埼玉某所で開催されたダンスショウに行く。
週1回レッスンでお世話になっている先生と生徒さんたちの作品と、ジャズのレッスンでいつもお美しいなあと眺めている先輩が出演される2作品がお目当て。
結果的に、確かにそのお目当ての3作品はすばらしかった。あと先生がたぶん(ここ最近のハードスケジュールでまたどこか故障でもしていなければ)本気で舞台で踊っているのを初めて見られて、そちらも楽しかった。
ほかは正直、よく分からない。まあ薄々感づいていたけれども、たぶん、自分は趣味が偏っているんだろう、と思う。
よく分からないなと思いながらも、1週間後に自分の「はじめての発表会」を控えた身としては、参考になることも多かった。
振付そのもの、踊り手の技術も無論大事だけれども、構成と衣装、あと表情というのは自分が思っていたより重要な要素だと気付く。先生方がしょっちゅう、顔、顔とおっしゃっているけれど、確かに、そのとおりだなあと客目線になってみて改めて。
自分の練習もあるので、ご挨拶もせずさっさと帰ったけれども、みなさんのすてきな笑顔に元気をいただく。
さて、自分の衣装作らないと。布を切ってちょっと止めればいいだけの簡単デザインを教えていただいたので、裁縫ベタのわたしには選択の余地なし。
2019/09/14
空
空の写真が好きだ。
その昔、何冊か買い集めた写真集(または写真がたくさん掲載された本)は、引越しの際に処分したものも多かったけれど、今でも手元に残っているのは、アンリ・カルティエ=ブレッソンは別として、藤井保「A KA RI」、高橋健二「空の名前」と空が主人公のもの。
それはわたしに限ったことではなくて、空にこんなにいろんな名前を付けるなんて、人間という生きものは、空が、空を見るのが好きなんだろうと思う。名前はその愛着のあらわれだろう。
空のもとには人がいる。あの人もこの人も、生きている人も生きていない人も、実在の人も架空の人も、空でつながっている、そんな気がする。
と、ここまで打ってみて、いや、「A KA RI」の主役はやっぱり人、または灯りだろうか、と思い直す。
灯りは、希望であり、勇気だ。
このひとつの空のもと、誰かが強く、明るく、または、ほのかに、やんわりとした灯りを放ったり、受け取ったり、また返したりしながら生きていて、そんなやりとりをみているのがとても好きだなあと思う。
その昔、何冊か買い集めた写真集(または写真がたくさん掲載された本)は、引越しの際に処分したものも多かったけれど、今でも手元に残っているのは、アンリ・カルティエ=ブレッソンは別として、藤井保「A KA RI」、高橋健二「空の名前」と空が主人公のもの。
それはわたしに限ったことではなくて、空にこんなにいろんな名前を付けるなんて、人間という生きものは、空が、空を見るのが好きなんだろうと思う。名前はその愛着のあらわれだろう。
空のもとには人がいる。あの人もこの人も、生きている人も生きていない人も、実在の人も架空の人も、空でつながっている、そんな気がする。
と、ここまで打ってみて、いや、「A KA RI」の主役はやっぱり人、または灯りだろうか、と思い直す。
灯りは、希望であり、勇気だ。
このひとつの空のもと、誰かが強く、明るく、または、ほのかに、やんわりとした灯りを放ったり、受け取ったり、また返したりしながら生きていて、そんなやりとりをみているのがとても好きだなあと思う。
2019/09/07
polyphonic
金曜朝。ねぼけた頭で、週1日ぐらい休養日が必要なんじゃないだろか、と考えつつ、30分で食事とジム用荷物をまとめて家を出る。最近買いかえた大きいリュックには誰かに言われたとおり、「仕事以外のものしか入ってないだろ」。はいさようです。
short noticeですみませんがと夕方にテレカンが入っていて、案の定終了予定時刻から延長する。やっぱり今日は休めという思し召しであろうかと、とぼとぼ家路につく。改札を出たところで思いついてまたほぐし屋さんに行く。はじめて90分コースをためしてみる。極楽。左腰の「そこは筋肉のはずなのに骨状」のぐりぐりに集中攻撃。終わってみると、地面がふわふわ、ゆらゆらして普通に歩けない。いや地面じゃなくて身体がそうなんだと頭では思うけれども、相変わらず酔っ払ったみたいにふらふらしながら家にたどりついて、少し何か食べて、ねてしまう。
夜中に目が覚めて、仕事のちょっとしたことを思い出す。ちょっとしたことなのだけれど、ここで何もせずにそのまま忘れてしまったら、いざ事が起こったときに後悔するだろう。こんな時間に思い出してすみませんがと切りだして一本メールを打つ。安心してまたねる。
朝。ネコ歩きが録れている。「頭の上に乗られるのは久しぶり、しっぽが目の前にあります」とおっしゃりながら微動だにせずカメラを構える岩合さんが大好きである。
思いだして内田先生のVoiceについてのお話を読む。
「これも多田先生から伺った話ですけれども、「声を出すときは、オールドバイオリンのような声を出さなければいけない」と。声が低くても、音量が小さくても、遠くにいる人の身体に浸み込むような声というのがある。先生は発声器官の使い方について言っているのではないと僕は思います。そうではなくて、「自分のボイス」をみつけなさいと言っているのだと思う。「自分のボイス」を見つけた人がその「ボイス」で語られた言葉は、できあいのストックフレーズや、何度も話して手垢のついた定型句とは全然手ざわりが違うからです。それはオールド・バイオリンの音色ように、身体に浸み込んでくる。
「ボイス」というのは、自分の中に入り込んでゆく「回路」です。自分の中の、身体の深層に浸み込んでゆく。自分の身体に浸み込むことができないと「自分のボイス」は獲得できない。「身体の中に浸み込む」というのが「ボイス」の本質的な条件なんです。自分の身体の奥深くに浸み込むことで生まれた言葉は、他人の身体にも浸み込む。「ボイス」というのはそういう浸透性を持つ言葉のことなんです」(内田樹の研究室「Voiceについて」)
short noticeですみませんがと夕方にテレカンが入っていて、案の定終了予定時刻から延長する。やっぱり今日は休めという思し召しであろうかと、とぼとぼ家路につく。改札を出たところで思いついてまたほぐし屋さんに行く。はじめて90分コースをためしてみる。極楽。左腰の「そこは筋肉のはずなのに骨状」のぐりぐりに集中攻撃。終わってみると、地面がふわふわ、ゆらゆらして普通に歩けない。いや地面じゃなくて身体がそうなんだと頭では思うけれども、相変わらず酔っ払ったみたいにふらふらしながら家にたどりついて、少し何か食べて、ねてしまう。
夜中に目が覚めて、仕事のちょっとしたことを思い出す。ちょっとしたことなのだけれど、ここで何もせずにそのまま忘れてしまったら、いざ事が起こったときに後悔するだろう。こんな時間に思い出してすみませんがと切りだして一本メールを打つ。安心してまたねる。
朝。ネコ歩きが録れている。「頭の上に乗られるのは久しぶり、しっぽが目の前にあります」とおっしゃりながら微動だにせずカメラを構える岩合さんが大好きである。
思いだして内田先生のVoiceについてのお話を読む。
「これも多田先生から伺った話ですけれども、「声を出すときは、オールドバイオリンのような声を出さなければいけない」と。声が低くても、音量が小さくても、遠くにいる人の身体に浸み込むような声というのがある。先生は発声器官の使い方について言っているのではないと僕は思います。そうではなくて、「自分のボイス」をみつけなさいと言っているのだと思う。「自分のボイス」を見つけた人がその「ボイス」で語られた言葉は、できあいのストックフレーズや、何度も話して手垢のついた定型句とは全然手ざわりが違うからです。それはオールド・バイオリンの音色ように、身体に浸み込んでくる。
「ボイス」というのは、自分の中に入り込んでゆく「回路」です。自分の中の、身体の深層に浸み込んでゆく。自分の身体に浸み込むことができないと「自分のボイス」は獲得できない。「身体の中に浸み込む」というのが「ボイス」の本質的な条件なんです。自分の身体の奥深くに浸み込むことで生まれた言葉は、他人の身体にも浸み込む。「ボイス」というのはそういう浸透性を持つ言葉のことなんです」(内田樹の研究室「Voiceについて」)
そこから話は「複雑化」という方向へ進む。自分のVoiceは多声的(polyphonic)なものであり、自我は首尾一貫していないければならない、のではなくて、成長とは複雑化である。この場面ではこの顔で、別の場面では違った顔でいる、そういう状況ごとの最適化が成長じゃないか、という話。引用したいけれど全文引用しそうなので、このへんでやめておく。読後、ああこれはわたしへのメッセージであると勝手に思い込む(そういうことがよくある)。
内田先生も相変わらず大好きである。
いろんな先生がたのボイスに励ましていただいて、おかげさまで多声的なわたしは今日も元気です。
2019/09/01
最近
最近よく見た動画(先生たちの以外で)。
やっぱりこのひと好き。インスタに東京の写真がのっていた。来日してたのかな。。一回みてみたい。
すてき。。
気に入った振付は、何度見ても、ああ美しいなあとかかっこいいなあと感慨にふけっているか、動線を再現性のあるものにできたらいいなと願いつつ目に沁みこませようとしているばかりである。
ふだんわりと批評性とか客観性とか言うタイプの人間だけれども、先生の踊っていらっしゃるのはそういうふうには見られない。だって先生なんだから。そういうもんじゃないかと思う。
テレビで、筋肉は裏切らない、と力説してるひとがいる。まあ、休んだらすぐなくなっちゃうけど、継続的に筋トレしてれば裏切らない、といえるのかもしれない。がんばろっと。
やっぱりこのひと好き。インスタに東京の写真がのっていた。来日してたのかな。。一回みてみたい。
気に入った振付は、何度見ても、ああ美しいなあとかかっこいいなあと感慨にふけっているか、動線を再現性のあるものにできたらいいなと願いつつ目に沁みこませようとしているばかりである。
ふだんわりと批評性とか客観性とか言うタイプの人間だけれども、先生の踊っていらっしゃるのはそういうふうには見られない。だって先生なんだから。そういうもんじゃないかと思う。
テレビで、筋肉は裏切らない、と力説してるひとがいる。まあ、休んだらすぐなくなっちゃうけど、継続的に筋トレしてれば裏切らない、といえるのかもしれない。がんばろっと。
2019/08/31
そろそろ
疲れているはずなのに何をしても眠れないので、しかたなく起き上がってぺちぺち打っている。
夕方に会議が入る。相変わらず腰が痛い。ハードな週末に備えて、今週2回目のマッサージに行く。指名できないお店の面白いところは、いろんな人にいろんなことを言ってもらえる(場合もある)ことで、背面の不調は実は前面にある場合もありますからねという話になる。前面に力が入りすぎていて背面ががんばっている感じです、もう少し腸腰筋まわりのストレッチが必要なんじゃないですかね。それでもう少し背面もゆるむと思いますとコメントをいただく。知識として知っていることと、実際施術してもらった人からのコメントでは受け止め方がちょっと違う。でも初めての人のおっしゃることなので、とりあえず判断保留して有難く記憶しておく。
時間は少し前後する。
最近先生が糸井さん糸井さんとおっしゃるので、少し前から今日のダーリンを読むことにしている。どうやら昨日の「ダーリン」までしか読めないようだから、気に入ったものは写真に撮っておくことにした。
通勤の車内であらためて練習の録画を見ていて、ああほんとに出来が悪い、言われたこともちっともできてないし。誰のことおっしゃってるんだろかと思って聞いてたけど、なんのことはない自分のことじゃないか、等々。溜め息をつきながら、ちょっと指を動かしたら糸井さんの文章が出てきて読むともなく読む。不覚にも再びはらはらと落涙しそうになり、あわてて目をぱちぱちさせる。
そうか、希望に根拠はいらないんだ。
ちょっと元気になる。
奇しくも茂木先生のブログも、やらかしちまう人のお話である。
自分で自分を蹴飛ばしたり、いろんな方に励まされてちょっと許したりしながら、たとえば、きっと明日はくる、と思うのと同じように、白々と明けゆく空のようにぼんやりとした希望の中に漂っている。
さて、そろそろ眠れないだろうか。
2019/08/29
記念
火曜。コアタイム終了時で切り上げて練習しようと試みている(当日は結果的に終わらなかったが)ため、自分史上最も継続的に早起きし超速超マジメに仕事している。そのためか、別の理由か分からないけれども、えらく疲れる。
最近はたいてい水曜のコンディショニングのクラスでその後1週間耐えられる程度に回復することになっていた腰が持たず、久しぶりにマッサージに行く。
腰は想定内として、肩甲骨回りと脇の下が激痛。
昔からへんなところで笑ってしまう。痛くてえへへと笑う客は珍しいようで、くすぐったいんですかと聞かれ、いえ、痛いんですとお答えする。
最近はたいてい水曜のコンディショニングのクラスでその後1週間耐えられる程度に回復することになっていた腰が持たず、久しぶりにマッサージに行く。
腰は想定内として、肩甲骨回りと脇の下が激痛。
昔からへんなところで笑ってしまう。痛くてえへへと笑う客は珍しいようで、くすぐったいんですかと聞かれ、いえ、痛いんですとお答えする。
終わってみるとずいぶんすっきり。たまには人の手を借りるのもいいなあ。
本日。もろもろ上手くいかず冷汗たらたらである。振付が最終回のせいか録画していただく。相変わらず後ろから飛び蹴りでも喰らわせたいくらいへたくそである。でも大好きな振付だから記念にとっておく。
本日。もろもろ上手くいかず冷汗たらたらである。振付が最終回のせいか録画していただく。相変わらず後ろから飛び蹴りでも喰らわせたいくらいへたくそである。でも大好きな振付だから記念にとっておく。
2019/08/25
おやすみ
背中が痛い。時々背中の筋トレはするけれど、それとはなにやら違う筋肉痛である。
どう違うかというと、深い呼吸をすると痛む。はじめての症状である。眠れない。
眠れないから、なんだろうこれは、と考えていて、首じゃないかと思いあたる。
首が回らない、というのは昔からの課題の一つであって、ああもちろん借金で、とかそういう比喩表現じゃなくて、物理的に首が回転する可動範囲が狭いという話。
美しく首が回るひとを見て、いいなあ、自分もくるりんときれいに回りたいなあと思う。
レッスンの待ち時間などにひまがあると首をごりごり回そうと試みていたのを哀れに思われたのか、先週先生がいきなり首を持ってぐるりんと回してくださったのにびっくりし(ああこんなに回そうとしないといけないのねと)今週、頭に一角獣のごとく斜めに角が生えてるとしてそれを持って回そうとイメージすべきであることを何か棒状のものを頭に当てて教えていただいて、おお、なるほど!と嬉しくなって、今週後半はしょっちゅう首を回していた。しかし、なにしろ背中が鉄板のように固かった過去があるので、首だけでなく、背中のまんなかあたりまでインパクトがある。
決め手は昨日のレッスンで、ある程度中腰の体勢から両手とともに頭を回すという振付で、これがほとんど無理です、首、上に回りませんという感じだったんだけれども、何回かやってるうちにかすかに動くようになり、その結果として筋肉痛になったんだろうと思う。
自分の身体だというのに、使えていなかったところがたくさんあることに気づくのは楽しい。筋肉痛という症状が出ないと気付けないわけで、痛みも幸いである。
いつも日曜に行くお店が休館なので、レッスンがないのは残念だけど、自分の意思で休めない心理状態に入っているせいか、ああどうもありがとうお休みをいただけて、というような気分で悠々と昼まで寝ている。気付くと母より留守電が入っていて、用事がないから今日は来ずともよいとおっしゃっている。洗濯だけして、冷凍庫にあるものを食べて、ああみなさんお休みをくださってどうもありがとうとふたたび寝に入る。
どう違うかというと、深い呼吸をすると痛む。はじめての症状である。眠れない。
眠れないから、なんだろうこれは、と考えていて、首じゃないかと思いあたる。
首が回らない、というのは昔からの課題の一つであって、ああもちろん借金で、とかそういう比喩表現じゃなくて、物理的に首が回転する可動範囲が狭いという話。
美しく首が回るひとを見て、いいなあ、自分もくるりんときれいに回りたいなあと思う。
レッスンの待ち時間などにひまがあると首をごりごり回そうと試みていたのを哀れに思われたのか、先週先生がいきなり首を持ってぐるりんと回してくださったのにびっくりし(ああこんなに回そうとしないといけないのねと)今週、頭に一角獣のごとく斜めに角が生えてるとしてそれを持って回そうとイメージすべきであることを何か棒状のものを頭に当てて教えていただいて、おお、なるほど!と嬉しくなって、今週後半はしょっちゅう首を回していた。しかし、なにしろ背中が鉄板のように固かった過去があるので、首だけでなく、背中のまんなかあたりまでインパクトがある。
決め手は昨日のレッスンで、ある程度中腰の体勢から両手とともに頭を回すという振付で、これがほとんど無理です、首、上に回りませんという感じだったんだけれども、何回かやってるうちにかすかに動くようになり、その結果として筋肉痛になったんだろうと思う。
自分の身体だというのに、使えていなかったところがたくさんあることに気づくのは楽しい。筋肉痛という症状が出ないと気付けないわけで、痛みも幸いである。
いつも日曜に行くお店が休館なので、レッスンがないのは残念だけど、自分の意思で休めない心理状態に入っているせいか、ああどうもありがとうお休みをいただけて、というような気分で悠々と昼まで寝ている。気付くと母より留守電が入っていて、用事がないから今日は来ずともよいとおっしゃっている。洗濯だけして、冷凍庫にあるものを食べて、ああみなさんお休みをくださってどうもありがとうとふたたび寝に入る。
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