2009/12/05

Never know where I am going

久しぶりの、もぎけん先生朝カルに行く。
最近は、3回シリーズのうち1回は対談になっていて、残りの2回が講義形式。講義といっても、当然先生の脳内フローのまま、いろんな内容が、かつ結び、かつ散じつつ、混じってくる。昨日もワグナーのオペラとか、小津の映画を挟みながら、でも必ず、脳科学関連の英語の論文を解説していただけるのを楽しみにしている。
大学に行くとか行かないとか、大学の時に勉強したかどうかなんて、もうどうでもいいじゃん、今は全部ネット上にあるんだから。(やりたければ、自分で勝手にやんなさい、)と先生は常々おっしゃっていて、大学院なんて行けそうもない、しがない派遣社員としては、その言葉だけが励みなわけだ。

ところが、先生が選んだ論文や、たまにブログに載っている、brain clubの人たちの論文は面白いのだけれど、自分で適当に探して読んでも、労力の割に実がないので、最近は自分で探すのを投げてしまっていた。しかし。投げてはいかんなあ、と思う。
だって、おもしろいんだもの。

クオリア日記にも載っていたair puffの論文から、コントロール実験を考え付くことの難しさと、それこそが科学的思考なのだ、とコメントされる。
そうなのだ。科学実験は、比較試験を、まず理解するのが難しいと思う。まして思いつくのは、僥倖にも似た、たいへんなことだろう。
前に血管内ステントの臨床試験の事務にいた頃、治験概要書とかをワケが分からないなりに文字面を追っていて、当然何版も改訂されるから、何度も校正をやるうちに、少しずつ概要がつかめるようにもなったりするのだけれども(とはいえ、いわゆるケミカルの作用とかが理解できないのは当然として)、治験の比較試験などというのは、プラシボを使う、とか、実に設定が明解なのに比べて、科学実験の対照試験は、想像力とか発想力の領域、レベルが違うように感じる。
論文を読みながら、いつも仕事などでは絶対に使わない思考回路が働いている感じがする。
そこが「いまの自分」から脱出、脱藩する快感なのかもしれない。
もっと脱藩してもいいな。

先生は、オスカー・ワイルドの獄中記を引用された。
A man whose desire is to be something separate fromhimself, to be a member of Parliament, or a successful grocer, or aprominent solicitor, or a judge, or something equally tedious, invariablysucceeds in being what he wants to be. That is his punishment. Thosewho want a mask have to wear it.But with the dynamic forces of life, and those in whom those dynamicforces become incarnate, it is different. People whose desire is solely for self-realisation never know where they are going.

自己自身になろうとする人間は、どこへ行くか分からない。
いいですね、この言葉。

相変わらず、先生は、とっちらかっていらっしゃるのだが、もう既に、それでいい、というよりも、そこがいい、としか言いようがない。
たぶん、あの教室にいた人はみな、そう思っているんじゃないかな。