2010/06/13

オルガン付きとか、どこでやめるか、とか、その他もろもろ。

土曜。歯医者に行ったあと、N響のコンサートを聞きに行く。例によって会場に着くまで、チケットを購入した動機を忘れているのだが、今回の目的はサンサーンスのオルガン付き、だった。いままでのコンサートの中でいちばん奏者に近い席。袖とはいえ、最前列。コントラバスが目の前に。第2ヴァイオリンの席の後ろにヴァイオリンがたてかけてあるのも見える。そのかわり、アシュケナージさんが、ちらりちらりとしか見えないことに始まってから気がつく。
フォーレの「ペレアスとメリザンド」も、オルガン付きも、良かった。これも始まってから気づいたのだけれど、オルガンは頭上に配置されているから、ガーン、とばかりに脳天から降ってくるし、コントラバスのぼん、ぼんという響きはお腹から迫ってくるしで迫力満点。もともと好きな曲だったし、満足。

日曜。「新しい高校化学の教科書」「大学生物学の教科書」と、桜井章一「負けない技術」を読みながら、テレビを見る。桜井さんの本には、しごくまっとうなことが書いてある。動物の末裔として、人間にも、生きていくために必要な程度に「負けない」本能は備わっている。無理に勝ちに行こうとせず、負けないようにするには、本能が必要程度に働くように、身体と精神を整えておけばいいのかな、と思う。
これは高校時代に申し訳程度に入っていた部活の卓球に通じるものがある。ピンポン玉がフォア側にきてもバック側にきても対応できるように、相手が打ち込んでくる前に、身体は卓球台の真中に戻ってきているのが理想的。それさえできていれば、あとは自分の反射神経と技術の問題になってくる。


最近、どこでやめるか、ということを考えていた。
転職の話ではなくて、いや仕事の話とも関係はないわけではない。
仕事そのものであったり、その中で細部について分からないこと、というのは、追っても追っても出てくるものであって、それをどこまで追いかけるか、あるいは、ある程度分からないまま、どう適度に溜めておくか、ということを考えていたりもした。

北村薫さんの作品だったと思うけれども、料理屋さんのショーケースに飾る、確かお寿司か何かの本物と見まがうほどのレプリカを作る職人さんに、「何にいちばん苦労しますか」と聞いたら、「どこでやめるかですね」という答えだった、という話を、ときどき思い出す。

前にギルティーフリー商品、という言葉を聞いた。考え方を否定するものでは全くないけれども、結局のところ、「完璧で、キレイで、環境に配慮した製品を使用しているのだからわたしに罪はありません」というような、形式的で浅薄な潔癖主義みたいなものを、職業的にはやむを得ずそうするしかないけれども、個人的には好まない。

過日The COVEも最後まで見た。あそこで問題視すべきは、あれを見て「あら、そんなイルカの大量殺戮なんて知らなかった」などと、社会的あるいは人間的な罪に無関係を装う精神のありようのようにも思う。実際にイルカを殺していなくたって、牛を食べてるかもしれないし、肉を食べていなくたって樹木や野菜を伐採して、そういう意味では殺しているわけだから。

そういうことを全部ひきうけて、それでも地球は回っていて、それでも、人間は生きている、という、ある意味、人智を超えた、べつに宗教的な意味で言うわけではないけれども、いわゆるhigher planとでもいうべき世界存在と人間存在の不可知性に天を仰ぎつつ、地を見て、そして近くにいる誰かと手を携えて歩み続けるしか、ないんじゃないかと。