2010/01/12

長谷寺

駅に着くまですっかり忘れていたけれど、1月11日は成人の日だった。そのせいで余計に人出が多いのか、JR鎌倉駅から鶴岡八幡宮にかけての道は通勤ラッシュのような混雑ぶり。近代美術館にたどり着いて、内藤礼の展示「すべて動物は、世界の中にちょうど水の中に水があるように存在している」を見る。(この題名はバタイユ「宗教の理論」からなのだそう。美しいフレーズ。)トークセッションに間に合う時間を目指して来場した人が多かったらしく、入口には長い列。水とか空気といった、通常は目を凝らして見ようとしないものを感じさせてくれる作品。きっと、話を聞けば、自分の気づかなかった何かを得るところはあるのだろうけれど、と思いつつ、場内をぐるっと回って、結局、話は聞かずに出る。手帳には「おいで」の紙を記念に貼ってある。(これは、展示を見た人でないと分からないですね。ふふ。)

駅前で手土産を買い、少し迷ったものの、江ノ電には乗らずに長谷寺まで歩くことにした。道中、喫茶店に入って、コーヒーとスコーンをいただく。家具の白木も、真新しく、まだ越してきたばかりの夫婦が二人で切り盛りしているという。土日しか開店しないという古着屋さんにも寄って、品定めなどする。車道に出る少し手前で、栗鼠が3匹、軒先と階段を行き来しているのを見かけて、思わず知らず長居してしまう。栗鼠と鼠は似ているけれど、やはり、しっぽで鼠は負けている。
長谷寺で思い出すのは、北村薫「六の宮の姫君」である。推理小説がとても好きだった頃(今でも、それなりに好きだけれども)、北村薫に惚れ込んでしまって読み込んだ本だから、詳細まで覚えている。鎌倉が出てくるのは最後のあたり、「私」が老先生の家を訪ねる場面。お気に入りだから、前にも引用した気に違いない。でも好きな文章というのは、読むたび新しいのだから、どうぞ、お構いくださるな、である。なぜか長年、心に残っているその光景を、はじめて、展望台から目にした。

「その先に光がきらめいていた。海の見える展望台だった。
歩くにつけ、光は強さを増した。手摺りのところに立つと、まぶしくて、眼を普通に開けてはいられない。私は手を額にかざし眼を細めた。
そして突然、これから歩む人生のことを思った。いや、その思いに襲われた、という方が正しい。
私のような弱い人間に、時代に拠らない不変の正義を見つめることが出来るだろうか。それは誰にも、おそろしく難しいことに違いない。ただ、そのような意志を、人生の総ての時に忘れるようにはなるまい。また素晴らしい人達と出会い自らを成長させたい。内なるもの、自分が自分であったことを、何らかの形で残したい。
思いを、そう表に出せば、くすぐったく羞ずかしい。嘘にさえなりそうだ。だからそれは、実は、言葉に出来ないものなのだ。
それは一瞬に私を捉えた、大きな感情の波なのだ。
遥か下方、家々の向こうに由比ガ浜が見える。その先に広がる海は紗幕をかけたようだ。沖に行くほど、きらめきは増す。眼が慣れてようやく、大きな鏡のあちらこちらに、遠くくだける波頭が見えた。」 (北村薫著「六の宮の姫君」より引用)