2018/08/04

ストーリーを語りたい

金曜日になると疲れはててしまって、おとなしく帰って早めにねてしまう。
いつも昼までごろごろしてるわけだけれども、今朝は早く起きた。
ピアノリサイタルの録画をみていたら、たまたまプロコフィエフが始まったので、手を止めて見る。というか、聴く。
プロコフィエフというと、子供の頃に父に与えられたカセットにサンサーンスの「動物の謝肉祭」とペアで入っていた「ピーターと狼」のイメージが強すぎて、長いことノーマークだった。たぶんピーターのテーマがいま一つピンとこなかったのだろう。
当時はたぶんその近くに置いてあったラフマニノフの交響曲2番とホルストの惑星ばかり聞いていた。今の自分にはラフマニノフはかえってちょっと重い。ホルストは、どうだろう。よくわからない。
今かかっているのはプロコフィエフのピアノ協奏曲3番の3楽章、ピアノ連弾版。少し前に見たピアノコンクールのドキュメンタリーで、同じ曲を弾いた人が優勝していたが、あれはオーケストラだった。どちらもいい。
サンサーンスも同様で、動物の謝肉祭はやっぱりピンとこなかったわけだけど、交響曲3番のオルガン付きを聞いて、あ、長いこと誤解しててすいません、というような気持ちになった。
子供だからといって子供向けのものを与えれば喜ぶだろうという発想はやめたほうがいいよお父さん。まあ今さら言っても仕方ないけど。
あ、それで、そのプロコフィエフを弾いているピアニストがインタビューに答えて話していた。
自分は演奏そのものに興味はない。(演奏を通じて)その曲にこめられたストーリーを聴衆に語りたい。
それほどピアノに詳しいわけではないので初めて見るピアニストで、けっこうなお年の方だった。
確かに、ピアノに限らず、パフォーマンスそのものよりも、そこから立ちあがってくるストーリー、または思索の形跡とか志向性みたいなものに、より惹かれる傾向にある。
ある意味、パフォーマンスはそこに表現されたものがすべてであって言い訳はいらないわけだけれど、でもやはり、それはそうでなければならない理由がある、そういう類の作品が、アーティストが好きだ。