2019/11/08

言語化されて進むこと

先週からノド風邪が治りきらない。市販薬で一進一退しつつ、声がれしたまま一週間以上経ってしまった。
その間いろいろあった(ような気がする)。
昔の映像作品を再放送する番組をたまたま目にしたら、向田邦子『阿修羅のごとく』だった。作品だけでなくそのライフスタイルも含めて向田邦子を好きな女性は多いだろうから珍しくもないが、その頃たしか中学生だった自分の場合、エッセイは好んだが小説やドラマはそれほどでもなかった記憶がある。女性の機微の世界が分からなかったんだろうな、その頃のわたしには。
そんな彼女を少し理解したような気がしたのは、少し後になって、ご本人の脚本ではなくジェームス三木の手になるドラマ『父の詫び状』を見てからだった。
ともあれ、出勤の時間だったからぽちっと録画して家を出て、帰宅して、いそいそと見る。学生の頃に感じた違和感がなんだったかも思い出せないぐらい、あるある、と分かってしまう。阿修羅とはよくぞ言ったり。でもそう思いながら憎めない。クスリと笑ってしまう。正しくはないとは思えども、自分もつまるところ同類だと、つい許してしまう。年をとるということはこういうことなのかもしれない。

昨日。測定するとアプリで自分の筋肉や骨格を3Dで表示してくれるというサービスを試してみる。筋肉にはあまり興味がなかったが問題は骨格。見事に捻れたり傾いたりしている。ほぼいままでかかった整体師さんたちのコメントを総合したような結果になった。
直後に話した世話好きのおともだちによるとショックを受けていたように見えたそうで今朝ほど元気を出せと励ましのラインをいただく。本人はショックというより、なるほどねえと感心したり納得していたのだけれども、なにしろじつにいい子である。
ともあれ、3D画像とともにその骨のパーツと症状、対策が簡潔に言語化されているので、パーツの名前で検索して調べてみると、いままで、なんでここがこう痛むのだろう、と思っていたところが、予想外にも、納得感とともに骨と筋肉の気持ち(なんてものはないかもしれないが)が少し分かってしまう。彼らはそうなるべくしてそうなっているのだった。
そうですか、そうだったのね。今まで分かってあげられなくて、すみませんでしたね、というような気持ちになる。これからどうすればいいのか思案している。
言葉、図、あるいはそのほか目に見える形になってみてはじめて明らかになること、または一歩、先に進むということがある。