2009/11/14

隠喩としての病

池袋駅を横断して、ジュンク堂に行く。内田樹先生の新刊が目当て。しっかり仕入れる。

あとは、やたら高いスーザン・ソンタグの『隠喩としての病』を座して読む。書店に椅子があるって、本当に素敵。

ソンタグの名前を知ったのは割に最近だと思う。今日もこれ経由で杉本氏の講演を知ったという(会場で後姿をお見かけした)Brutus鈴木氏のブログだったような気もするし、松岡正剛の千夜千冊だったような気もする。ともあれ、今朝は千夜千冊『反解釈』のエントリーを再読して、ソンタグを見つけないと、とは思っていた。

長年癌を患ったソンタグは、症状等については触れることなく、あくまで隠喩としての病について論じている。たとえば、医学が発達する前はもとより、現代においてさえも、原因の分からない、または複数の原因が考えられるなどで、死に至る病気は、患者自身の何らかの罪に対する罰と考えられたり、または内面が病気として外面に現出したものと思われたりする。

また、社会の病巣、というような文脈で病が使われる場合、病の前提は「取り除くべきもの」であり、「戦うべきもの」と認識されている。医学の進歩を否定するものでは全くない。しかし、病と健康が共存している状態こそが自然の一部としての生命の状態なのではないかとソンタグは言っている(のだと私はおもう。)

ともあれ、長年病と付き合いながら、かくも潔い言説ができるソンタグという人を、もっと知りたいと思った。