2010/05/27

うまくゆかないものにしか原因はない

内田先生の『街場のアメリカ論』を買って、カフェで昼ごはんを食べながらつらつらと読んでいて、ジャック・ラカンの至言というくだりに行きあたった。

「原因とは、うまくゆかないものにしかない」。

内田先生は続けて、「「原因」というのは、「原因がわからないとき」にだけ人間の脳裏に浮かぶ概念なんです。」「ですから、「この出来事の原因はこれこれである」という説明が教科書では当たり前のようにさらりと書かれていますけれど、「原因」ということばが使ってあるときは注意が必要ですよ。「原因」ということばを人が使うのは、「原因」がよくわからないときだけなんですから」。(引用)

これは歴史の話をしている流れで出てきた文章ですから、必ずしも科学系の話にフィットしないのかもしれないですが、でもそれなりに当たってるとも思うんですよね。

おりしも、昼ごはんを食べる前、つまり午前中最後の軽めのジョブは報告書の和訳で、思えばこの2年間、ずいぶんたくさんの報告書を訳してきたわけです。

極めて定型の、簡単な報告書で、その事象(ま、あまりよくない事象ですな)が発生した考えられる原因と再発防止策なんかが書いてあるわけですが、訳していて思うのは、それなりに理解できる内容の時は、いつも、当たりまえすぎたり単純すぎたりして物足りず、かといって、どれだけ読んでも意味不明なものは最後まで意味不明なわけです。

これってなんなんだろう、と、この2年、ずっと思ってきたわけですが、かの至言を読んで、なるほどと思ったわけです。

人間というのは、結局、事象として「うまくいかないこと」が現出し続ける限り、どれだけ、昔分からなかったことが分かっても、理を尽くして説明を受けたとしても、感情面で、おさまらないというか、おちつかない生きものなんじゃないだろうか。

だからこそ、「うまくいかない」事態が引き続き起こってしまう場合には、無理やりにでも、原因はこれです、と、ある程度つじつまのあうように、さらりと結論してあげる、落としどころを見つけてあげることが必要になってくるわけですね。でもって、その落としどころっていうのは、構造上、ありきたりで面白みのないものにならざるを得ない。

極論すると、逆に、いつも、うまくいっていれば、その原因なんて、誰も(とは言わないけれど、一部の人しか)気にしないわけで。

つまるところ、こういう類の報告書が読みものとしてつまらないのは、「なぜ、この出来事は起きたのに、他の出来事は起きなかったのか?」とか、「あり得べき、ほかの結果は何だったのか?」というような問いを自発的に発してないからなんだな、きっと。
つまらない読みものほど、その背景に思いを馳せる想像力、というか創造力が試されるというわけだ。ま、仕事中に、そんな思いを馳せてる時間的余裕もないけど。。