父はもうこの世にいないから、娘にこんなことを書かれても腹は立てないだろう。
たとえていうなら、母は自分が走りたい人で、父は走る人に沿道からエールを送りたい人だったんだろうと思う。
自分は持病もほとんど父譲りだが、性格も父に似ている。似ているせいで、父はきっと一人娘に愛されていると感じることはあまりなかったんじゃないかと思う。気の毒である。
母はいまでも卓球の全国大会に出て、今回はベスト8止まりだったと悔しがっているような人だ。学生時代は、ソフトボールをやらせればピッチャーで、バレーはセッターだったらしいが、ママさんバレーでひざを痛めてからは卓球に転向した。以来卓球ひとすじ。
一方父は夜学を出た若い頃はいろんなことをしたようだが、勤め人になってからは夢らしきものはあきらめて淡々と働いた。娘に自分の夢を果たさせたくて、文学全集を買い与え、たまに小説家になれと説いたがそっぽを向かれた。単身赴任の香川で覚えたうどんをたまに打って母とわたしや知人たちに食べさせ、のちに飽きて蕎麦打ちに転向し、蕎麦屋を出す夢をあたためたが実現には至らなかった。ふと思い立って自転車でオーストラリアを一周し、毎日ひげをそりながらラジオ講座を聞いて韓国語を口ずさみ、小説家の夢はあきらめたもののどこぞの作家に弟子入りしてたまに小説やエッセイを書いた。一度読まされたがつまらなかったから二度と読まなかったが。まめに日記を書き、ほかにも何か書きためていた。
夕食は断られたが、いつものように朝実家に行って、二人して父の写真の前で話した。
最後に入院した時に、お父さん具合悪いから卓球の大会行くのやめるわと話したら、どうせ、ぼくはねているだけだから行ってきなさいよと言われて、行ったのよねえ、と母。その時は結局、負けたらしい。母は勝ち気な性分なので、勝ったときは嬉々として語るが、負けたときは、どうだったの、と聞かないと口を開かない。悔しげな顔で、負けた、とつぶやく。
で、ほんとに最期の時になってお父さんが、あのときの試合はどうだったの、と聞くのよね。いやらしいわよねえ、と笑う。
父はそれなりに賢かったから、ある程度自分を客観視していて、手元では自分にできることをしつづけたものの、ある種の諦念を持っていた。一方、いつまでも走り続ける、走り続けられる母が好きで、彼女をサポートできるのが喜びだったんだろうと思う。
自分もどちらかといえば父側の人間で。
走るひとのうつくしい姿を近くで見ているのが好きだ。自分にもなにかお役に立てることがあればいいのになあ、と思いつつ。