2011/03/10

(3) Good run!

土曜。朝食を済ませても出かける気にならない。
寝不足の目には日差しの刺激が強すぎる。すごすごと部屋に戻りベッドに寝転んで、持参した村上春樹を取り出す。『走ることについて語るときに僕の語ること』。

Audibleで英訳の朗読を聞いたのを含めると、もう5回ぐらいは読み返している。
村上作品の特別熱心な読者というわけでもない。初期の作品は何度も読みかけては挫折していて、通読した小説は海辺のカフカと1Q84だけだし、再読(以上)したことがあるのはこの本だけである。

「真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなければならない。それが僕のテーゼである。つまり不健康な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。逆説的に聞こえるかもしれない。しかしそれは職業的小説家になってからこのかた、僕が身をもってひしひしと感じ続けてきたことだ。健康なるものと不健康なるものは決して対極に位置しているわけではない。対立しているわけでもない。それらはお互いを補完し、ある場合にはお互いを自然に含みあうことができるものなのだ。往々にして健康を指向する人々は健康のことだけを考え、不健康を指向する人は不健康のことだけを考える。しかしそのような偏りは、人生を真に実りあるものにはしない。」(村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』)

うとうとしていた。気がつくと午後2時を回っている。
近くの土産物屋とスーパーに寄る。土産に加えて自分用に野球帽のような形の帽子と、サングラスを買う。帰りがけに公園に寄って翌日の受付を済ませゼッケンを受け取る。露店のバナナを買ってホテルに戻ると、玄関にはあの白い犬が目をぴたりと閉じて寝そべっている。着替えて、公園の中の海沿いの道を20分ほど走る。洗濯を済ませ、目覚ましの時間だけ確かめて、早めに休む。

当日のことは、あまり書くことはない。5時に起きて、少しホテルの周りを走る。5時45分、まだ暗い中のスタート。
スピードは抑えたはずだったが、周囲につられて少し力以上のペースだったのかもしれない。もともとが低血圧で朝は食欲がないし、早朝に走るのも苦手である。無理してでも食べようと朝食用に買ったバナナも結局食べられなかったから、ふらふらする。1kmごとに設置されてあるエイドステーションでは水ではなくスポーツドリンクや砂糖を取ったけれど、あまり回復しなかった。

10kmまでは、それでも普通に走った。10kmを過ぎ、折り返し地点で置いてあったメロンを2切れ食べて、少し歩いたところで右足首が痛くなった。おかしいな、と思いながらも走ったり歩いたりしていたけれど、それ以降は、歩いた距離の方が長かったかもしれない。陽が昇ると同時に急激に気温が上がり、消耗も激しくなる。海を眺め、痛みから気を散らしながら、一歩一歩進む。残り2km地点。がんばりましょうと声をかけられて、最後ぐらいは真面目に走ることにした。右足をかばいながら走りはじめた私を見て、沿道の制服姿のおにいさんが笑顔で言った。「Good run!」

ゴールでは一人一人のために白いテープを引いて待っていてくれた。少し手を挙げてゴール。冷水にひたしたタオルを肩からかけられる。記録は3時間10分。完走証を手渡される。

「一般的なランナーの多くは、「今回はこれくらいのタイムで走ろう」とあらかじめ個人的目標を決めてレースに挑む。そのタイム内で走ることができれば、彼/彼女は「何かを達成した」ということになるし、もし走れなければ「何かが達成できなかった」ことになる。もしタイム内で走れなかったとしても、やれる限りのことはやったという満足感なり、次につながっていくポジティブな手応えがあれば、また何かしらの大きな発見のようなものがあれば、たぶんそれはひとつの達成になるだろう。言い換えれば、走り終えて自分に誇り(あるいは誇りに似たもの)が持てるかどうか、それが長距離ランナーにとっての大事な基準となる」

「自慢できるわけではないが(誰がそんなことを自慢できるだろう?)、僕はそれほど頭の良い人間ではない。生身の身体を通してしか、手に触ることのできる材料を通してしか、ものごとを明確に認識することのできない人間である。何をするにせよ、いったん目に見えるかたちに換えて、それで初めて納得できる。インテリジェントというよりは、むしろフィジカルな成り立ち方をしている人間なのだ。もちろん少しくらいのインテリジェンスはある。たぶん、あると思う。そういうのがまったくないと、いくらなんでも小説は書けないだろう。しかし僕は頭の中で純粋な理論や理屈を組み立てて生きていくタイプではない。思弁を燃料にして前に進んでいくタイプの人間でもない。それよりは身体に現実的な負荷を与え、筋肉にうめき声を(ある場合には悲鳴を)上げさせることによって、理解度の目盛りを具体的に高めていって、ようやく「腑に落ちる」タイプである。言うまでもなく、そういう段階をひとつひとつ踏んでいると、ものごとの結論が出るまでに時間がかかる。手間もかかる。ときには時間がかかりすぎて、やっと腑に落ちたときにはもう手遅れだったという場合も出てくる。でも仕方ない。それがそもそもの僕という人間なのだから。
川のことを考えようと思う。雲のことを考えようと思う。しかし本質のところでは、なんにも考えてはいない。僕はホームメードのこぢんまりとした空白の中を、懐かしい沈黙の中をただ走り続けている。それはなかなか素敵なことなのだ。誰がなんと言おうと。」(村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』より引用)

満足というには程遠い。あんなにしんどくて、耐えて、耐えて走ったのに、後に残るのは、空と、海と、単純な爽快感だけである。
また、走ろうと思う。