2010/01/16

繋がっているために。

どうでもいいことほど、意外に気にかかるものである。
最近、南アジアの某国に書類を送って、なにごとか記載して送り返してもらうことが2回あった。このご時世にメール添付で送れないのだから、それなりの書類なはずだったのだけれども、1回目は3枚の書類にホチキスの穴が貫通して(針は抜かれていたけれども)返ってきた。その穴の位置というのも、A4縦長の書類なのに右側の下から3分の1あたりの奇妙な位置にある。

数日後、2通目。こんどは書類自体にこそ穴はあいていなかったけれど、書類を入れたクリアファイルに穴があいて返ってきた。(また針は抜かれていたけれども、跡が、くっきりと。)
おかしいなあ、送る前からあの穴はあったかしら(いや、絶対ない)と思いながら、深く考えずに仕事を続けていて、帰りの電車の中でようやく、気がついた(遅い…)。

ポストイットのかわりにホチキスでメモを止めているのだね。今にして思えば、クリアファイルにはセロテープの剥がし跡もあった。つまり、最初の人はメモをクリアファイルにホチキス止めして、次の人は、メモをテープで止めたわけだ。(逆かもしれない。)
いま日本のオフィスで働いている人間で、依頼用のメモを留めるのにホチキス使う人とか、クリアファイルにメモのホチキス止めを試みる人っていないだろうな。たぶん。事務スタイルにも想定外のことがいろいろあるものだ、とか、やっぱり、ポストイットって偉大な発明だったな、と思ったりする。
こんな些細なことでも、ひとつ謎が解けると、嬉しい。

茂木先生の朝カル。京劇が専門で中国事情に精通した加藤先生という方との対談。
暴露系の話で受けてしまったが、漢文における模範的な文章とは何か、という話がひっかかる。
日本人で(たぶん英語でもそうなんじゃないかと思うけれど、)いわゆる格調高い文章といえば、形容詞のバリエーションが豊富というようなことを思う。
一方、漢文では、「左国史漢」(「春秋左氏伝」と「国語」と「史記」と「漢書」)が文章上達のための必読書なのだそうだが、すべて歴史書であり、一言でいえば、簡潔を旨とする、という。「美人あり、名は虞」、みたいな。

中国という、ヨーロッパに相当する広い地域が一つの国であると住民に認識されていたのは、漢文という、口語とは別次元の士大夫層が使用する言語が長年共通だったからではないか、というお話もあった。

反面、中国というのは、もちろん孔子とか有名な人たちはいるけれども、割合処世術的なところが主だし、いわゆる哲学的な思索というところは弱くて、インドで出た仏教が中国全土で広まったのも、それが漢文にない要素だったからじゃないか、というような話も出たりした。

おそらく、メッセージが簡潔であること、というのは、広い組織を束ねるのに重要なんだな、という気がしている。
情緒的なものを伝えようとすると、だらだらと(こういう)長文になるのだが、そんなものを切り捨ててしまえば、それだけメッセージは強くなる。
おそらくそれは、非常に実際的なメッセージになる。だからきっと、中国の人というのは、そういう面のスキルが、概して、高いんじゃないだろうか。

明けて本日。こうして書き出してみて、あらためて。本音のところ、実際のところ、口語的な様々は非常に異なるものたちが、何かの理由で繋がっているためには、ほんとうに「実」のところ、重要なところ、昨日の話でいえば「漢文」にあたるところ以外は捨ててしまう。簡潔な共通項にのみ注目し、合意する。それはきっと、今なら、ビジネス上の実利と置き換えてもいいかもしれない。様々に異なる「本音」を見せないことは「罪」ではなくて、むしろ、繋がっているための「功」である、という、きっぱり潔い考え方も、悪くない、とは思う。

一方で、やたら冗漫な文章をたらたらとものしてもいるわけで。(なかなか白黒はっきりしない性質でして。。)

2010/01/12

長谷寺

駅に着くまですっかり忘れていたけれど、1月11日は成人の日だった。そのせいで余計に人出が多いのか、JR鎌倉駅から鶴岡八幡宮にかけての道は通勤ラッシュのような混雑ぶり。近代美術館にたどり着いて、内藤礼の展示「すべて動物は、世界の中にちょうど水の中に水があるように存在している」を見る。(この題名はバタイユ「宗教の理論」からなのだそう。美しいフレーズ。)トークセッションに間に合う時間を目指して来場した人が多かったらしく、入口には長い列。水とか空気といった、通常は目を凝らして見ようとしないものを感じさせてくれる作品。きっと、話を聞けば、自分の気づかなかった何かを得るところはあるのだろうけれど、と思いつつ、場内をぐるっと回って、結局、話は聞かずに出る。手帳には「おいで」の紙を記念に貼ってある。(これは、展示を見た人でないと分からないですね。ふふ。)

駅前で手土産を買い、少し迷ったものの、江ノ電には乗らずに長谷寺まで歩くことにした。道中、喫茶店に入って、コーヒーとスコーンをいただく。家具の白木も、真新しく、まだ越してきたばかりの夫婦が二人で切り盛りしているという。土日しか開店しないという古着屋さんにも寄って、品定めなどする。車道に出る少し手前で、栗鼠が3匹、軒先と階段を行き来しているのを見かけて、思わず知らず長居してしまう。栗鼠と鼠は似ているけれど、やはり、しっぽで鼠は負けている。
長谷寺で思い出すのは、北村薫「六の宮の姫君」である。推理小説がとても好きだった頃(今でも、それなりに好きだけれども)、北村薫に惚れ込んでしまって読み込んだ本だから、詳細まで覚えている。鎌倉が出てくるのは最後のあたり、「私」が老先生の家を訪ねる場面。お気に入りだから、前にも引用した気に違いない。でも好きな文章というのは、読むたび新しいのだから、どうぞ、お構いくださるな、である。なぜか長年、心に残っているその光景を、はじめて、展望台から目にした。

「その先に光がきらめいていた。海の見える展望台だった。
歩くにつけ、光は強さを増した。手摺りのところに立つと、まぶしくて、眼を普通に開けてはいられない。私は手を額にかざし眼を細めた。
そして突然、これから歩む人生のことを思った。いや、その思いに襲われた、という方が正しい。
私のような弱い人間に、時代に拠らない不変の正義を見つめることが出来るだろうか。それは誰にも、おそろしく難しいことに違いない。ただ、そのような意志を、人生の総ての時に忘れるようにはなるまい。また素晴らしい人達と出会い自らを成長させたい。内なるもの、自分が自分であったことを、何らかの形で残したい。
思いを、そう表に出せば、くすぐったく羞ずかしい。嘘にさえなりそうだ。だからそれは、実は、言葉に出来ないものなのだ。
それは一瞬に私を捉えた、大きな感情の波なのだ。
遥か下方、家々の向こうに由比ガ浜が見える。その先に広がる海は紗幕をかけたようだ。沖に行くほど、きらめきは増す。眼が慣れてようやく、大きな鏡のあちらこちらに、遠くくだける波頭が見えた。」 (北村薫著「六の宮の姫君」より引用)

2010/01/10

薄墨の円

池袋で某検定試験を受験。試験を受けること自体、とても久しぶり。気持ちとしては、ほとんど捨てていて、セミナーは寝ずに聞いたはずだけれど(なにしろザル頭なので殆ど残っていないし)、その後テキストをひととおり読んだきりで、まったく勉強しなかった。試験は4科目。今朝になって、1科目終了後、次の科目との間にかなり長い休憩があるのに気がついて、手持ち無沙汰だしと、テキストの一部をちぎって持参(全部持つと、重いからね)。
費用を会社持ちで申し込んでいるひとたちが連番で席についていて、試験開始まで、ぼそぼそと会話が聞こえる。英語の検定のように、個人で受ける人が多い静寂な会場の空気とは、ちょっと違う。
マークシートを塗りつぶすのが好きだというひとは、わりと多いんじゃないかと思うけれど、わたしもその一人。
この試験のマーク欄は円型で、楕円ではない。楕円の場合は、輪郭をとったあと、まず真ん中に長い線を引き、若干短めの線をその上下に付せば足りるが、円の場合、輪郭をとってから、内側に向かってくるくると螺旋状に余白を埋めていくことになる。書く線の長さが、たぶん楕円より長いんじゃないかと思う。だからどう、ということでもない。試験時間に対する問題数はそれほど多くない。半分程度は勘なので、それほど迷わない。せっかくだから、はみ出さず、均質な黒で、塗りたい。きれいな薄墨の円をシート上に連ねていくことにだけ精神を傾ける。
本郷のスコスで買った芯の太さ0.7mmの、お気に入りシャープペンをたくさん使えて、しあわせ。(ふつうよく売ってるのは0.5mmだから、少し太め。グラフィック用で、書き味がよろしいのです)

ごはんを食べながら、キアロスタミの「風の吹くまま」をかけていたのだが、あまりに光景と会話がナチュラルすぎて、気がついたら途中からブログを打っていたりする。キアロスタミをかけていると、こういうことがありがちである。(もう一度見ないと。。。)昨日は試験前日だというのに、ギルバート・アデア「閉じた本」、カズオ・イシグロ「日の名残り」(翻訳)を一気読み。DVDも2本見た。なにしろ試験の前というのは、無関係なことへの時間消費意欲が旺盛になるものです。

ウィリアム・ケントリッジ、内藤礼の展覧会が気になっている。今週こそ、行こう。あれ、明日、鎌倉で内藤氏のトークがあるんだね。

2010/01/09

It's impossible, so let's start working.

Man on wireのDVDを漸く見る。
ツインタワーのビルの間にワイヤーを引いて、綱渡りしてしまった、Philippe Petitと仲間たち。
はじめてツインタワーの屋上に上ったときのことを振り返って、「不可能だ。でも、やってみよう」と思ったと語っていました。
ドキュメンタリー映画なので好き嫌い分かれそうですが、また、実際に渡っているところは写真しかないんですけれども、DVDは1時間11分あたりから、チラ見するだけでも、凡庸な日常に刺激が走りますね。。

2010/01/04

細部において多様

これまた年末に押入れから発掘してきた松岡正剛氏の『多読術』を再読。
読書とはごく個人的なものだし、環境、そのとき置かれている状況、身体のコンディション、前に読んだ本の文脈、言葉遣い、そこで共有されていた世界(「味蕾」と表現されていた)などなどに影響されるのであって、たとえば洋服を着替えるように、いろいろな読み方があっていい。平均的な読み方なんてものはない。だからこそ、一読で終わらせず、再読すると新たな発見がある。
自分の「好み」は大切にしたほうがいい。一言で好みといっても、実は細部においては多様なもので、それを発見していくのが面白い。
読書とはコミュニケーションであり、相互作用(相互編集)である。
はっきりしているところよりも、曖昧なところ、きわどいところ、フラジャイルなところに、創発の芽がある。「フラジャイル」をぱらぱら眺める。そうか、ソンタグのいうところの「ラディカル・ウィル」というのも、おそらくはそういう意味あいなのだろう。なんか、すてきだ。

Kazuo Ishiguro 'Nocturnes', 短編集、2話目まで読了。これはいい。なにより、難しい言葉が使われていないので殆ど辞書を引かなくても読めるし(これ大事)、それなりに味もある。「犬の臭い」をどうやって人工的に作るかというあたり、あのレシピは嘘なのかもしれないけれど、一瞬、試してみたくなった。
勢いで、以前に挫折したThe remains of the dayに再挑戦。やっぱりこちらは作品の性質上、文章は若干固め。長編だし。また挫折するかも。

新書「英文法を知ってますか」。英語というと、世界言語として昔から文法もきっちり整っていたかのような錯覚をしていたけれど、なんだ、最初はラテン語に引け目を感じながら育っていった言語だったんだ、と知ると、少し親近感。最後のページにでてくるジョージワシントンの演説の冒頭。そうそう、こういう長い文章がやっぱり苦手で、3回読んでもうまく和訳できそうにない。当時の人たちはこれ聞いて、たぶん理解できたんだろうから、すごい、えらいなあ。

ジョギング。年始に決意新たにした人が多いせいか、気温が少し高めだからか、駅伝の余韻なのか、はたまた食べすぎが気になるからか、12月に比べて、同じ時間帯なのにジョガーにたくさん出会った。やっぱり、仲間がいるとうれしい。5km, 0:31:05。走るようになって初めて、そういう目で駅伝を見ての収穫は、自分は明らかに足が上がっていないこと、もっと姿勢よく走れるはずだということ。それから、もっと最後まで気をしっかり持って走れるということ。たったそれだけ意識しただけで1分早くなった。
とりあえずは、30分を切りたい。

2010/01/03

花の咲かない寒い日は

箱根駅伝復路も終わり、実家で弁当箱に詰めてもらった「おせち」の残りもなくなって、新年明けて早くも3日目。自炊を再開して、気分も通常モードに戻る。

年末に押入れから掘り出してきたTOEIC攻略本、英文ライティングと文法の本をつらつら眺めたりする。次の転職のためにTOEICの点数は取れるところまで取っておいたほうがよいとは思うので、次回約3年ぶりに受験するか少し悩む。この程度の試験でも受けてみないと自分の進歩が実感できないというのも悲しいが、ほかに良い方法が思いあたらない。

文法と構文の取りかたに、ときどき不安があるので、これも掘り出してきた英文読解系の本をひととおり読む。英文に対訳と解説がついているので少しは勉強になるが、自分がかつて選んだ本とはいえ、他人が選んだ文章を「精読」せざるをえないシチュエーションに疲弊。試験問題のつまらなさに匹敵する。点数という結果でもついてこない限り、モチベーションの上がりようもない。さっさと読了後、次回のブックオフ行き紙袋へ直行。

その昔、国語の試験問題には、ごく稀にでも、小林秀雄や北杜夫など、いわゆる名文、迷文との邂逅、というような楽しみがあったけれど、TOEICの試験問題に出てくる英文で、そんな出会いを経験したことがない。試験勉強する気にならないのは、きっとそのせい。
(まあ、もともとTOEICはビジネス向けの試験だから、しかたないか。)

audibleの朗読を聴くのと並行して読んでいるJulian Barnesのペーパーバックを少し開く。相変わらず、こちらはウィットがききすぎていて、精読しても作者の意図を理解できているか不安なまま、カメの歩み。
まあ、それでも、歩かないよりは、マシ。

どこかの大学の監督(かランナー)が好きな言葉、とアナウンサーが話していた。
「花の咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ」。
(「なにも咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」とも。)

2010/01/02

The first run of the new year

2days staying at my parents'. Watched Hakone Ekiden live on TV this morning.
Back to my flat in late afternoon, the first run of the new year, 10km;1:05:38.
During running, remembered the comment of a runner of Toyo univ. "Just to overcome myself last year", true to his words, he broke his own record of 09' Hakone Ekiden 5th leg, the hardest section of the course.
The great deal of watching the live was, to realize people run so fast, so smoothly and so strongly, with maintaining their inner strength to the last moment of the run.
Nothing compared to the Ekiden runners, my record was also improved a bit today-by 1min. 28 sec.. Good start of 2010.