2010/10/10

Marie

ほぼ週1で行く倉庫は大黒埠頭にあるのだが、無料送迎バスが横浜に着く。
帰路バスに揺られながら、ああそうだ、ドガがかかっているんだったと思い出して
金曜は閉館時間が遅くなる横浜美術館に行く。
ダンサーを描くなんて、いやつまり、もとから美しいものを美しく描くのなんて
短絡的じゃないかという思いが、現物を見るまで捨てきれなかったのだけれど、
やっぱりエトワールの光と空気感は良かったし、
病で視力を失いつつあったのを契機に使い始めたというパステル画が
どれも良かったのが個人的には意外な収穫。

14歳の小さな踊り子(彫刻)、とてもいいと思ったけれど、当時は相当非難されたらしい。
最近見つかったというスケッチには、同じポーズの少女が大きな丸い目で遠くをぼんやりと眺めているのだが、作品は目を閉じかげんにしている。
このほうが確かに、ずっといい。
没後に見つかった大量の彫刻。未発表だったということは、作家自身は、それは自分の本来の表現ではないと自覚していたということなのだろうか、それとも、自分のために作った、より愛着の深いものだったのだろうか。

最近どこかで読んだけれど、ドラッカーは「何によって人に記憶されたいか」を機会あるごとに自らに問うていたのだそうな。
大学受験のとき、小論文の、確か模試の問題に、同じような提題があった。
今ならなんと答えるだろう。

ドガは彫刻では人に記憶されたいと思わなかったんだろうね。
ただ、人に記憶されるための、ということではなく、
自分のための表現というのも、あっていいとは思うけど。

土曜、歯科。走るはずだったのだけれど、雨のせいにして家でだらだら。
日曜。ひきつづき、のらりくらり。夜、10km走る。
今申し込んでいる川越の大会は、時間制限がある。現時点では、かなりきびしい。
時間制限のない、茨城の大会を発見。1週間早い。同じコースを3周するらしい。
同じコースを、2回ならともかく3周するのは精神的に厳しい。
思いこみが激しい上に疲弊しているだろうから、2周目終了時点にして、3周したと勘違いすることさえ有り得ないともいえない。
時間制限を取るか、3周を取るか。微妙。
こうしてよたよたと走ることは、完全に、他人に記憶されたくない自分の一側面であるけれども、
ここにこうして記しているのは自己矛盾。

もともとこれが、日々生じては流れ、消えていく自分の記憶に対するひそかな抵抗であり、
他人にというよりは自分に向けた覚書だからだろう。
ただ、他人の目に断片的にとらえられる自分が、あの14歳の少女のように
夢想的にも意志的にも見えるふしぎな面差しであればいいなと、ふと思ったりもする。
あ、そうそう、モデルになったあの子の名前はMarieっていうんだって。