2019/08/18

ハイハット

自分の写真を自分はあまり持っていないけれど、親という生きものは子供の写真を大事に持っているものである。
今日、母が何を思ったか知らないが昔の写真をぞろぞろ出してきて(あの頃は)かわいかったわねえとおっしゃるので、どれどれと見てみる。親という生きものは何歳になっても親馬鹿である。
先日ふと思い出した赤い車の音楽の先生が指揮棒を持って写っている小学校の音楽会の写真があった。この音楽会が忘れられないのには理由がある。
わたしはスネアドラムを志望したのだけれど、選抜テストで次点となり(志望者は二人だった)やむなくハイハット担当になった。それだけでも十分不機嫌だったわけだけれども、機嫌を直して練習した(と思う、たぶん)。
当日、曲が始まってハイハットを叩きはじめたら妙な具合である。ハイハットという楽器は、ごく簡単にいえば2枚のシンバルを向かい合わせに重ねたような構造になっていて、2枚の間に隙間があるから、ペダルで操作して開閉しながらスティックで叩く。ところがその隙間ができない。そうか、音楽会の準備の時に音楽室から講堂まで運んだ時に、開いたままだとじゃらんじゃらんと鳴るし揺れるし運びにくいから、普段触らないネジの部分を操作して隙間を閉じてしまった。そのあと元に戻すのを忘れたのである。
曲が始まって手を動かしながらここまで考えが及ぶ間に曲の半分ぐらいまで終わっているわけで、今更ネジをいじって調整するわけにもいかない。たぶん指揮棒を振る先生に目で訴えただろうと思うけれども、その時先生がどんな顔をしたかは覚えていない。結局最後まで開かないハイハットを泣きそうな顔で叩き続けた。いや、もしかしたら泣いていたかもしれない。
そういう写真である。
今から思えば、運んだ後になぜ一回ぐらい叩いてみなかったんだろう馬鹿なやつ、と思うわけだけれども、みなさんがおっしゃるように、失敗というのは概してそういう(計画できない)ものなんだろう。
30年以上経った今、写真を眺めただけで、あの時の悔しさがフラッシュバックするぐらいだから相当悔しかったらしい。
大人になって妙に冷めたような、遠慮がちな顔なんかしていないで、思い切り悔しがって、それとひきかえに、何か大切なものを手に入れようと願ったっていいのかもしれない。たとえそれが叶わなかったとしても。
写真を眺めながらそんなことを考えた。