2010/04/14

かれの心理における科学

3月の終わりに養老先生の『身体の文学史』を読んで、「現実感、実在感」という話がひっかかっていたわけです。特に鷗外のくだりで。でも、どこがどうひっかっているか分からない、といういつものパターンだったので、そのまま文章を打ち込んで、「下書き」にしておいて、時々眺めていました。

最近見た映画はちょうど、どちらが現実でどちらが非現実ですか、という謎解きを中盤から最後まで延々とさせられる映画で、(ネタばれになるので題名は伏せますが、なかなか出来の良い映画でした)そんなことも重なって、思い出して、くだんの本を取り出してきて読んだのです。
本は再読せよと言いますが、ああこれがひっかかりどころか、と思ったのは、こういうことです。

「デカルトにおいては、思考する自己あるいは自己の思考に実在感が付着していた。かれの哲学は、したがって、そこに「現実」を有する。一般に哲学や数学は、そうした「脳内活動」に対して現実感を付与し、そのゆえに、「抽象的」であらざるを得ない必然性を持つのである」

「肝要な問題は、その現実「感」である。それを実在感と言い換えてもいい。これは、われわれの脳が社会的に機能するとき、もっとも重要な機能として表われる。神なり、国家なり、ありとあらゆる制度なりが、われわれに与える現実感、あるいは実在感は、決定的に人を動かす」

「本来こうした実在感は、ヒトが置かれた周囲の環境に対して付着すべく存在したと思われるが、ヒトはその環境を人工的に創造する。そのために、なにが現実かを「社会が決める」状況に立ち至るのである。なぜなら、ヒトは社会という環境の中に育つからである。この国の近世社会は、そこから身体をおそらく意図的に排除した。(中略)戦後の社会においては、それは医療制度の中にのみ、封じ込められるのである」

「もしだれかが、自己の現実感の欠如に気づいたとしたら、鷗外のような行動が生じて不思議はないであろう。第一に、そうした重大な感覚の欠如は、探索行動への強い動機を生む。第二にその結果、かれの領域は大きく広がる。現実感がどこに付着するか、それが発見されるまで、いたるところに、それを追うしかないからである。第三に、それは事実に対するこだわりを生じてよい。なぜなら、すでに与えられてある理性は、現実感・実在感の対象たるべき存在が、「事実であること」を強力に要請するはずだからである。こうしてわれわれは、むしろ自然科学の心理的起源に到達する」

「その後の鷗外は、それがいかに「文学」に見えようと、かれの心理における「科学」を推進する」
(養老孟司『身体の文学史』より引用)

自分は森鷗外のような天才か秀才か、そういう人と同列に論じられるような人間では当然ながら、というか、残念ながら、ないのですが、問題はこうです。つまり、自分の漠然とした考えの推移というのが、程度の問題はさておき、まさしくこういう流れをたどりつつある、ということなんです。実情、自分の今の志向は、昔とは全然趣が異なってきていて、確かに仕事は医療制度絡みでもあるし、興味の方向性も自然科学領域になってきている。仕事上の要求もあるにせよ、最近、やたら細かいことまで事実でないと気が済まない。この傾向が、都市の脳化社会で、すっかり実在感を失ってしまった仕事や生活の中で、「現実感、実在感における身体や自然の不在」に喘いでいる姿なんじゃないですか、と指摘されたようにも思えて、それが、ぶすりと釘のように刺さって抜けない、まあそういったわけです。

ともあれ、鷗外を「かれの心理における「科学」」と読むその読み方が、すてきだな、と。
この後、養老先生のお話は、きだみのる、深沢七郎、と続くのですが、後半は、まだ読みきれてないので、また機会があれば。