2018/09/23

記憶

カズオ・イシグロの文学白熱教室の録画をひっぱり出してきて観る、というか、聴く。職場の机の引き出しにしまってあった、ほぼ未読の「忘れられた巨人」の文庫本の表紙を見て、それを買うきっかけになったその講義を思い出したというわけだ。

イシグロ氏にとって記憶は、一枚の切り取られた静止画像のようなもので、そのディテールや背景はあいまいで、そこから前後に記憶が広がっていくのだという。動画にしてしまうとはっきりしすぎてしまうような、人間のあいまいな記憶を通じて語るという手法で小説を書くという手法にとりつかれている、と語る。
人間は重要な話をするとき、実は信頼できない。自分をどのように評価するか、過去にしでかした過ちや不愉快なことをどう避けるか。そんなとき、人間には嘘をつく才能がある。個人においても、社会においても、何を忘れ、何を覚えておくか、何をいつ思い出すのか、永遠の課題だと。

「日の名残り」についての会場からの質問に対して語ったことが興味深かった。
読者にまず気づいてほしかったのは、語り手として登場する主人公の語る言葉がその言葉どおりには受け止められない、主人公の言葉はどこか信頼できないということだった。作品の中で、主人公の視点は一箇所にとどまらない。まるで日記の延長のようでもあるけれど、どこまで現実を受け入れるかという彼の精神的な立ち位置によって、時期によって彼の立ち位置が変わっていき、伴って彼の口調が変わっていく。主人公は自分に正直になっていく、現実に向き合う勇気を持つようになっていく。信頼できなかった語り手は次第に信頼がおけるように変わっていく、それが重要だった。
小説は事実ではない、ただ嘘という言葉は使わない、それは意図的に人を惑わすものが嘘であって、事実ではない、作られたものではあるがそこになんらかの真実が含まれている、そういうものだと。人間として感じる心情、それを伝えたい、わたしはこういうことを感じた、君は理解してくれるか、それを伝えたいんだと。

また備忘録になってしまった。
自分は小説を書いたりはできないけれど、ああほんとうに、そんな気持ちでこの拙文をしたためている。この空間に登場することどもは、ありふれた日常であって、とりたてて記録しておくべき価値あるものは何もない。ただそこで感じた心情、真実などというべき大げさなものではないが、そのかけらのような何かは自分にとってかけがえのないものであって、それを時ともに流さずに、とどめておきたくて。