2010/02/28

兆し

近所の美容室に縮毛矯正をかけにいく。4年近く担当してくれていた美容師さんが産休に入ってしまって、前回から眼鏡をかけた30歳ぐらいの男の子になった。縮毛は1回につき3時間半はかかるし、その後まる1日は頭を洗ってはいけないので、その日のジョギングは終えてから来る時間設定にしてある。5km走った後でもあり、心地よい頭への刺激とアイロンの熱とで、抗いがたい睡魔に襲われ、うとうとする。前回も10km走った後で来て、やはり、半分寝ていたから、眼鏡くんも慣れたもので、「ゆっくりしてください」なぞとのたまう。基本的に良い子だが、ときどき軽くジャブが入る。「タレ目ですね」。はい、そうなんです、タレ目なんです、とお答えする。カットの前にしてくれる肩マッサージもお上手である。聞けば福島出身の3人兄弟の次男で、母上から「いざ婿に行ったときに困らないように」と掃除洗濯炊事を仕込まれたそうである。ぜひ婿にお迎えしたいと一瞬考える。

美容室を出て新宿に行く。紀伊国屋で何冊か本を仕入れる。前に立読みした時にはそのまま棚に戻した記憶のある「もしもし、運命の人ですか。」を手にとって、今回は、つい買ってしまう。こういうのが読みたくなるというのが、やはり春の兆しなのかもしれない。免許の更新も済んで、もう3月。そろそろ派遣も丸2年を経過したから本気で転職を考えなくてはいけないし。もろもろ惑いの尽きない不惑マイナス2歳まであと4日。

2010/02/26

もうすぐ春ですね

午前。ほとんど内勤なので、たまの外出は嬉しい。国会議事堂前で降りて、地図を見ながら歩く。まるで修学旅行の小学生みたいに。この年にして、東京生まれにもかかわらず。我ながら可笑しい。
待ち合わせの時間より少し早めに着いた。すでに生暖かい春風で、コートも要らない。お茶でも飲もうかと辺りを見回すけれど、ビルが目に入るばかりで、コンビニさえ見当たらない。
同行の人は2年ほど前に妙なご縁でお世話になった方である。この業界はほんとうに狭くて、目的地でも、前にいた会社で隣のセクションにいた人を見かけた。人と人との縁というのは面白いものである。

ブログというのはなかなか厄介なもので、以前の職場で少し「もめた」ことがあるから、現職に関わる人には当然ながら意図的に教えたりすることはないのだが、まあローマ字とはいえ実名でやっているから、もしかしたら思いもかけない人が見ていたりすることもあるのかもしれない。それはそれで、まあいいや、とある意味開き直っている。
昔は匿名だったのだが、ニックネームをやめて実名にしたのは、無知は無知なりに、自分の吐いた言葉に責任を持とうと思ったからである。後から恥しくなることも、ままあるけれども。
言葉が自分をつくる。
キツイこともあるけれども、言うべきところは言って、その結果として他者からのもろもろの反応をひきうけていくことは、きっと自分の糧になるはずだと信じている。

2010/02/22

いずれ鍵を

1ヶ月ほど前だったか、昼ごはんを食べたカフェに置いてあったR25の表紙に「倉本聰」という名前を見つけて手に取った。「北の国から」が好きで好きで、再放送を録画して何回も見た。真似してシナリオも書いたりした。名前を見るだけでどこか、懐かしい。
たとえ本意でない状況にあるときでも、いつも「鍵を開けるべき箱」が胸の中にあることを忘れたくないね、というような内容のインタビュー。ふと思い出した。Webにも載っていたので。
いずれ鍵を開ける箱が」

2010/02/21

須賀敦子の特集を寝転がってみていたら、同級生、として出てきたのがシスター西川だった。もうかなりお年を召されたはずだが張りのあるはっきりした声。須賀さんのことを「シンプルアンドストレートね」と評したその口調が、いかにもだった。お変わりない。そうか、そういう縁があって、彼女は一時うちの学校で教えていたんだ、たしか。
声とは不思議なものだ。もう20年も前のことで、すっかり忘れていたのに、声という見えない糸をたよりにいくつかの記憶が浮かんでは消えた。

身軽なのがいい

横浜美術館に束芋「断面の世代」を観に行く。それなりの気力があるときでないと、現代美術に向き合えないような気がして、のばしのばしにしていたのだが、束芋さんの作品はどこか、癒しとまではいかないが共感できる部分があった、という意味で後味は悪くなかった。団断は4回見た。BLOWは、内面にあるもの(物質的に、体内の器官もあり、または感情も含め)が外に現れたときに変質する、というテーマが気に入った。所蔵品コーナーで、まっすぐに目に飛び込んできた森村泰昌作品に思わず笑う。原節子。奈良作品にも久しぶりにお目にかかる。

千夜千冊で連続的に語られているリスク論は、ことの発端は金融であったに違いないが、このところますます身に迫った問題に思えてきた。有無同然と言ってしまえばそれまでだが、モノが無ければ無いで満足できずに有る状態を目指し、有る状態に至れば今度はそれを脅かす存在に対して怯えるわけである。リスクリスクと言われ始めたのは、結局のところ、一応モノの無いステージがある特定の地域においては終了したということなのだろう。
システムは成長することによってしか存在し続けることができないとすれば、その各プロセスにおいてリスクを伴うことになる。リスク分散のためにグローバル化しているつもりが、そのために逆にかかえきれない大きなリスクを背負っていた、というようなことも書かれていた。次回に注目。

なんの論拠もないけれども、これからは自分の目のしっかり届く範囲で、マインドとか仕事ぶりをよく知った人と仕事をし、得た有形無形の財産は適切な形で求める人に贈与していく、そういう心地よいサイズの仕事ができたら、と思いはじめている。もともと、大企業向きの性格でもないし。 とりあえず、修行中、というところ。
リスクとコンティンジェンシーは表裏をなすのだろうが、偶有性を楽しめるのは、システムがごく小さい場合か、あくまで個人レベルの話のような気がしている。やはり身軽なのがいい。

2010/02/20

invictus

あまり雑誌は買って読まないけれど、病院の待ち時間に見た「日経アソシエ」も映画の待ち時間に読んだThe21もノート術の話だった。読んでもやはり自分なりの使い方しかできないけれど。予想外の収穫は、齋藤孝さんの「交渉前に1分、3点考えましょう」という記事。紙に、交渉の1、利益(複数ある場合は優先順位をつける)、2、オプション(1の利益を守るためにできる提案)、3、 Best alternative negotiated agreement(バトナと略すそうな)、もし交渉決裂したらどうするかという逃げ道、だそうである。これを実際面談に入る前に考えておくと実のある話になりますよと。なるほどだった。社外だけでなく社内向けにも使えるかも。

インビクタス、モーガン・フリーマンのためにあるような映画だと思いつつ見ていたら、エンドロールを見ると彼もプロデュースに携わっているようだった。感情的にぐぐっと惹きつけられたというよりは、マンデラ氏の姿から、どれほど人を赦せるか、とか魂のありよう、みたいなことをふと考えてしまう。スポーツつながりということで、ちょうど今の時期、オリンピックをちらちら見ることもあって、(そうそう、今日のカーリングのイギリス戦は、すこぶる面白くて、珍しくじっくり見てしまった。)Fundamental principle of Olympismというのをはじめて読んだのだが、人間の尊厳保持、平和な社会、スポーツをすることは人権の一つ、などと書いてあったのを思い出した。スポーツに限らず、何にしろ、たとえば仕事も趣味でも、打ち込めば尊厳であり人権であり平和にも繋がるかもしれないが。南アのラグビーチームの主将役で出たマット・デイモンはずいぶん鍛えあげたように見えて、「グッドウィルハンティング」の昔とは印象がずいぶん変わったものだと思う。ラグビーが好きな人には嬉しい映画かもしれない。

TVでトヨタ問題を特集している。やはりメーカーのはしくれに勤めている者としては、危機対応のモデルケースとして勉強になることが多い。
リスクには想定内の(あらかじめ予測し製品に組み込める)ものと想定外のものがある。想定外の使われ方をした場合の不具合に、どう対応するか。会社やブランドへの期待値を上回る対応ができればそれが信頼回復の契機ともなる。
グローバル企業において、本当の「危機」が起こってしまった場合、本社にしか意思決定権が与えられていないと対応が後手後手になる場合が多い。地方分権化を進めるべき。
有事において、とりあえず火を消す、法的責任を取る、ところまではできても、顧客はもちろんのこと、政府やその他関係者へのコミュニケーションが不足すると事が必要以上に大きくなる。
などなど。

おまけ。映画のテーマともいえる詩(Invictus)。
ネタバレかな。一応、これから映画観る人は読まないほうがいいかも。

Out of the night that covers me,
Black as the pit from pole to pole,
I thank whatever gods may be
For my unconquerable soul.
In the fell clutch of circumstance
I have not winced nor cried aloud.
Under the bludgeonings of chance
My head is bloody, but unbowed.
Beyond this place of wrath and tears
Looms but the Horror of the shade,
And yet the menace of the years
Finds and shall find me unafraid.It matters not how strait the gate,
How charged with punishments the scroll,
I am the master of my fate:
I am the captain of my soul

2010/02/16

なごむ

今朝の体温は35.5℃で、低すぎる気もしたが平熱と思われたので出勤した。
ふと思い出して、半年ほど前に送信されてきた派遣会社の新型インフル対応指針をよく見てみると、熱が出た場合は、その後病院で検査し、陰性の場合は出勤して良い、と書いてある。
昼も近づいてきて、薬の効き目も切れたのか少々熱っぽくもある。念のため、早退して病院で検査を受けることにした。

インフル検査をしてくれるかどうかだけを電話で確認して、初めて行った病院だったが、あまり病院の経営状態もよいとは思えず、待合にいる患者はひとりだけ。がらんとしたフロアにテレビからフィギュアスケートが流れている。ほどなく呼ばれる。耳鼻科でよく使うような、長細い綿棒状のものを鼻につっこまれる。待つこと10分ほど、再度呼ばれる。めでたく陰性。
先生はいくつかの病院をかけもちしているらしい。少々年配の看護婦さんとの会話が、やたら暢気で、「新型インフルなんて、まだ流行ってるのかしら、先生」「ぼくが昨日行った病院で一人いましたよ。まだ根強く、いるみたいですねえ」「あらそうなんですか」「規定で決まっちゃってまして、熱が出たら検査して陰性でないと出勤できないんです」「あらそうなの」「診断書要る?あれ高いのよね、別にあたしたちがいただくんじゃないのにね」「そうなんですよ、ぼくらがいただくんじゃないのにね」「会社で決まった書式とか、ないの?」「とりあえず陰性って紙に書いてあればいいと思います」「じゃ、あれでいいんじゃない、ほら、診断書じゃなくても」「そうね、あれでいいよ」というような、やたらなごむ雰囲気とともに、安上がりな検査結果を頂戴することとなる。どこかしら気持ちも軽くなる。
教会の向かいにある、聖人の名前のついた病院だった。

2010/02/14

そば茶

土曜。昼から歯科。バレンタインデーも近いし、いじり甲斐のありそうな、かの若先生に義理チョコでもお持ちしてどんな反応を示すか観察しようと思っていたのだが、ぼうっとしていて、チョコレートを買うのを忘れてしまった。つまらない。帰りがけに本屋でもぎけん先生おすすめの『忘却の整理学』を立読み。金曜に読んだ論文によると、AJさんはコンセプト化とかアナロジー分野が苦手らしい。忘却できるということは逆に言えばそういう分野がそれなりに機能しているということなんだろうね、きっと。

日曜。ここのところ自炊する気力が出ず、もっぱらコンビニにお世話になっている。オフィスの自販機に入っているせいで時々買う伊藤園「韃靼そば茶」を昼ごはんと一緒に買って飲んだのだが、蕎麦の味がしない。おかしいと思って体温を測ってみると38℃の熱である。やはり花粉ではなく風邪だった。字義通り「ぼうっとしている」とはこのことで、しかし鼻づまりが酷くて眠れない。ipodに入っているゲームをしたり、リチャード・ドーキンスの新刊『進化の存在証明』の写真を眺めたり、一方PCではドラマの「ER」が延々とかけっぱなしになっていたりする。
今年の冬は暖房を使わずに過ごしたが、節約というよりは、リモコンが壊れたまま放置してあるので、少し高いところにある電源の入切が面倒なのだった。ダーリンとかハビーがいると、そういうのを直してくれて、且つ病床のわたしに優しくお給仕でもしてくれるだろうに、と体調不良のときにしか浮かばない至極自己中心的妄想がくるくると頭を回っている。きっとERでグリーン先生が結婚してしまったせいもあるだろう。

2010/02/12

ながらくのご無礼をば

花粉かと思っていたら、風邪のようでもある。花粉症の薬とパブロンをダブルで飲んでいるので眠気も二倍。眠気覚ましに、いっしょうけんめいキシリトールガムを噛みしめる。熱っぽいので、よほど会社を早退しようと思ったが、帰りに朝カルに寄るし、とガマンする。
今日のもぎけん先生ご紹介の論文は「A case of unusual autobiographical remembering」。割合読みやすい。AJことJill Priceの特筆すべき点は、彼女自身の過去や、興味のある対象の記憶を日付とリンクして詳細に覚えていることで、一般的知識教養の類の記憶には長けていないこと。また過去の個人的な記憶を反芻している時間が他人に比して異常に長いのだそうで、強迫症的な傾向がある。今のところ世界で4,5人しか見出されていないらしい。

テレビのワイドショーか何かの録画で、キャスターと彼女との対談を見せてもらう。彼女は「ふつうの人」に見える。レインマンのモデルになったKim Peak 氏などは、Savantであることや何か問われた場合の応答の早さなどからも一見してその非凡さが伺えるけれども、彼女の場合、相手の質問への反応時間はごく自然で、どこか考えながら、思い出しているようでもある。ちなみに、その記憶がニセモノでないことは、彼女はたまたま子供の頃から詳細な日記をつけ続けていて、記憶と記述が相違ないことなどからも示されるのだそうである。

面白かったのは、対談の最中、キャスターと話しながら「今も頭の中では過去の記憶が映画のように映し出されている」と言っていたこと。そのとき彼女はテレビ初出演だったらしいし、たとえ普通の状況下でも、誰かと面と向かって話をしているときに同時に頭の中で別の映像が回っている自覚があるというのは、かなり非凡である。(対話の方がうわの空になる、というなら少しは理解できるが、彼女の場合かなりマジメに応対していた。テレビ収録だし。)自動的に、または強迫症的に、過去のプライベートなエピソード記憶が「鍵」となる言葉をきっかけに、思い出されてくるそうである。「episodic retrieval mode」というらしい。

今日のお話は、そこから翻って、人間は得ると同時に何か失い、失うことによってまた得るのであって、詳細情報を忘れることによって、しみじみ味わいのある小津映画みたいな記憶が形作られるともいえませんでしょうかね、という流れではありましたが。

お茶の飲みすぎなのか、冷える。そそくさとトイレを出たところで思いがけず名前を呼ばれ、相手の顔をまじまじと見つめてしまう。社名とお名前を伺ってはじめて、3年ほど前にお目にかかった方だと漸く思い出す。聞けば2年も同じ講座を取られているとかで、言われてみれば教室でお見かけしたようでもある。最近どうですか、原材料高騰にリストラ、上層部のクビはすげ替えられるわで、まあなかなか色々あります。いやいや、decouplingという話でした、ええ、ここで仕事の話はやめましょうなどと話しつつ新宿駅へ向かう。
人の顔をおぼえるのがほんとうに苦手なのだが、しかし、我ながら、救いがたい。ながらくのご無礼をばおゆるしくださいませ。

2010/02/09

vulnerable

常々読んでいるウチダ先生のブログで、気になったのがこの文章である。
「強い身体は微弱なシグナルに反応できない。「傷つきやすい身体」だけが「傷ついた身体」からのcalling を感知できる。機械はvulnerable ではない。だから、機械は「逸脱」は検知できても、「弱さ」は検出できない。弱さというのはアウトプットそのものではなく、ある種のアウトプットを生み出す「傾向」のことだからである。ナースの中には「死臭」を嗅ぎ当て、瀕死の人のかたわらに立つと「弔鐘」の音が聞こえる人がいるそうである」ブログ「内田樹の研究室」より引用

すぐに思い浮かんだのは、20代半ばの頃、縁あって(というか仕事だが)40代後半の女性と同居させてもらっていたときのことである。同居女性は「私は、悪い風邪をひいている人と、そうでない人の区別ができる、肌で感じる」と言っていて、「へえ、そうですか」と聞きながら、内心、ほんまかいな、と思っていた。ところが最近、バスに乗っていて、これが確かに肌で感じられることに気がついた。発生源と思われる人物から1.5mほども離れているのに、主に上半身がぞわぞわする。あの話は、ほんとうだった。年のせいもあるのだろうか。くだんの同居女性は強そうに見えたけれども、傷つきやすい身体を抱えていた人だったんだろうかと、今にして思う。

ところで、引用文の中で、何がいちばん目からウロコ的だったかというと、機械は逸脱は感知できても弱さは感知できない、弱さとはアウトプットそのものではなくそれ以前の「傾向」だから、というフレーズである。
たとえば。何か良くない事象が生じた場合、顛末報告をする。報告者が強調しがちなのはプロセスにおいて「逸脱はなかった」ということである。そういった定型的文言を見るたびに、おかしい、どこか何かおかしいんだよなと思うのだが、結局、そういうことだったのである。逸脱があるかないかを問題にするだけなら、つまるところ機械と同等レベルということだ。そこに逸脱以前の、アウトプット以前の微弱な「傾向」を見出せてはじめて、人が目で見た意味があるんじゃないか。またそれは、ブログの前段で触れられているシャーロックホームズのモデルたるベル先生と凡人の違いのように、その傾向を見出せる人と見出せない人とが存在する、ということでもある。
先日のトヨタの件から飛び火した人員削減がどうしても品質劣化につながってしまうのではないかという直感の、少しなりともの論理的裏づけは、「傾向」を見出せるだけの、経験または「心ある」人の眼が失われるから、ということなのではないだろうか。
まあ、ほとんど読者のいない当ブログにこんなことを書いたところで、どうなるものでもないのは、しみじみ、よく分かってはいるのだけれども、ね。

2010/02/06

どうもぼんやりしていて

昨日展示会の帰りに品川駅の成城石井で仕入れたポルボローネ(通っていた高校ではそれをポルボロンと呼んでいて、バザーのたびに売っていた。懐かしくて、つい。)とカマンベールチーズを食べながら松岡正剛の千夜千冊1345夜を読んでいた。朝からぼんやり考えていたことに、根っこのところで通じている話だと思う。

「このとき、自分と相手や世間のあいだに、あるいはユーザーとシステムのあいだに、その問題についての価値観の類似性があるかどうか。SVSモデルでは、自分(ユーザー)が相手(システム)と似たような価値観を共有しているように感じられると、その相手に対する信頼も共有されるというふうにみなす。
 ぼくは、ハッとした。これって何かに似ている。そうだ、漱石の「可哀想だた、惚れたったことよ」なのである。いや、わかりやすくは“信頼の相似律”というものだ。なるほど、なるほど、信頼のコストは類似性の連鎖にどれだけコストを払うかということだったんですね。」(松岡正剛の千夜千冊1345夜より引用)

でもって、ふと思うわけだけれども、仮に製造業という業態の一つの会社(システム)があるとして、その会社の株を持ってる人(ユーザー1)と、その会社の作る品物を買う人(ユーザー2)の価値観というのは、共有できるものなんだろうか。ユーザー1から惚れられるシステムで生み出される製品にユーザー2からも惚れてもらえる、という状況を構築することってできるんだろうか。投資家をユーザーと見るのがいけないのかな。どうも、ぼんやりしていて、よく分からない。

落とし穴

ぼうっとテレビを眺めていたら、トヨタのリコール問題の話になって、他人事と思えずマジメに見てしまう。マスコミはあまり言及しないが現場にとって極めて明らかなのは、大規模リストラが品質に及ぼす影響である。それはきっと、オフィスに鎮座ましましている人たちには感知できないところからひたひたと波のように寄せてきている。某社で社長職を廃止したという挨拶状を出しているのを見たが、上からリストラする姿勢は悪いことではない。品質を落とさない努力というのは、いわゆるシモジモの者がやっているのであって、そういう心ある人たちを「お金の問題」によって、ざくざく切っていくと、必ず見えない技術、品質上の劣化というしっぺ返しを受ける。そういう覚悟と予測をもって人を切っているのか。それは長期的にはブランドの信用凋落、売上を失うという、いつもそればかりが問題にされている「お金の問題」となって返ってくるのである。よくよく再考すべきである。

テレビのコメンテーターが、グローバル調達によって、部品ごとの調達を価格重視でいろんなところからしていると、それを統合して製品として出来てきたときの問題点が見えにくいのではという意見を出していた。ほんとうに、その通りである。一個の完成した製品としての身体性というべきものが現場で捉えにくくなっているという事実。そういう現実に、今回のトヨタ問題から翻って自社体勢の問題として気づく人がいるのだろうか。いてほしいと祈るばかりである。

そこにもってくると今日のビジョンEの結びのコクヨの話題は良かった。コクヨのドットつき罫線ノート(ヒット商品で東大ノート、とかいうらしい)開発に携わった若手社員の話。帰宅に電車を使わず文具店を回って徒歩で帰るという。コクヨでは顧客ではなく個客と書くのだという。ユーザーひとりひとりが様々な意見を持っている。それを直接訊ねることによって引き出してくる。そういう地道な仕事ができる環境をこのご時世でもしっかり提供しつづけている会社の経営方針は見習うべきものがある。

2010/02/03

節分

仕事で芝公園の近くに行く。昼休みに散歩していると、遠くのスピーカーから、なにやら漫談めいたトークが聞こえてきて、近づいてみると、増上寺で豆まきがなされているのだった。
昔むかし、子供の頃に家内行事として豆をまいた記憶はあるが、寺の豆まきに遭遇したのは、ほとんど初めてではないだろうか。もう人生たんと生きてきた気がするが、まだいろんな「はじめて」があるものだなあと思う。
製菓会社が協賛しているとみえて豆だけでなく袋菓子も撒かれているようだが、黒山の人だかりとはこのことで、よく見えない。警備員さんが難しい顔をして両手を広げ、入場制限をしている。
運とか手相とかおみくじとか血液型とか星占いとか、そういったものを信じようと試みても、どうもうまく信じられたためしがない。豆や菓子を拾いたいともあまり思わない。
ただそこで、鬼は外、福は内、というごく単純な言葉が繰り返され、豆がまかれ、そこに人が毎年集い、という、そういった空間が、たとえ自分とは離れたところであってでも存在しつづけている、そのことが好きだ、と思う。

豆といえば、この前行った鎌倉まめやで買った豆がじつに美味しかった。麻布の豆源でもよいかと思って最寄のデパ地下で仕入れてみたが、やっぱり鎌倉まめやの味が恋しい。通販で買おうかしら。