2011/03/27

複眼、または複数のアイデンティティ

震災以降、夜なかなか眠れない。かといって本を読もうというような殊勝な気にもなれず、普段はしないゲームで時間を潰したりする。もともとそういうのは得意ではないから、ますますイライラする。朝日が昇るころに、とろとろと眠くなる。
会社がフレックス制で助かった。さもなくば先週はずっと休んでいただろう。

何もかもが混乱している。今まで信頼していた人の言説さえ、どうも心に響かない。

そんな中で、目をひいたのは、鷲田清一さんの阪大での式辞。(誰か忘れたけれども、毎度のツイッター経由。ありがとう。)最近、とんと確からしい言説にお目にかからないと嘆く諸氏には一読をおすすめする。

H22年度式辞
http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/president/files/h23_shikiji.pdf

隔たりがあるという事実は如何ともしがたいのであって、自分と隔たった思いを持つ人への想像力を働かせられなければプロとして失格なのだということ、また平時において優れたフォロワーであるということはすなわち「請われれば一差し舞える」人間であるということなんだというようなことが、やはり、この方から言われてこそ、素直に受け止められる、そういうことは確かにある。

そこからイモヅル式に総長からのメッセージというビデオを見る。
http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/president/

複数のアイデンティティ、希望を書きかえる、しぶとい知性を、などなど。

この機に「本当に大切なもの」を見ようとするのも大切だし、放っておいたってそうなるわけだけれども、1つのアイデンティティ、もしくは大切なものだけでは行き詰る、または息が詰まってしまうこともある。
こんなときこそ、複数の視点からものを見る目(いわゆるところの複眼)であったり、複数のアイデンティティを憚らない大らかさも必要であるようにも思う。