2009/12/13

Calling

年内に内田先生のライブなお話をもう1度聞けたら良いけれどもなあ、と微かな期待を胸に紀伊国屋ホールに行ったら、嬉しいことに当日券が手に入った。
相変わらず、軽やかにお話が展開するが、やはり贈与経済のお話が強く残った。
その商品を持っていることが自分が何者であるかを示す価値、というのが象徴価値であり、you are what you buy 的思考が無限の消費行動を誘発する。なぜ無限かというと、自分が何者であるかを有限な所持品で示すのは不可能だから、なんだけれども、何故かそれに気づかないまま、人々はマーケットに踊らされ、無限の購買活動をさせられる。
いいかげん、その不毛なループから脱却して、必要な人に必要なものが与えられる、贈与経済へ。それは、革命的な、最も収奪されている人が救われる劇的、革命的な変化でなくてもよい。ある意味、その人の周りの人しか救えないという残酷さ、矛盾はかかえていたとしても、自分の支えなければならない人の顔が浮かぶ人が、その人に適切に贈与することから、まず始めるしかないのではないか。
贈与経済の困難は、実は、身の丈を越えたお金が手に入ったときに、適切な相手に適切に循環する形でお金を贈与することができる人的ネットワークを構築しておくことが難しいからであって、お金がないときからそういうネットワークを作っておかないとダメなのよ、というお話で、熱く収束する。

いろいろ考えた。20代をそういう農村的贈与経済ネットワークみたいな中で過ごして、あまりの閉塞感に耐えられなくて全部ぶっちぎって東京に帰ってきた人間としては、耳の痛いお話でもあるので、そこはあまり、つっこんで考えられない。

お話の途中、象徴主義の購買行動というお話を聴きながら、購買行動を「仕事」に置き換えて考えていた。キャリアを自分とは何者かを示すもの、と考えた場合、やるべきことは無限になる。身の丈に合わない要求に応じなければならない事態が生じる場合もある。誤りを率直に認められない場合、往々にして本人がそれを自己否定と勘違いするせいでもある。率直でありたい。仕事を通じて自分の「ものさし」を鍛えるようでありたい。しかし現実は。時々、そういう困難なり限界を感じることがあるような、気もしていた。そこに最後の質疑応答でのCalling という言葉が重なった。仕事とは、そんなあなたに来てほしいと、相手から呼ばれるもの。だからCalling。

だとすれば。
わたしはわたしのままで、かくあるしかないのではないだろうか。
今の場所にこだわって、身の丈以上のことをする必要もない。別の場所で、別の貢献の仕方を考えたってよい。それは必ずしも、ひと思いに転職、ということではなく、現状維持しつつ、別の枝を伸ばすことである。
それは諦めや怠惰に流れるというよりはむしろ、軽やかな楽観主義ともいうべきで、一条の光をその先に見るような気がしている。やっぱり、先生のお話を聞けて、よかった。