2010/03/21

頼りない生牡蠣のような

昨日も行ったファミレスで、3段重ねのパンケーキを食べる。ホイップバターとはちみつをかければ、大概の憂いは消えてなくなる。休日でも11時までは概して空いていて居心地がよい。
昨日ジュンク堂での待ち時間に買った茨木のり子『おんなのことば』をふたたび開く。冒頭に「自分の感受性くらい」が載っていて、これだけで買う価値はある。

「ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな 
みずから水やりを怠っておいて(…)

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
(「自分の感受性くらい」)

「縛られるのは厭だが 縛るのは尚 厭だ (…)

明朝 意あらば琴を抱いてきたれ でゆきたいが
老若男女おしなべて女学生なみの友情で
へんな幻影にとりつかれている」(「友人」)

「生きてゆくぎりぎりの線を侵されたら
言葉を発射させるのだ
ラッセル姐御の二挺拳銃のように
百発百中の小気味よさで」(「おんなのことば」)

「失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性 (…)

あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと…」
(「汲む ―Y.Yに―」)

生牡蠣のような、ときたところで、はまる。この組み合わせの妙。茨木のり子というひとの、この生活に根ざした母性と厳しさ、ふと湧出する烈々たる情感が好きだ。こんな言葉遣いのできるひとになりたい。