2021/08/16

つかみたい光に

結局のところ踊りというのは他人に見られる前提で存在するものだから、他人に見せる意識って、どういうことなんだろうと最近考えていた。

スタジオで誰か(先生か生徒さん)に見られている状態になることはあるけれども、やはり自覚的には、極力見られていることを意識しないようにしようという気持ちしかない。

じぶんの場合、特に指定がない場合、曲が始まる前、やや上方の虚空を見るような眼差しになるのは、地面に近いところにいる人の顔を見ないため、そこに人がいることを忘れるためである。たぶんそんなことを思っていてはいけないんだろうけれども、それ以外の選択肢がいまのじぶんにはない。

関係あるかないか分からないけど、向かい合わせで腰掛けている車内などでも、携帯なり何なりを見る用事がなければ、向かいの人と顔を合わせないために斜め上をむく。時々、正面の方が自分の視線の先の窓外を振り返るようにして見ることがある。ええ、そこにはなにもないんです。たいがい空があるだけです。

ともあれ是非ともじぶんを見てくださいというようなメンタルに至らないのは上がり症なのが主な原因だと思っていたけれども、今日ふと目にした文章で、あ、と思うことがあった。

自分が感動するからこそ人も感動するはずだ。

なるほど。やってる本人が俺素晴らしいパフォーマンス準備してきたわと少しも思ってなかったらやはり他人を感動させることなんてできないだろう。個人的状況に引き当ててみれば、準備万端でレッスンに臨めることなんてないし、これで出来上がったと思えたことなんて一度もないから、それで他人に見せたいと思わないのかもしれない。一理あると思う。

他方、踊ってる間は何も考えてなくて夕飯カレー食べたいとか考えてると聞いたこともあるような気がする。

いろんなタイプがあるんだろうな、と思いながら、きっと何か良いこと言ってそうな気がして検索窓に彼の方のお名前を叩いてみた。

羽生結弦 | フィギュアスケート

直接の答ではなかったけれど、結果的に、そこにはじぶんのための言葉があった。

いろんなことが無駄に思えるような時もあるけれど、内的要因でどういう風に調子が悪くなっていくのか、そして、そのうち良くなっていくのかも、もう少し後に、きっとじぶんにもわかるだろう、やっぱり好きだから。そう思った。