2009/12/06

小さなヘレン・ケラー

今日はセイゴオさんの日だった。
朝、目覚めてテレビをつけたら、松岡正剛氏が根津美術館について語っていた。
それが松岡さんのコメントだったかどうかは忘れてしまったけれど、根津氏について、「私の中に公がある」と言ったのが、どことなく頭にこびりついていた。
それは例えば、白洲次郎や坂本龍馬などを連想するときの、人物の「器」というようなものにも、私の中では重なる言葉である。

そんなことを考えはじめたのは、ずいぶん他愛のないことだけれども、会社で社外にメールするときの「署名」がきっかけだった。
メールの文末には、会社名と自分の名前を連ねて書くのが普通だけれど、やりとりが頻回になってくると、会社名を省いて名前だけになることもある。いったん名前だけになってしまったやりとりに、あとから社名を付け加えはじめるのも、なんだか妙な感じもして、はばかられる。
個人事業主として仕事をしていれば、社の方針や都合と、自分のそれは合致している場合が多いから、そんなことは考えるべくもないのだろうけれど、一企業の社員として働いている場合、メールで伝える内容が、はたして自分個人の意見やポリシーなりと一致しているのか、意に反するけれども会社の見解や都合であるのか、会社としての正式回答なのか個人の意見を含むのかを、文末の名前の書き方によって暗示したいと考える向きもあるかもしれない。
システムの中での個とはなんなのか、なんて言葉にはなりはしなかったけれど、漠然と、先週は、そんなことを考えながら、仕事をしていたせいもあるのだろうと思う。

掃除洗濯を済ませ、布団を干し、昼ごはんを食べながら、ふと思いついて千夜千冊の最新ページを読みはじめた。ソロスの話だった。咀嚼しきれなくて何度も読んでいたのだが、やがて「リフレキシビティ」という言葉に、何かが反応した。
「システムにはそこに関与した者のバイアスがかかる、また関与した者の思考にはシステムからの影響が免れない。システムとその帰属者は両者ともに織りこまれた関係であり、ただつながっているだけではなく、「ゆらぎ」「誤謬」「負」をかかえたまま、全体と部分が、領域と参加者が、制度と実態が、互いで互いをハウリングしあっている。しかもそこにはフィードバック・ループがある。いったんシステムの内から外に出た情報が、どこかでシステムの中に再帰し、その再帰した情報が外の観測者に影響を与えているわけなのだ。それが複雑に繰り返されている。」(千夜千冊から大意を引用)

仕事の中で使う言葉というのは、現状を伝えるだけでなく、将来的に予測される事態の保険なり担保として機能する場合も多い。ただ単にご丁寧で長たらしい文章であるということに意味は殆どないと思っているので、なるべく簡潔にしたいのだが、そういう将来的な意味合いを含むときには、言葉選びは回りくどく、慎重にならざるを得ない。

しかし。投資家にとっての関心事が将来の株価なりであるのと同様、将来を織り込む言説を述べる場合においては、どんな言い回しをしようとも、その前に行なわれた推測が、将来の推測にバイアスを加え、そこにシステムが加われば、更にいくつものフィードバックバイアスがかかるのは極めてフツーのことなのだ。
(これは実にあたりまえのことではあるけれども、目からウロコだった。しかし、ということはつまり、推測しないですむ場合においては推測しない(すなわち客観的事実を限りなく推測を排除して伝達する)ことが最も安全策であることも理解される)

松岡氏は冒頭において、ソロスについて持っていた印象が間違っていたことを告白している。「1、きっと思想は思想、ビジネスはビジネスというふうに切り分けていたのだろう、2、ビジネスの成功には思想は必要だったろうが、その交じり具合はせいぜい20~30パーセントくらいだろう、3、金融資本と市場の変化と世界情勢の転換のたびに、ソロス・ビジネスの展開にそった思想をつくってきたのだろう。」
この3つはいずれもペケだった、ソロスは「思想=ビジネス」だった、と述べている。

「参考情報」の項は小文字ではあるけれど、注目すべき箇所である。
ソロスの信条を示す友人の言葉として、下記を引く。「ソロスは自分の努力を抽象化すること、それを定義することに集中した男だった」。また、ソロス自身の言葉として「私は自己の存在というものを意識したときから、自己を理解することに激しい情熱を燃やし続けてきた。そして、自分自身を理解することこそ最大の課題で、最大の利益目標であると確信するようになった」。

ここまで読むに至って、私は、ソロスという人物が好きになってしまった。頭の中の「ソロス」の項に、フラグが立つ。

仮説形成(アブダクション)のリンクから、気がついたらパースに飛んでいた。その頃には、もう陽も傾いて、干した布団も冷たくなっていた。慌てて取り込む。
パースにいたっては、松岡氏はほとんど絶賛ともいえる賛辞を呈している。氏の編集工学にぴたりとマッチした言説である。それはこの言葉をもっても知れるにちがいない。
「もっと端的に結論づけてもいい。パースにとっては【意識とは推論そのものなのである】と。」
「こんな文章がある。「感情(フィーリング)、他者についての感覚、そしてこれらに媒介すること。この三つのほかに意識の形式はない」(7・551)。いったいこのメッセージに何を加える必要があるだろう。これで十分なのだ。「知覚者によって知覚されていないことがある。それは知覚者が何を知覚しているかということである」(5・115)。まさに、この通りだ。この問題以外に、脳科学者や認知科学が考えることがあるのだろうか。「思惟と論理は不可分の関係にある。なぜなら人間の思惟は類似を通して前に進んでいるからだ」(5・108)。」

ヘレン・ケラーがwaterという語を理解した時の逸話を引いてから、こう述べている。
「われわれの【知覚と推論はいつだってヘレン・ケラーの断片の再現なのである】。新しい世界や未知の現象や知らない言葉に出会うたび、われわれは小さなヘレン・ケラーを通過させているはずなのだ。このことは、パースのアブダクション理論には、知識というものの本来の謎を解こうとする計画があったということを示唆している。パースは知識がどのように連環的な総体に向かっていくのかということを研究したかった哲学者であったであろうことを示唆する。パースはいつからか、ヘレン・ケラーのようにひとつずつの記号と知識がアブダクティブに統合されていくならば、どんな断片的知識もやがてそれらが連合して確固たる世界観を形成するはずだという計画を思いついていたのだ。これはぼくにいわせれば【編集的世界観をどのように形成されうるか】というプログラムの確立にあたっている。」

いや、ほんと、もう感動。「小さなヘレン・ケラー」なんて、表現が素敵すぎるし。
パースってすごい。っていうか、やっぱり、松岡正剛だなあ。
休日のしめくくりに、ナイスな文章に出会えて嬉しい。
なんだか、ヘレン・ケラーがたくさん来てくれたようで、元気が出ましたです。はい。