2019/09/07

polyphonic

金曜朝。ねぼけた頭で、週1日ぐらい休養日が必要なんじゃないだろか、と考えつつ、30分で食事とジム用荷物をまとめて家を出る。最近買いかえた大きいリュックには誰かに言われたとおり、「仕事以外のものしか入ってないだろ」。はいさようです。
short noticeですみませんがと夕方にテレカンが入っていて、案の定終了予定時刻から延長する。やっぱり今日は休めという思し召しであろうかと、とぼとぼ家路につく。改札を出たところで思いついてまたほぐし屋さんに行く。はじめて90分コースをためしてみる。極楽。左腰の「そこは筋肉のはずなのに骨状」のぐりぐりに集中攻撃。終わってみると、地面がふわふわ、ゆらゆらして普通に歩けない。いや地面じゃなくて身体がそうなんだと頭では思うけれども、相変わらず酔っ払ったみたいにふらふらしながら家にたどりついて、少し何か食べて、ねてしまう。
夜中に目が覚めて、仕事のちょっとしたことを思い出す。ちょっとしたことなのだけれど、ここで何もせずにそのまま忘れてしまったら、いざ事が起こったときに後悔するだろう。こんな時間に思い出してすみませんがと切りだして一本メールを打つ。安心してまたねる。
朝。ネコ歩きが録れている。「頭の上に乗られるのは久しぶり、しっぽが目の前にあります」とおっしゃりながら微動だにせずカメラを構える岩合さんが大好きである。
思いだして内田先生のVoiceについてのお話を読む。

これも多田先生から伺った話ですけれども、「声を出すときは、オールドバイオリンのような声を出さなければいけない」と。声が低くても、音量が小さくても、遠くにいる人の身体に浸み込むような声というのがある。先生は発声器官の使い方について言っているのではないと僕は思います。そうではなくて、「自分のボイス」をみつけなさいと言っているのだと思う。「自分のボイス」を見つけた人がその「ボイス」で語られた言葉は、できあいのストックフレーズや、何度も話して手垢のついた定型句とは全然手ざわりが違うからです。それはオールド・バイオリンの音色ように、身体に浸み込んでくる
「ボイス」というのは、自分の中に入り込んでゆく「回路」です。自分の中の、身体の深層に浸み込んでゆく。自分の身体に浸み込むことができないと「自分のボイス」は獲得できない。「身体の中に浸み込む」というのが「ボイス」の本質的な条件なんです。自分の身体の奥深くに浸み込むことで生まれた言葉は、他人の身体にも浸み込む。「ボイス」というのはそういう浸透性を持つ言葉のことなんです」(内田樹の研究室「Voiceについて」)

そこから話は「複雑化」という方向へ進む。自分のVoiceは多声的(polyphonic)なものであり、自我は首尾一貫していないければならない、のではなくて、成長とは複雑化である。この場面ではこの顔で、別の場面では違った顔でいる、そういう状況ごとの最適化が成長じゃないか、という話。引用したいけれど全文引用しそうなので、このへんでやめておく。読後、ああこれはわたしへのメッセージであると勝手に思い込む(そういうことがよくある)。
内田先生も相変わらず大好きである。
いろんな先生がたのボイスに励ましていただいて、おかげさまで多声的なわたしは今日も元気です。