ひと昔前の自己啓発本によくそんなことが書いてあったものだけれども、言葉にすれば実現する、というのは一理ある。よいお話というのは重なるもので、月曜、発表会のお誘いをいただく。なにしろ石橋を叩いて渡る性質だし、あがり症なので、はじめての「発表会」なるものを2つもかけもちして双方コケて二度と立ち上がれなくなってもいけないから「来年もあったらその時は真剣に考えます」とご辞退もうしあげる。
木曜。半休ののち夜のクラスの前に空きスタジオで練習していると、いつもはだいたい一人か二人ほどだけれど、発表会シーズンとみえていろんな方とご一緒に練習することとなる。見るともなく見ていると、それぞれの色があっておもしろい。
前日の水曜夜に新しい振付をいただいて、対人または対時間のプレッシャーさえなければ、振付を覚えるのは楽しくてしかたがない。経験上、最初できなくても100回ぐらいやればできるようになるわと割り切っているので、できない時間も含めて楽しい。おもちゃをもらった子供のように嬉しくなって練習していると、「なにそれ、太極拳?」と直言癖のhiphop歴長年のおともだち(推定30代)にコメントされる。なにを失礼なと思ったものの、落ちついてみると確かにそう見えなくもない箇所もある。ダンスができなくなったら太極拳をやろうかと真剣に考えているので、望むところである。
土曜の昼下がり、同じ振付(の前半部分)を店の階段の踊り場(ちょっと広めでそれほど人も通らないので)で練習していると、通常みなさんちょっとご挨拶などして通り過ぎてくださるのだけれども、若干シニアな女性が一人立ち止まられる。あんまり止まっておられるので思わず顔を向けると「それヒップホップですか?」いいえとお答えすると、振付がお好みだとのことで、その後もじっとごらんになっていらっしゃる。コメント2人分なのでマーケティングにはなりませんが、とりあえずシニア受けしているもようです。
2019/06/27
2019/06/25
伏せ字
先週末から星月夜の表紙のついた単行本を持ち歩いているけれど、どうも落ちつかないせいか、なかなか開くことができない。
こういった伏せ字風の書き方になるのは単純にプライバシーの問題である。
一応勤め人なので、特定少数の個人に絞られそうな検索ワードを可能な限り廃して、こんな貧弱blogにコメントされたところでご迷惑のかかりようもない先様以外の固有名詞をテキスト本文には残さないという習慣がついている。
そのせいもあって、果たして何が言いたいのかわからない文章になる。別にそれでいい。基本的に日記に毛がはえたようなものである。
10年ほど前、あまりに腰と背中が痛くて初めて整体に行ったとき、整体師さんに「鉄板みたいですね」とコメントされた。デスクワーク時の座り姿勢が悪いせいだという自覚はあったけれども、はあ、そんなにですかと思った記憶がある。
以来、デスクワークをせずに済んだ転職期間を除けば、ほぼ月に2回は整体に「行かずにはいられない」状態が続いていた。
ふと気付いてみると、もう1ヵ月以上行っていないわけで、これはやはり、ああこんな身体のかたい人間に無理無理、、と思いつつ、さりとて諦めきれずにフロアでごろごろ転がっているおかげなのかもしれない。もともと持っているものも鍛錬してきた期間も違うわけだから、無理な高望みをするつもりもないけれども、せめてもうすこしだけ美しく転がりたいんだよなあ、と思う。美しいひとたちのとろりととろけるような、まるんとしたお姿を思い浮かべながら、当方はやむなくあちらこちらぶつけつつ、ごろんごろんと転がっては、やれやれ、ひい、ふう、と溜め息を漏らす楽しい修行の日々である。
どう転がったって、みそっかすなのは変わりないので、そういう意味では気楽である。
こういった伏せ字風の書き方になるのは単純にプライバシーの問題である。
一応勤め人なので、特定少数の個人に絞られそうな検索ワードを可能な限り廃して、こんな貧弱blogにコメントされたところでご迷惑のかかりようもない先様以外の固有名詞をテキスト本文には残さないという習慣がついている。
そのせいもあって、果たして何が言いたいのかわからない文章になる。別にそれでいい。基本的に日記に毛がはえたようなものである。
10年ほど前、あまりに腰と背中が痛くて初めて整体に行ったとき、整体師さんに「鉄板みたいですね」とコメントされた。デスクワーク時の座り姿勢が悪いせいだという自覚はあったけれども、はあ、そんなにですかと思った記憶がある。
以来、デスクワークをせずに済んだ転職期間を除けば、ほぼ月に2回は整体に「行かずにはいられない」状態が続いていた。
ふと気付いてみると、もう1ヵ月以上行っていないわけで、これはやはり、ああこんな身体のかたい人間に無理無理、、と思いつつ、さりとて諦めきれずにフロアでごろごろ転がっているおかげなのかもしれない。もともと持っているものも鍛錬してきた期間も違うわけだから、無理な高望みをするつもりもないけれども、せめてもうすこしだけ美しく転がりたいんだよなあ、と思う。美しいひとたちのとろりととろけるような、まるんとしたお姿を思い浮かべながら、当方はやむなくあちらこちらぶつけつつ、ごろんごろんと転がっては、やれやれ、ひい、ふう、と溜め息を漏らす楽しい修行の日々である。
どう転がったって、みそっかすなのは変わりないので、そういう意味では気楽である。
2019/06/20
2019/06/16
書けば残る
先週眼科にかかり、先生には「はい、治癒です」と言い渡されたものの、やはりコンタクトを外すときが怖いので、目薬を2滴ほど入れてしばらく待ってから外すという慎重ぶりである。
先生はわたしがコンタクトに固執している理由がダンスであるということに興味を持たれたらしく、「あ、そこの角にダンスのスタジオありますよ」「ジャンルは何ですか、そこのは社交ダンス」「発表会とかないんですか」などと折にふれておっしゃった。その時は「いえいえ、ないない、そういうのでないんです」と答えたのだけれども、まあ一生に一回ぐらい、ものはためしだから、そういう経験をしてみてもいいかもしれないよなあと答えながら思ったものだった。
さて目が治って嬉しかったのもあって、今週は振り返ってみると一日も休んでいないのだけれども、最近やっぱりレッスンの前の下ごしらえ、トレーニングとかストレッチとかにもう少し時間を取るべきだとひしひしと感じるようになってきた。
月曜はピラティスの後にダンスがあって、この流れが実に快適である。やっぱりレッスンの前に1時間ぐらい下ごしらえできるといいなと思うのだけれども、スタジオの隅などにスペースを見つけると、各種振りを忘れないように、つい振りの練習を優先してしまう。一人でやってみると、えらくいい加減な記憶しかないことに気づいて更に練習する羽目になる。いいのか悪いのか分からない。
ともあれ、こちらの先生にいちばん長く(といってもたぶん3年ぐらいだけど)お世話になっているのだけれども、先生の首から上半身にかけての波のごときなめらかな動きをなんとかマスターしたいと思いつつまだ叶わない。
そのあとの混んでるクラスは最近はお休みして夕食タイムにして(すいません)次のクラスに出る。「やさしい」と銘打っているけれどもやさしいのは先生だけ(振りは難しい)とはいい得て妙である。もともと初見でさっぱり入らない上に最近さぼっていたので、今回は忘れないようにちょくちょく練習している。難しくてもあきらめきれないのはやっぱり振りが好きだからだろうと思う。
土曜。夜のレッスンの前に相変わらず星乃珈琲に寄る。一応大戸屋でまともなご飯(じゃこご飯少なめとみそ汁とサラダ、とか)と、どちらにしようか迷うのだけれども、スフレパンケーキの磁力が強すぎる。一時間ほどいるので最近は本を読む。「異邦人」が終わったので(いりびと、とルビがついているのに最後の最後に気がついた)、今日は久しぶりに北村薫、「書かずにはいられない」。どうでもいいけど当ブログは各種理由から極力固有名詞を排していて、出てくる名前は相当メジャーな作家芸術家の名前ぐらいである。ご了承されたい。
冒頭のエッセイがとてもよいので、久しぶりに一部引用。
「見えるところに、籠に入った野菜のおもちゃがある。子供のものである。一つ一つの大きさは、手の中に隠れるほど。一番上に、ぶどうが乗っている。昼の光の中なら青味を帯びて見えるそれが、今は暗紫色、一粒一粒が黒ずみ、病気の臓器のように見える。そう思い出すと、あれを並んでいるレモンやら桃やらの下に隠して見えないようにしたい、と痛烈に思う。しかし、動きはせずに、ここまで書いた。
こういった感覚は一時のものである。何分かの後には、そういう思いが存在したということすら消えてしまうだろう。朝目覚めた時にはすでに忘れられている夢のように、確実にあったものが、跡形もなく消え去るのである。
だが、書けば残る。
こういったものを、つなぎとめたいという思いは常にある。書いていくという作業が、もしも私に許されるのなら、大事にしたいのはそれである。」(北村薫『書かずにはいられない』所収「消えてしまう筈のものを」より)
そうですね、そうですよね、と頷きながら、いまこうして、ぺちぺちとキーボードを打っている。
先生はわたしがコンタクトに固執している理由がダンスであるということに興味を持たれたらしく、「あ、そこの角にダンスのスタジオありますよ」「ジャンルは何ですか、そこのは社交ダンス」「発表会とかないんですか」などと折にふれておっしゃった。その時は「いえいえ、ないない、そういうのでないんです」と答えたのだけれども、まあ一生に一回ぐらい、ものはためしだから、そういう経験をしてみてもいいかもしれないよなあと答えながら思ったものだった。
さて目が治って嬉しかったのもあって、今週は振り返ってみると一日も休んでいないのだけれども、最近やっぱりレッスンの前の下ごしらえ、トレーニングとかストレッチとかにもう少し時間を取るべきだとひしひしと感じるようになってきた。
月曜はピラティスの後にダンスがあって、この流れが実に快適である。やっぱりレッスンの前に1時間ぐらい下ごしらえできるといいなと思うのだけれども、スタジオの隅などにスペースを見つけると、各種振りを忘れないように、つい振りの練習を優先してしまう。一人でやってみると、えらくいい加減な記憶しかないことに気づいて更に練習する羽目になる。いいのか悪いのか分からない。
ともあれ、こちらの先生にいちばん長く(といってもたぶん3年ぐらいだけど)お世話になっているのだけれども、先生の首から上半身にかけての波のごときなめらかな動きをなんとかマスターしたいと思いつつまだ叶わない。
そのあとの混んでるクラスは最近はお休みして夕食タイムにして(すいません)次のクラスに出る。「やさしい」と銘打っているけれどもやさしいのは先生だけ(振りは難しい)とはいい得て妙である。もともと初見でさっぱり入らない上に最近さぼっていたので、今回は忘れないようにちょくちょく練習している。難しくてもあきらめきれないのはやっぱり振りが好きだからだろうと思う。
土曜。夜のレッスンの前に相変わらず星乃珈琲に寄る。一応大戸屋でまともなご飯(じゃこご飯少なめとみそ汁とサラダ、とか)と、どちらにしようか迷うのだけれども、スフレパンケーキの磁力が強すぎる。一時間ほどいるので最近は本を読む。「異邦人」が終わったので(いりびと、とルビがついているのに最後の最後に気がついた)、今日は久しぶりに北村薫、「書かずにはいられない」。どうでもいいけど当ブログは各種理由から極力固有名詞を排していて、出てくる名前は相当メジャーな作家芸術家の名前ぐらいである。ご了承されたい。
冒頭のエッセイがとてもよいので、久しぶりに一部引用。
「見えるところに、籠に入った野菜のおもちゃがある。子供のものである。一つ一つの大きさは、手の中に隠れるほど。一番上に、ぶどうが乗っている。昼の光の中なら青味を帯びて見えるそれが、今は暗紫色、一粒一粒が黒ずみ、病気の臓器のように見える。そう思い出すと、あれを並んでいるレモンやら桃やらの下に隠して見えないようにしたい、と痛烈に思う。しかし、動きはせずに、ここまで書いた。
こういった感覚は一時のものである。何分かの後には、そういう思いが存在したということすら消えてしまうだろう。朝目覚めた時にはすでに忘れられている夢のように、確実にあったものが、跡形もなく消え去るのである。
だが、書けば残る。
こういったものを、つなぎとめたいという思いは常にある。書いていくという作業が、もしも私に許されるのなら、大事にしたいのはそれである。」(北村薫『書かずにはいられない』所収「消えてしまう筈のものを」より)
そうですね、そうですよね、と頷きながら、いまこうして、ぺちぺちとキーボードを打っている。
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