ、一読で終わらせず、再読すると新たな発見がある。
自分の「好み」は大切にしたほうがいい。一言で好みといっても、実は細部においては多様なもので、それを発見していくのが面白い。
読書とはコミュニケーションであり、相互作用(相互編集)である。
はっきりしているところよりも、曖昧なところ、きわどいところ、フラジャイルなところに、創発の芽がある。「フラジャイル」をぱらぱら眺める。そうか、ソンタグのいうところの「ラディカル・ウィル」というのも、おそらくはそういう意味あいなのだろう。なんか、すてきだ。

Kazuo Ishiguro 'Nocturnes', 短編集、2話目まで読了。これはいい。なにより、難しい言葉が使われていないので殆ど辞書を引かなくても読めるし(これ大事)、それなりに味もある。「犬の臭い」をどうやって人工的に作るかというあたり、あのレシピは嘘なのかもしれないけれど、一瞬、試してみたくなった。
勢いで、以前に挫折したThe remains of the dayに再挑戦。やっぱりこちらは作品の性質上、文章は若干固め。長編だし。また挫折するかも。

新書「英文法を知ってますか」。英語というと、世界言語として昔から文法もきっちり整っていたかのような錯覚をしていたけれど、なんだ、最初はラテン語に引け目を感じながら育っていった言語だったんだ、と知ると、少し親近感。最後のページにでてくるジョージワシントンの演説の冒頭。そうそう、こういう長い文章がやっぱり苦手で、3回読んでもうまく和訳できそうにない。当時の人たちはこれ聞いて、たぶん理解できたんだろうから、すごい、えらいなあ。

ジョギング。年始に決意新たにした人が多いせいか、気温が少し高めだからか、駅伝の余韻なのか、はたまた食べすぎが気になるからか、12月に比べて、同じ時間帯なのにジョガーにたくさん出会った。やっぱり、仲間がいるとうれしい。5km, 0:31:05。走るようになって初めて、そういう目で駅伝を見ての収穫は、自分は明らかに足が上がっていないこと、もっと姿勢よく走れるはずだということ。それから、もっと最後まで気をしっかり持って走れるということ。たったそれだけ意識しただけで1分早くなった。
とりあえずは、30分を切りたい。

2010/01/03

花の咲かない寒い日は

箱根駅伝復路も終わり、実家で弁当箱に詰めてもらった「おせち」の残りもなくなって、新年明けて早くも3日目。自炊を再開して、気分も通常モードに戻る。

年末に押入れから掘り出してきたTOEIC攻略本、英文ライティングと文法の本をつらつら眺めたりする。次の転職のためにTOEICの点数は取れるところまで取っておいたほうがよいとは思うので、次回約3年ぶりに受験するか少し悩む。この程度の試験でも受けてみないと自分の進歩が実感できないというのも悲しいが、ほかに良い方法が思いあたらない。

文法と構文の取りかたに、ときどき不安があるので、これも掘り出してきた英文読解系の本をひととおり読む。英文に対訳と解説がついているので少しは勉強になるが、自分がかつて選んだ本とはいえ、他人が選んだ文章を「精読」せざるをえないシチュエーションに疲弊。試験問題のつまらなさに匹敵する。点数という結果でもついてこない限り、モチベーションの上がりようもない。さっさと読了後、次回のブックオフ行き紙袋へ直行。

その昔、国語の試験問題には、ごく稀にでも、小林秀雄や北杜夫など、いわゆる名文、迷文との邂逅、というような楽しみがあったけれど、TOEICの試験問題に出てくる英文で、そんな出会いを経験したことがない。試験勉強する気にならないのは、きっとそのせい。
(まあ、もともとTOEICはビジネス向けの試験だから、しかたないか。)

audibleの朗読を聴くのと並行して読んでいるJulian Barnesのペーパーバックを少し開く。相変わらず、こちらはウィットがききすぎていて、精読しても作者の意図を理解できているか不安なまま、カメの歩み。
まあ、それでも、歩かないよりは、マシ。

どこかの大学の監督(かランナー)が好きな言葉、とアナウンサーが話していた。
「花の咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ」。
(「なにも咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」とも。)

2010/01/02

The first run of the new year

2days staying at my parents'. Watched Hakone Ekiden live on TV this morning.
Back to my flat in late afternoon, the first run of the new year, 10km;1:05:38.
During running, remembered the comment of a runner of Toyo univ. "Just to overcome myself last year", true to his words, he broke his own record of 09' Hakone Ekiden 5th leg, the hardest section of the course.
The great deal of watching the live was, to realize people run so fast, so smoothly and so strongly, with maintaining their inner strength to the last moment of the run.
Nothing compared to the Ekiden runners, my record was also improved a bit today-by 1min. 28 sec.. Good start of 2010.