2022/03/31

2022年3月末

最近老眼が進んでしまって、いかにも、という感じで正直嫌なのだけれども眼鏡を外さないと細かい文字が読めないようになった。ダンスの時だけしているコンタクトは乱視近視用で遠くの先生が見えるようにしてあるので、いざ携帯を見ると、相当明るいところに行ってもほとんど文字が読めない。そんなこんなで、長い文章を読むのもなんだか億劫になっていて、これは良くない。

でも、なんとなく、あ、これは読まねばならぬと思って内田先生ブログの「現代における信仰と修行」を読み終えた。いつも何か背中を押す言葉をいただける。

以下引用====

身体技法の修業では、「私の身体にはこんな部位があって、こんな働きをするのか」という驚きに満ちた発見が繰り返し起こる。見出された部位やその制御法は、稽古に先立つ段階では予見されていないものであった。そもそもそのような身体部位があることさえ知らぬままに稽古をしているうちに獲得された身体部位の感知と制御の技法である。それを「鍛える」とか「強める」ということははじめから不可能なのである。「そんなこと」が人間にできるとは思ってもいなかったことを自分ができるようになるというのが修業の順道なのである。だから、稽古に先立って「到達目標」として措定されたものは修業の途中で必ず放棄されることになる。そもそも修業とは「そんなところに出るとは思ってもいなかった所に出てしまう」ことなのである。

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最後の太字部分を繰り返し読んで、最近起こった、というかしばらく前から始まっていた心境の変化に引き当てて考えてみて、ようやく得心がいったのである。つまり、なんでこんなことになったんだろうとずっと思っていたし、当初の意図に反した結論を出さざるを得なかったのは何故なんだろうとずっと考えていたのだけれど、そもそも、そんなところに出るとは思っていなかった所に出てしまうものなのだ、と言われて、やっと納得したのである。

正しくなくてもいい、次の扉を開けていこう、そう思った。

現代における信仰と修業

現代における信仰と修業